さあ台輔、戻りましょう             NEXT「傾国の予兆」へ
何故だろう。
このところ妙に苛立つ事が多い。
ほんの些細なことで人や物に当たりたくなってしまう。
今だって楽しみにしていた菓子が目の前にないと分かった途端、皿ごと床に投げつけてやりたい衝動を自制心で何とか抑えた。
ともすればに苛立ちをぶつけそうになる。

こちらに来てから、もうどれくらい経つだろうか。
王宮の生活にもすっかり慣れ、分からないことなど殆ど無い。
それは政事に関しても同様だ。
慣れきってしまったから?
毎日の単調な繰り返しに安穏としてしまっているから?

もしかしたら、国が傾くとはこういう些細な事が切っ掛けなのかも知れない。

一時的なものだと思いたい。
それともこのまま自分は歪み続け、そしてこの先更に酷くなり・・・。
そんな小さな不安がまた不安を呼び・・・。

やはり私は王として相応しくないのだろうか。
いずれこの手で国を滅ぼしてしまうのだろうか。
そんな不安が苛立ちを更に募らせる。

これもやはり天に定められた道なのか。
ここ何代か短命の王が続いた慶国。
それもまた天の敷いた定めでしかないのだろうか。

一度不安になると己の非を他人の所為にしてしまうのは人も仙も変わりはないらしい。
神仙だからといって己の弱さがその身の内から消えて無くなるわけではない。
そんな王の内に燻り始めている小さな種火に、未だ気付いている者はいない。










急ぎ厨に駆け込んだは、そこに見知った顔を見つけ、人知れず安堵の息を吐いた。
「・・・朔柚」
押し殺すように小さく名を呼ばれた女性が振り向いた。
「ん?・・・なんだ、か。どうした?」
少し低めの気さくな口調は、彼女の男勝りな性格をそのまま表しているようだ。
「冢宰の膳はこれから?」
その一言で何かに感づいたらしい朔柚は手にしていた盆を棚に片付けながら、「ああ、そうだよ」と器用に視線だけで一つの膳を指した。

「・・・よかった。じゃあ悪いけど、桜饅頭貰っていくわ。冢宰には必ず貴方が持って行ってね。宜しく」
声を潜め言いながら、他の者に知られぬよう最低限の動きで素早く懐紙に桜饅頭を包むに、朔柚は肩を竦めながら「承知」と笑って見せた。

何故よりによって冢宰の膳なのか?
冢宰である浩瀚とは一つの牀榻を共にする仲だから・・・。
いや、勿論そんなことはこの際関係ない。
何よりも今、水面下で息を潜め牙を剥き、音を立てずに近寄りつつある獣の存在を嗅ぎ取っている人物だからに他ならない。
そしてそれを排除するため、浩瀚とは密かに動き出していた。
また、冢宰の影である瑛泉、女御の一人である朔柚はそんな二人が信頼を置く数少ない協力者だ。










浩瀚は今日も執務室での夕餉を余儀なくされていた。
もう何日邸に戻っていないだろうか。
国は安定しているにも関わらず、冢宰の仕事は一向に減る様子はない。

いつか王はその書卓を見て言った。
「お前の机はいつも山盛り大サービスだな。王である私の数倍は働いているだろう。余程仕事に好かれていると見える。それとも、好きでわざわざ仕事を背負い込んでくるのか?」

さて、どちらだろうか。
仕事は好きだが、必要のないものまで背負い込むほど酔狂でもない。
国が安定すればその安定を如何にして保つか、そして次は如何に発展させるか。
考えるべき事、やるべき事は尽きないものだ。





微かに聞こえてきた足音に、山積みになった書類を丁寧に振り分けながら、「もうそんな時刻か」と独りごちた。

三名の女御が膳を手に入室する。
前菜、主菜と並べ終えた女御は丁寧に頭を垂れ、無言のまま下がった。
そして最後に食後の茶菓を卓においた女御は、やはり丁寧に頭を垂れながら、こう言った。

「本日の菓子は”桜饅頭”に御座います」

浩瀚は暫しの沈黙の後、「・・・合い分かった、ご苦労」と労いの言葉を掛けた。
軽く溜息を吐きながらも怜悧な冢宰は、皿の上に乗っているそれに対して、「お前は何時から桜饅頭と名を変えたのだ?」などとは聞かない。
そう、そこにどっしりと己の存在を誇示して鎮座しているのは、誰がどう見ても月餅以外の何ものでもなかった。

「・・・急がねば、ならぬな」
極小さな呟きは広い執務室に霧散した。










「昨日の桜饅頭は美味しかったな」
朝議から戻る最中、慶国最高峰に君臨する王は満足げに漏らした。

「ええ、美味しゅう御座いましたね。桜饅頭はこの時期にしか食せぬ贅沢品、また今年も恙なく春を迎えられたこと、何よりで御座います。昨日の饅頭は餡の中にも細かく刻んだ桜葉の塩漬けが混ぜられていて、甘さの中にも微妙な塩加減がまこと美味しゅう御座いました」
一歩分斜め後ろに控える冢宰はやんわりと微笑んだ。
自分が食したのは月餅だったなどとは口が裂けても言えない。
「へぇ〜、あの不思議な風味は桜葉の塩漬けだったのか。。。さすが浩瀚、舌が肥えているだけではなく菓子にも詳しいんだな」
陽子は心底感心したというように、ほぅ、と嘆息を漏らしている。

今はまだ王に不審を抱かせてはならない。
こちらが僅かでも隙を見せれば、敵は警戒し姿を眩ませてしまうか、もしくは暴挙に出るか。
王の治世を阻む者は徹底的に排除する。
そのためには些細な失態も許されないのだ。
たとえ相手が何者であろうと、どんな手段を講じてこようとも・・・。