さあ台輔、戻りましょう       NEXT(秘密)へ

(何で!?どうしてこの人がこんな所にいるのよ!?)



傭兵を殺人鬼へと仕立てている組織に潜入できればと思い、自分に声を掛けてきた男の誘いに乗った。
だが着いてみれば其処には知った顔があったのだ。
てっきり組織の根城に潜り込めたと思いこんでいたの思惑は、大きく裏切られる形となってしまった。







座っていたもう一人の武人らしき男がに視線を向けた。
「それで?後ろにいるのは新しい傭兵か?」
「はい」
「へえ、女性か。悪くないな。それじゃ簡単に説明してやるとするか。おい、そんなとこに立っていられては話が遠い、もっとこっちに来い」

予想外の出来事にさすがのも動揺し、俯いたままだった。
(きっと、いや絶対にばれないはず!向こうは私のことなど覚えてるはずない!)
そうあることを信じ、数歩前に歩み出る。





・・・視線を感じる。

俯いたまま、ちらと官服の男を見ると、男は顎に手を当て何か考え込んでいるようだったが、ふと顔を上げた。
「傭兵・・・か。ああ、そうだ。確かお前、和州の乱の時にのところに居なかったか?」
(うっ!ばれてる、何でそんなこと覚えてるのよ〜〜)
「っ!?・・・あ・・・その・・・勘違いじゃないですか?」
「いや、あの男所帯のむさ苦しい中で一際目立っていたからな。美人だし腕が立つしとも一目置いていたようだから覚えている、間違いない」

何とか誤魔化し通せないかと考えるが、男の中では既に確信になってしまっているそれを覆すことは困難だ。
こうなったら開き直った方が楽だ、と無理矢理引きつる筋肉を動かし、笑みをつくる。
「あの・・・はい、確かにいました」
「やはりな。・・・で、名は何といったか」
です」
「ああ、そうだった。とはよくよく縁があるようだ」
(うぅ、そんな縁なんて無くていいのに〜。。。)

そんな二人の会話を聞いてた武人風の男は「ほお、あの乱でねえ・・・こりゃ期待できそうだな」などと勝手なことを言っている。

今程自分の行動を深く後悔したことはない。
和州の乱の時、確かにの所に居た、だが数多いる傭兵の中には他にも女性はいたし、黙っていれば決して目立たなかったに違いない。
しかしはその美貌と見事な剣技のため、常に傭兵仲間達に言い寄られてうんざりしていた。
そして剣で勝ったら相手になってもいいなどと息巻いては悉く男達を打ちのめしていたのだった。
そんなことをしていて目立たないはずがなかった。
今更後悔しても後の祭りである。

無意識のうちに溜息が零れてしまい、はっとする。
そんなを見て武人風の男が首を傾げた。
「どうした。今から説明するからよく聞いておけ」
「あ、はい」
うむと頷き男が説明を始めた。





和州では乱の後、州侯が柴望に代わり安寧を取り戻し、要衝として繁栄しつつある。
呀峰以下奸臣も排除され、ここ数年は大事もなく平和だったのだが、最近州内で傭兵が忽然と姿を消すという怪事件が頻発しているらしい。
そして先日、堯天で殺された殺人鬼が姿を消した傭兵の一人だったことが判明したというのだ。
私腹を肥やすことに慣れ、野心に貪欲な残党が動き出したかもしれないということだった。

は黙って聞いていたが、ふと浮かんだ疑問をぶつけてみる。
「あの・・・何となくわかりましたけど、州侯自らがこうして傭兵を集めるというのは・・・しかもここは堯天ですし。まさかまた何か企んでいるんですか?」
なるべく専門用語を使わないよう言葉を選び、傭兵らしく振る舞う。
不躾なの物言いに誡めるでも呆れるでもなく、くつくつと笑いが返ってきた。

「面白いことを言う。傭兵から金以外の質問をされたのは初めてだ」
「・・・はあ、すいません」
「いや、構わんよ。・・・実はな、どうやら内通者が居るようなんだよ」
「内通者!?州城にですか?」
「ああ、どうもそうらしいな。それで今回集めた傭兵には五名単位で動いて貰い、敵の巣を手っ取り早く探して貰いたいんだ。もちろんこちらの信用できる麾下を付ける」
「つまり・・・囮、というわけですね」
「そういうことだな」



