さあ台輔、戻りましょう                 NEXT「蝕まれゆく国」へ
通行人のいない廻廊。
一本の朱塗られた太い柱の影に佇む男がいた。
その人物の視線はある一点に注がれている。
鍛錬場では、そこかしこで兵士達が鍛錬をしている様子が窺える。
剣を交える者、体術に磨きをかける者、日陰に入り汗を拭う者・・・。

そして、手の空いている者もそうでない者も食い入るように見つめる中央では・・・。
体躯の良い男と華奢な少女が見事なまでの剣技を繰り広げていた。

木刀を手に打ち合うその姿は一見常と変わらぬように見える。
だが、その男には分かっていた。
武術に携わる者だからこそ見抜ける。
いや、携わっていたと言うべきだろう。
彼はかつて数々の武勲をあげてきた強者だった。
そんな彼が今では文官としてこの王宮にいるのは、彼自身が剣を捨てたからに他ならない。
「気が乱れておりますぞ、主上」
柱の影でそう呟きながら、男は僅かに口端を吊り上げた。










「はっ!やぁーっ!」
カン、カンと小気味よい音が鍛錬上に木霊する。
「まだまだです。そこ、左が甘いですよ。もっと力を抜いて!」
禁軍左将軍である桓たい直々に剣の指南を受けているのは、この国の王である。

「そろそろ息が上がってきましたね。今日はこの辺にしておきましょう」
「・・・ああ、そうだな。お陰ですっきりしたよ」
肩で息をする陽子に対し、桓たいは涼しい顔のままだ。
さすがは腐っても将軍である。

まだ物足りない気分ではあったが、これ以上将軍を独り占めしては申し訳ないし、体が休息を欲しているのも事実だ。
それに何より、どうにも集中できず政務を途中で放り出してきてしまったから、最低限急ぎの書類だけでも片付けてしまわなければいけない。
「さて、気分転換も出来たし、ちゃっちゃと書類を片づけてこようかな」
そう言いながら内殿へと戻っていく王の背を、桓たいは苦笑混じりで見送った。





手巾で汗を拭きながらふと気配を感じ、桓たいはちらと視線を上げた。

「どう思われます?」
唐突に声を掛けられ、王を追っていた視線を桓たいへと向ける。
「どう、とは?」
「ご覧になっていたのでしょう?久しぶりに主上のストレス発散に付き合わされましたよ」
「そのようだな」
素っ気ない返事に桓たいは思わず、ふっと息を吐いた。
「久しぶりだからといって腕が落ちたわけではありません。まあ確かに多少は筋力が落ちているでしょうが、そんなことではなく・・・」
貴方も気付いておられるはずだ、と桓たいは心の中で呟く。
「・・・何か、あったのですか?」

桓たいが王の剣筋のことを言っているのは明白だ。
確かに先程の王は、見る者が見れば当たり散らすように木刀を振り回していた。
明らかに集中しておらず、気が乱れていたのだ。
「さあな」

桓たいの探りにも表情をぴくりとも変えない。
だが、これまで幾度となく聞いてきた何の変哲もないその言葉に、ほらきた、とばかりに食い付く。
「浩瀚様、貴方の”さあな”は曲者ですよ。そうやってとぼけるときはいつも何かあるんです。そうでしょう?」
伊達に長い付き合いではないということだ。
王と剣を交えた桓たいには木刀を通して王の感情が伝わってくるから、何かあったに違いないというのは既に確信だ。

「何もない。・・・今はまだ、な」
そう言い残して背を向けた浩瀚に、桓たいは徐に肩を竦めた。
そう易々と聞き出せるなどと期待はしていなかった。
必要であればこちらが聞かずとも指示を下してくる、そういう御方だ。
「下手に動くな、気付かない振りをしていろ・・・ってことですか」
桓たいは小さくぼやき、何事もなかったように再び鍛錬場へと足を向けた。










