さあ台輔、戻りましょう
「失礼いたします」

扉の外から掛けられた声に、忙しく筆を走らせていた冢宰はピタリと動きを止めた。
膳を掲げ入ってきたのは最愛の女性、
だが冢宰の瞳は和むどころか、訝しむかのように眇められている。

「・・・・どうした、何かあったか?」
静かに問いかけられ、は曖昧に苦笑してみせた。
「まだ特には・・・。ですが、少々気になりましたので調べていただこうかと」
まだ、と言うからにはそうなのであろう。
確信は持てぬが、疑念を抱くに充分な何かを感じたに違いない。

「これを」
はそう言って、取り上げた菓子を浩瀚の眼前に差し出す。

ごく普通の、いや見事に細工の施された美しくも美味そうな菓子。
はその菓子に開けられた小さな穴が浩瀚の目に止まるよう手の上でくるりと回した。

「・・・・・・・・なるほど」
一見して何の異常も見られない菓子の表面。
だが浩瀚はすぐに穴を見留め、の手からそれを取り上げる。
そして卓の上に置くと、注意深く穴を分断するように菓子を小刀で二分した。

その断面を見てみると、穴は細く小さく中央の餡まで抜けており、何かを注入したのだろうと容易く予測できた。
しかし餡自体には何の変化もなく、液状のものや粉のような異物があるようにも見えない。
いや、粉ならともかく、注入されたのが液状のものであれば、餡に染み込んでしまい、色が変わるなどの変化をもたらさない限り見分けるのは困難であろう。
これでは自分でさえ言われるまで気づくことも出来まい。

「銀を穢さずに神を穢す・・・か。なかなかに手の込んだことをしてくれる」
浩瀚は半ば感心したように吐息し、「主上にお変わりは?」と視線を上げた。
毎日王と顔を合わせている冢宰がそれを聞くのはどうかとも思うが、やはり聞かずにはいられない。
冢宰が王と共に過ごす時間はそう長くはない。
やはり常時側に仕えるに、自分でも気づかぬ微細な変化はないかと確認しておきたかったのだろう。

「何時からこの様なことが続いていたのか・・・。その為に御側に仕えているというのに、気づけずに申し訳ありません。主上は、今のところは目に止まるような変化は全く御座いません」
それを聞き、「そうか」と浩瀚は安息を漏らした。
決してを咎めることはしない。
寧ろ、これ程微かな異常に気づくことが出来たを賞賛しても良いくらいだ。

「いや、よく気づいてくれた。このようなことが可能なのは、やはり・・・厨への出入りが可能な者だな。これについては調べておこう。主上の身辺、充分に気を配るように」
「はい、心得ております」

その日以来、は菓子を入念に調べ、穴を見つければそっと入れ替えた。
菓子の異常は毎食というわけでもない。
そして毎回冢宰の菓子と入れ替えるというのも憚られ、たくさん作られる下官のものから余りを失敬することもしばしばだ。
「私は別に菓子が無くとも構わぬ」と言った冢宰だが、仕事量も並々ならず多い冢宰に疲れを癒す糖分は不可欠である。
それに、主上は時折唐突に何の関連性もない話題を振ってくることがある。
それは園林で見つけた花のことであったり、大好きな菓子のことであったり・・・。
そのため冢宰にも出来るだけ主上と同じ菓子を食して貰い、話題に同調して貰わねば訝しまれてしまう。

そして今回、下官用の余った月餅を失敬したあげく、王に「楽しみにしていた桜饅頭がない」と宣われてしまったのだった。

だが一方で、そのの苦肉の策により、朔柚の月餅を桜饅頭だと揶揄したことで、冢宰が事の異常にいち早く気づくことが出来たとも言える。
「・・・急がねば、ならぬな。聡い主上のことだ。既に気づいておられたのかも知れぬ」
単なる偶然ともとれるが、王が何か不審を抱きつつ、そのために故意に献立を聞いていたとしたら。
狙われている張本人が気づくか否かで相手の出方も変わってこよう。

内密に知己の老医師に調べさせたところ、毒の成分は曼荼羅華、大麻、芥子(ケシ)など一般的とは言えないまでも治療に使用されるものだった。

  曼荼羅華は自律神経を麻痺させる。そのため鎮痛効果があるとされ、治療に使用される。
  大麻は常用性があり、興奮作用がある。
  芥子(ケシ)は常用性があり、乱用すると精神錯乱、人格崩壊の末路が待っている。

どれも一度に大量摂取しない限り致死には至らない。
それでも継続的に摂取すれば、たとえ神仙といえど、確実に身体を蝕み、死に至らしめるだろう。
貴重な物で出回る量も少ないため値は張るが、それなりの格のある人間や医師なら何の規制もなく手に入れられるものだ。
他国からの流入も含めて考え、手当たり次第に卸元を調べることも不可能ではないが・・・・・。
浩瀚はその膨大な数を思い小さく嘆息した。
一応調査はさせるが、早急にとなると出所の特定は極めて困難だろう。

毒の特定は出来たが、敏腕怜悧と称される冢宰の手腕を持ってしても、黒幕は愚か、肝心の実行犯すら掴めてはいない状況だ。
静まりかえった薄闇の中、浩瀚は小さく呟いた。
「手強い・・・。だが、これ以上敵に先手を取られる訳にはゆかぬ。早急に手を打たねば・・・しかし、さてどうしたものか・・・」