「さて、ここまで話して断るというのは無しだぞ、いいな」
「もし嫌だと言ったら?」
「事が終わるまで大人しくしててもらうまでだ。口外されてはたまらんからな」

はあからさまに溜息をつき、ずっと横に立っている案内役の男を睨む。
「嘘つき・・・話を聞いてから決めればいいって言ったくせに・・・これじゃ強制じゃないですか」
だが男は知らん顔だ、それを見て柴望と武人風の男がぷっと吹き出す。
「嘘はいかんな、嘘は・・・。まあ確かに、何としても今日中にもう一人腕利きを連れてこいとは言ったがな。それじゃ、明日振り分けをするから院子に来るように」
「・・・わかりました」

は仕方なくといった風で渋々了承の言葉を口にした。
しかしそれは勿論表面上であって、内心ではこの好機を喜んでいる。
やはり殺人鬼絡みだった、しかも当初の予定では探りを入れるにと止めるつもりだったが、和州侯である柴望が動き出しているとあらば、上手くいけば一気に組織を壊滅に追い込むことも可能だ。
勿論柴望もそのつもりだろうし、事の運び具合を見て終局前に離脱し、陽子に報告すれば、下された”調査”という命の範疇を逸することなく任務を完遂出来る。



(残党・・・か)

もしかしたらこうなるのがわかってて浩瀚は一番信頼できる柴望に和州を託したのかもしれない。
それにしても一時は的を外したかと思ったが、意外なところで先が見えてきたものだ。
和州で傭兵を集め飼い慣らし、何か事を起こそうとしているのは確からしい。
ならば堯天での殺人鬼騒動は傭兵の出来を確かめるのが目的だったのだろうか。

堯天で殺された唯一の手がかりである殺人鬼・・・それは紛れもなく自分が屠った男なのだ。
(誰も知らない、殺人鬼が鍛えられた兵士でも相当手強いってことを)
そんなのが何人もいたら死傷者が出るかも知れない。
・・・やはり、言うべきだろうか。

確実に仕留めなければこちらがやられる。
腕利きの傭兵はともかく、兵士がどれだけの腕をもっているのか、実践経験豊富な傭兵は殺すための剣というものが身に付いている、だが兵士は型にはまった訓練はしていても実践経験が無ければ意外に脆いのだ。
は深く溜息をついた。














翌日、院子では傭兵の振り分けのための簡単な試合が行われた、各組の力に偏りが出ないようにするためらしい。

集められた傭兵は二十名、五名一組で和州内の傭兵が消えた場所を中心に四カ所に置かれることになっている。
試合が終わるとその場で振り分けられ、解散となった。

は房間に戻らず、此処の司令部であろう昨日説明を受けた房室へと向かった。
扉は開いていて、武人風の男が方卓に座っていたので声を掛ける。

「あの・・・ちょっといいですか?」
「ん?どうした。話があるならこっちへ来て座れ」
「・・・はい、じゃあ失礼します」

この男もまた州軍籍にある者だろうに、奢った風も堅苦しく形式張った素振りも見せない。
その気さくさはやはり柴望の下にいる所以だろうか。

「あの、・・・殺人鬼のことなんですけど、何か知ってます?」
男はが何を言いたいのか解らず、僅かに首を傾げながら目を瞬かせた。
「何かって何だ。・・・そりゃまあ、噂ぐらいは聞いているが、実際に見たわけでもないしな。もう少し情報が欲しいところだな」

・・・やはり、と思う。

「そうですか。私、ちょっとなら知ってますけど」
「え?・・・知ってるって、一体何を知ってるんだ」
「えっと、まず普通の人間とは違うってこと、要するに正気じゃないんです。それで信じられない程馬鹿力で、どんなに傷を負っても平然としてるんです」
は出来るだけ悟られぬよう、慎重に言葉を選びながらぽつりぽつりと話した。
そんなの話を聞いて男は呆気にとられている。