王の使用する食器は基本的に全て銀製。
それは銀が毒物によく反応し色が変わるからだ。
だから歴代の王もまた銀の食器を当然の如く使用してきた。

しかしある日、王の側仕えであるは僅かな異変に気づいたのだ。

その日の菓子は梅花を模した細やかな飾細工が施されていた。
その美しさに感嘆し、思わず皿ごと手にして鑑賞していたのだが・・・・。
「まあ、とても綺麗、食べてしまうのは勿体ないわね」
高貴な身分の御仁のためだけに作られたそれをが口にすることなど到底有り得ない。
「・・・ん?・・・穴?」
ふとした拍子に目に止まったそれは余程凝視しないと分からぬ程小さく、見つけた自分を褒めてやりたいと思ってしまったほどだ。

何か菓子の中の餡に液状のものを入れたのだろうか?
菓子を担当している料理人は工夫を凝らすのが好きだ。
ならば餡の中に更に蜜を入れるなどの細工を施す可能性もある。
そう思いながらもは少し離れたところにあった冢宰の膳に乗せてあった同じ菓子を検分する。
「こちらには、開いていない」
・・・とすると、この小さな穴は料理人の細工の跡ではないということか。
些細な疑問は次第に良からぬ疑念へと変わり、は意を決して王と冢宰の菓子をこっそりと入れ替えた。

菜の入った全ての食器に何らおかしな点は見受けられない。
そして菓子の乗った皿もまた、常と同様美しく銀の色を閃かせていて・・・。
だがはそこに、普通では有り得ないだろう可能性を見出してしまったのだ。
もし、菓子の中に直接何かを混入させたとしたらどうだろうか。
食器に触れることなく毒を盛ることが出来たなら・・・。

はすぐ側で作業をしていた朔柚にさり気なく近づき、耳打ちした。
「朔柚、御願いがあるの。今日の主上の膳を貴方に頼んでも良いかしら。私は冢宰の膳を運びたいのだけれど・・・」
の言葉に朔柚は一瞬手を止め、「えっ?」と訝しげな眼差しを向けた。

王の膳を運ぶのはの仕事だ。
それはここ十年以上変わらず続けられてきたこと。
勿論、毒が盛られていないかを確認するため、また途中で手を加えられたり、すり替えられたりしないようにである。
それを心得ている朔柚は内心で「毒?」と思いながらも、もしそうであっても何故自身が王の膳を運ばないことになるのかという結論にまでは至らなかった。
それでも、何かあったことには違いないと思い直し、快く申し出を受け入れることにした。

「いいよ、それで間違いが起こらないというならね」
言外に、自分を信用して大丈夫か?との含みがあるのは明白だ。
「貴方ほど信頼できる人は他にはいないわ。貴方に任せて何か間違いが起こるなら、それは私の責任になるわね」
そう言って悪戯っぽく笑んでみせるに、朔柚は呆れた溜息を零す。
「あのなぁ、の責任云々より、何を置いても、第一に、最上級に、王の命を尊重しなよ。まったく・・・」
そんな二人のやりとりも慌ただしい厨房の雑踏の中では他に漏れ聞こえることもなく、単なる世間話でもしているように見えただろう。







「失礼いたします」
そう断って入ってきた女御を陽子は不思議そうにまじまじと見つめた。
「・・・あれ、は?」
「ええ、彼女は厨房でふとした拍子に指を切ってしまったらしく、怪我をしたばかりの手で主上の召し上がる膳を運ぶのは失礼だろうと、私が代わりにお持ちいたしました」
淀みなく紡ぐ朔柚の言葉は実に信憑性があり、陽子は半信半疑のままだったが、それでも彼女を疑うことは出来なかった。
朔柚の王宮勤めは長いし、と仲が良いことも知っている。
だが、そんな朔柚も王と顔を合わせることなど滅多にないのだ。
陽子の中ではは冢宰と並ぶほど口が上手く腹黒いという位置付けがなされているが、朔柚に対する免疫はまだ培われていなかった。

「へえ、私はそんなこと全く気にしないのに・・・。でも、珍しいな。がそんなおっちょこちょいだとは思わなかったな」
「おや、主上の前では粛然としているかもしれませんが、私の前では結構笑わせてくれますよ」
クスッと小さく笑いながら朔柚はそう言った。
「ふーん、見てみたいものだな」
堂々との代理を勤め上げている朔柚が実は演技上手だったなど、露程も思いもしない陽子であった。