「・・・・・なんだそれ・・・それじゃまるで化け物みたいじゃないか」
「そうなんですよね」と苦笑する。
あれは正しく化け物だった。

「それに、今の話を聞いてると確実に殺さなくてはこっちがやられるってことになる」
「・・・そういうことになっちゃいますよね」
は否定できず、困ったように苦笑する。

冗談だろう、と笑い飛ばされると思っていた。
だが男は意外にも真っ向からの言葉を受け止め、その表情を曇らせている。
そんなにあっさりと他人の言葉を鵜呑みにしてしまって良いのか、と此方が心配になってしまうくらいだ。
それでも被害を最小限に食い止めたいと思っているには、男のその真摯な姿勢が有り難かった。

「何とか殺さずに済む方法はないのか」
「・・・さあ・・・」
それがわかれば殺さなかったし、私に聞かれても困る、と内心で思いながらただただ苦笑するしかない。
剣を振るう腕、そして足の腱を断ち切ればやられずには済む。
だかしかし、それだけの傷を負わせてしまえば結局、死に至らしめることにもなる。

「それにしても・・・そんな情報を一体どこで仕入れてきたんだ」
それは言葉通りの単なる素朴な疑問などではなく・・・。

に向けられたその眼差しは明らかに探りを入れる色を孕んでいて、その眼は「正直に全て白状しろ」と言っている。
さすがは柴望お抱えだけのことはある、やはり単なる馬鹿正直などではなかったのだ。
軍にありながら聡明さも兼ね備える彼は、恐らく州司馬といったところだろうか。

「それは・・・えっと・・・実は私、殺人鬼と剣を交えました」
この男に下手な誤魔化しなど通用しない。
そう悟ったは、降参と言わんばかりに肩を落とし、嘆息する。
それでも決して自分が殺したとは明言しないだった。

「・・・はっ!?」
やはりというか、当然の如く男はの言葉に驚愕し、素っ頓狂な声を出す。

恐らく男の頭の中では、”争いの現場を目撃して”とか”偶然現場を目撃した知人から聞いて”とか、そんな返答がくることを想定していたに違いない。
期待を裏切られた事が余程衝撃だったのか、はたまた自分のような小娘が殺人鬼と対峙したことが信じられないのか、男は大きく見開いた眼を瞬きも忘れたかのように動かさずにを捉えている。

男は暫く固まっていたが、漸く我に返り、一度視線を逸らせると再度をじっと見つめ、確かめるように言う。
「お前と、殺人鬼が・・・それはつまり、先日の死体は・・・お前がやったと、思っていいのか」
ゆっくりと一言一言噛み締めるように言葉を紡ぐ男に、は曖昧な笑みを浮かべ、肩を竦めて見せた。
「ん〜、そこら辺はあまり深く追及されても困っちゃうんですけど・・・私一人だったら、今ここには居ませんね」
それを聞いてやっと男は何かを納得したようにから視線を外し、椅子の背もたれにその身を預けた。

「そうか、お前程の腕でも・・・。嘗めてかかると危険だということだな。どんな相手かわかっただけでも指示を出しやすくなる。ありがとうな」
「いいえ、でも、・・・出来れば、殺したくなんかないですね」
「・・・そうだな。だが大事になる前に最小限の被害で済むのなら、やむを得ないのかもしれん。・・・そのためにも頑張って貰うぞ」
男がの肩をぽんと叩き、もそれに答えるように頷いた。














翌日、傭兵達はそれと悟られぬよう、各自別行動をとりながら和州へ入った。

陽が落ちる前に指示された場所で合流し、敵の誘いを待つことになっていた。
達も指示された酒場が立ち並ぶ路地の一角で屯して談笑する。
この場所は酒場の中でも奥まった所に位置していて一際治安が悪い、傭兵が消えた数もこの場所が一番多かった。

酒を飲みながら自慢話をしたりして和んでいると、数人の傭兵らしき男達が声を掛けてきた。
達にも持っていた酒を振る舞い、会話に入ってくる。
(なんだ、ただの流れの傭兵か。邪魔しないで欲しいんだけどなあ)
そう思いながらも談笑は続く・・・と思われたが、やがて一人が黙り込む。
「おい酔ったのか?・・・寝ちまったぜ」
そう言いながらまた一人がことんと横になって寝始める。
も徐々に睡魔に襲われ頭がぼーっとしてきた、意識が遠退いてゆく。
(・・・っ、そういうことか・・・やられた・・・)



「おい、起きろ」
「・・・う、ん〜・・・」
「おいおい、そんな色っぽい声出してる場合じゃないぜ」

身体を揺すられて目を開けると、呆れ顔の仲間の顔があった。
まだ少し頭が重いが何とか覚醒する。
「・・・なによ、襲おうとでも思ったの?」
「ふざけたこと言ってる場合か。それに俺はまだ死にたくないんでね、お前に手を出そうなんて馬鹿なことはしないさ」
「それは賢明ね」

周りを見ると鉄格子に囲まれており、その中に自分達五名と別組の五名も一緒だった。
自分達が連れてこられたことによって、尾行役の兵が場所を本隊へ報せているに違いない。
場所さえわかれば、例え内通者が居ようが軍を動かしてしまえばこっちのものだ。

は腕を上げて大きく伸びをし、「さてと」と立ち上がると入り口の鍵を確認する。
「誰か脱走経験のある人いる?」
一同が首を横に振る。
「しょうがないな〜・・・う〜ん、出るの無理かな、結構複雑だな。剣もとられちゃったし・・・」
そう言いながら髪を解き、結っていた組紐の中から短い針金を取り出すと鍵を開けにかかった。

「・・・おい、お前脱走したことあるのか」
「ないよ」
即答したに男は額を押さえ溜息をついた。
本当はあるのだが、今は無駄口を叩いている場合でもなければ脱獄秘話を語っている場合でもない。

「よし、私って天才♪」
しばらく鍵と格闘していたがぽつりと言い、次の瞬間カチャリと音がした。

ほお〜、と一同から感嘆の声があがる。
男達が立ち上がって出ようとするのをは即座に手で制した。
「待った。・・・わかってると思うけど、もう一度確認しとくよ。普通の人間は出来るだけ殺さないように。あんた達も素人じゃないんだから相手の目を見ればわかるよね」
男達は黙って頷く。

「応援が来るまで無茶はしないでね。えっと、十名いるから・・・とりあえず武器の確保が第一。あ、でも私達への命はあくまでも囮だから、極力戦闘は避けて無事に州師と合流することだけを考えてね。皆ではぐれないようにしながら建物の外に向かう。こんなところかな」
「・・・あのさ、出口はわかってるのか」
「わかるわけないでしょ」
「・・・じゃ、どうやって出るんだ」
「勘」
「・・・・・」
男達の沈黙を無視し、鉄格子の扉をゆっくりと開ける。
「じゃあ行くよ」





鉄格子の房室を出るとすぐに階段があった。
用心しながら階段を上がると扉があり、息を潜めて扉の向こう側を探る。
物音は聞こえない、人気も無さそうなのでゆっくりと開けてみる、一見して書房のようだが誰もいない。
棚に目をやると運良く剣が積まれていた、その中に自分達の剣を見つけ各自手に取った。

房室の外に人がいたのだろうか、達のたてる音と声に気づいたのか数人の足音と共に俄に騒がしくなった。
「来るぞ!」
横にいた男が押し殺した声を上げる。
それを合図に一斉に剣を抜き構える、同時に扉が開き、敵が雪崩れ込んできた。

入ってきたのは八人、殺人鬼ではない。
急所をはずして斬りつけ、柄で突き昏倒させ、あっという間に片づけると房室を出る。
遠くで喧騒が聞こえるが、達のいる辺りは静かだった。
「軍が動き出したのかもしれない、外へ急ごう」

喧騒のする方向へ走り出し、廊下を曲がると出口はもう近いようだ。
廊下を曲がり際、ふと視界の端を過ぎる人影に気づき足を止めた。

何か妙に引っ掛かるものを感じ取ったは、出口へと走る男達をそのままにして、踵を返し、今来た方向とは逆の方へ曲がり人影を追う。
不意に後ろに気配を感じ振り向くと、何か箱のようなものを手に持った男がに気づき「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。
恐怖に震えながら後ずさる男に近づき、鳩尾に一発くれてやると敢え無く崩れ落ちた。
男が手にしていた箱が床に落ちて割れ、中からさらさらと流れ出てきたのは白銀の粉だった。

(まさか・・・これが『死神』か!?)

振り返り歩き出し、先程走り去っていったもう一人の男を追う。

最奥の房室に入るとそこにいたのは走り去った男ともう一人、四十歳前後の一見官吏らしき男が大きめの窓から逃げようとしていた。
やはり箱を持って立っている男を無視し、窓に足を掛けようとしている男を引きずり降ろすべく服を掴んだ。
に服を引っ張られた男は体制を崩しかけながらも素早く剣を抜き、斬りかかってきた。
難なくそれをかわすと箱を持っていた男もいつの間にか剣を手にしており斬りつけてくる。
だがそれをあっさりと躱し、鳩尾を柄で突くと男は呻き声を上げながら崩れ落ちた。

「なかなかやるな、だが、邪魔はさせぬ」
官吏らしき男が再び剣を振り下ろす。
それを受け流し、が下から斬り上げる、が男もそれをかわした。
剣がぶつかり、がそれを流そうとした時、不意に男が「か」と呟いた。
(・・・っ!?何故私の名を・・・)
見ず知らずの男に突然自分の名を呼ばれ、一瞬できた隙をついて男が剣を絡め取り、剣がの手を離れ、鈍い音を立てて床に転がった。

の喉元に剣を突きつけたまま、男は確かめるようにを見る。
「やはり・・・お前、なのだな」
「・・・どうして、私の名を知ってるの。私は貴方なんか知らない」
「ほお、自分の兄の顔を忘れたか。尤もお前とは違い、私は歳をとったから仕方が無いかもしれないがな」
眼を細めた男とは対照的に、の瞳は見開かれていた。

「・・・う・そ・・・だって、兄さんは・・・死んだ、はず・・・」

「嘘ではない、こうして生きている。そして・・・お前をずっと捜していた」
「私を・・・?」
「そうだ、お前が必要なのだ。その様子だと、どうやらまだ自分の秘密に気づいていないようだな」
「私の、秘密って・・・何のことです」
「ふふ、やはり知らぬか。まあいい。この兄と共に来てくれるな?」
「・・・嫌です、行きません。たとえ兄さんだとしても、こんな事して良いわけ無い。何の罪もない人の命を・・・、どれだけの人を殺せば気が済むんですか。一体、何を考えているんですか」
そう言ったの声は、再会の喜びを実感出来ぬまま、怒りと悲しみ、複雑な思いに震えていた。

走ってくる複数の足音と甲冑の擦れる音が聞こえてくる、軍の兵だろう。
男は剣を収めると「必ずお前を手に入れる」と低く言い残して姿を消した。
は自失し追うこともできず、ただその場に立っているのがやっとだった。





建物から外に出るとそこには悲惨な光景が広がっていた。
地面は赤く染まり、あちらこちらに転がっている死体はおそらく殺人鬼と化した元傭兵だろう。
傷を負った者や後始末に駆け回る者もいる。
それらをぼんやりと眺めながら、は一人、堯天に向けて歩き出していた。








宿舘に戻り、自分の房間に入るとそのまま倒れるように臥牀に身を投げ出す。
「・・・・・兄さん」

約百年前、内乱の最中に家族は全員死んだと思っていた。
当時大学に入りたてのは寮にいたので、報せを聞いて自宅に帰った時には既に葬儀が終わった後だったのだ。
十九歳、兄は二十三歳だった。

家は焼け落ち、何もかもを失い一人残されたは大学を辞め、当てのない旅に出る。
幼い頃から武官だった父と兵卒の兄に剣を教えて貰うのがの遊びだった。
それを活かし、各国各地で雇われ傭兵をして稼ぎながら生きてきたのだ。

瞼を閉じると優しかった兄の面影が浮かび上がる。
の中にある蒼く澄んだ優しい兄の瞳は、兄だと名乗ったあの男のそれとはあまりにも違っていた。
澄んだ蒼は淀み、優しさの欠片もなく鋭く刺す野獣のような瞳。
閉じた瞼から頬を伝い、涙が褥に落ちて染みを作っていった。