さあ台輔、戻りましょう      NEXT「王の騎士」へ


後宮が達王の密かな研究の場となっていた事はある程度知られていたことだ。
だがそれもある時を境にして封じられることとなる。

達王は研究の場を内殿の一室へと移し、そこで水禺刀の鞘を造った。
いや、正確には造らせたと言うべきか・・・。
それまでは王自らが中心となり、手を尽くしていた宝重造り。
しかし鞘を造る段階になって、王はその殆どを呪師に任せるようになっていた。
その鞘造りの中心となったのは、当時”松伯”と呼ばれていた人物だ。
松伯は蒼猿を封じ、鞘となさしめたと伝えられている。

そして数ヶ月後、見事な鞘が完成する。

その頃には、研究の場を内殿へと移したにも拘わらず、王は何故か後宮で過ごす時間が多くなっていた。
臣は皆そのことを訝しんだが、それでも政には熱心に取り組む王を、誰も咎めることはしなかった。
慶国は誰の目から見ても、恙なく安寧の日々を送っていたかに思えたのだが・・・。





ある日、突如台輔失道の報せが王宮中を震撼させた。

何も知らない臣達は慌てふためき、台輔の容態は悪化の一途を辿るばかり。
誰もが書庫を引っ繰り返さんばかりの勢いで必死に原因を探るも判明せず、ただ手を拱くばかりだった。

朝廷の動揺は間もなく下界へと伝わり、天候不良や妖魔の出現と共に各地で相次ぎ内乱が勃発。
平穏だった世は坂道を転がるように奈落へと落ちていった。
そのうちに王が完全に後宮に籠もりきりになったのを訝しみ、我慢のならなくなった臣が女官を問いつめると、どうやら赤子がいるらしいことが発覚。
それを聞き、血相を変えて後宮に詰め寄った重臣達が無理矢理に押し入ったのを切っ掛けにして、とうとう赤子の存在が知られることとなる。

どのような経緯で王が赤子を連れ込んだのかは不明だが、どうやらその赤子に原因があるのではないかと踏んだ臣達は、王に赤子を処分するよう進言した。
だが当然、王はこれに応じない。

唯一事情を知っている拓錬も再三足を運び、もう何度目か知れない請願を紡ぎ続けた。

「御願いで御座います、主上。この娘をどうか・・・。今ならばまだ間に合います。貴方は王としてこの国を良く導かれました。道を過たず歩んでこられました。されど過ちがあったというならば思い当たるは唯一つ。・・・天の怒りに触れたは、この娘の存在。それしか考えられませぬ。貴方の御息女はとうに身罷られて居られる、現をしかと受け入れなさいませ!この娘一人のために幾万もの民を路頭に迷わせ、国を傾けるなど、あってはなりませぬ!まだ間に合います、どうかこの娘をすぐに」
「分かっておる!」
拓錬の必死の懇願を最後まで聞くことなく、王はそれを怒声で遮った。
紡ぎ掛けた言葉を飲み込んで悲壮な表情を浮かべる拓錬に、自虐的な笑みを向ける。

「・・・拓錬、分かっておる。分かっておるよ、娘はもうこの世には居らぬ。なれど、今こうしては目の前にしかと存在している。例えそれが創られたものでも、世にとっては娘以外の何ものでもない。それを、殺せと申すか。・・・確かに民は我が子同然、皆には申し訳ないと思うておる」
「ならばっ!」
王自らが手を下さずとも、他の者の手で・・・そう言い募ろうとした言葉は、王が忽然と立ち上がったことで制された。
「拓錬、今一つ頼みがある。これが、世の最後の頼みだ」

「・・・・・さい、ご・・・?」

その意味を悟って瞠目した拓錬に、王は穏やかに微笑んで見せた。
「たとえこの身が朽ちようと、娘だけは救ってやって欲しい。これは慶の宝だ。後々王となる者を護ることも出来よう。禁軍右将軍の周、あれは良く出来た男だ。あれなら安心して娘を預けられる。そして、其方はどこか安全な国へと渡るがよい。命を粗末にするなよ。・・・今まで、大儀であったな」

拓錬は我知らず涙を零していた。
命令ではなく頼みなのだと、いつも主は言う。
だが聞き慣れたはずのその言葉が、今ほど重く息苦しくのし掛かかったのは、これが最初で且つ最後であろう。

自分が王を唆したのではないかという声も上がっている事は承知していた。
混乱を極める宮中にあって、いつ襲われようと不思議ではなかったが、それでも主の側に在ることを望んだ。
だが主はそれを知りながらも尚、生きろと言う。
穏やかな気質の主だったが反面、思慮深く頑なで、一度決意したことを歪めることは皆無だった。

この男の治世も、最早これまで・・・。

「・・・しかと、承りました」











「並みの冬器を造るのさえ相当な知識と技術を要します。それが宝重ともなれば、その比ではありません。実は最初に造られた鞘は失敗とされ、現在の構造の鞘は二作目なのです。以後、鞘を無くされた王も居られたようですが、その都度新調された鞘は、その二作目をそのまま模して造られた物です」

「それを造ったのが、松伯・・・というわけか。・・・で、その失敗した初期の鞘は当然処分されたのだろう?」
拓錬の何かを憚るような物言いと、わざわざ失敗した鞘の事を何故今更口にするのかを訝しみながら、陽子は確かめるように問い返した。

「それは・・・。その初期の鞘は鞘としての機能を持たず、それどころか、何の呪の気も持たない状態でしたので・・・」
尚も言い辛そうに、視線を彷徨わせながら戸惑いを見せる拓錬を、やんわりと手で制したのは尚隆だった。
「その鞘を造るに当たって、ある人物の毛髪が使われたそうだ」
「毛髪・・・ですか?」
陽子が驚いたように問うと、尚隆はうむと頷く。
「登極前に失った、たった一人の愛娘の毛髪だ。名は・・・、といった」
「・・・なっ!?」
ガタンッ!と耳障りな音が室内に響く。
陽子は尚隆の口から出た名に目を瞠り、思わず立ち上がっていた。

「そ、それじゃあ・・・その失敗した鞘というのが・・・だと!?」

陽子は驚きの余り咄嗟には声が出ず、それでも辛うじて喉の奥から掠れた音を吐き出した。
だが、信じ難い事だと思う一方で、水禺刀と共鳴したという事実に合点のいくものも感じる。
水禺刀の鞘を造ったのは遠甫、しかし彼はの詳細までは知らなかった。
ということは、遠甫は二作目を手がけたが、それ以前は関与していなかったと見るのが妥当だろう。

肝心な部分を尚隆に持って行かれながらも、拓錬は表情一つ変えずに再び引き継いだ。
「あの方は隠し通すつもりだったのでしょうが、何せ相手は赤子。誰かが世話をせねばなりますまい。信の置ける者のみを後宮に配し、世話をさせておりましたが、何処からか情報が漏れ出たようで・・・。噂が瞬く間に王宮内に広がり、王の密かな研究場所と化していた後宮に突如赤子が現れたことに、官らは酷く動揺したようです。その赤子が失道の原因なのではないかと勘繰った官らが、赤子を天の贄として差し出すよう言い募り、王は仕方なくある忠臣に赤子を預けるよう、私に委ねたのです」

「それが、当時禁軍右将軍だった周・・・か」
陽子の言葉に拓錬は然りと頷く。
「ええ。私はそのまま赤子を官達に差し出すことも出来ました。けれど、やはりあの方を裏切ることなど到底出来ませんでした。たとえ赤子を贄として差し出したところで、やはりあの方は玉座を去られたことでしょう。ならば私に出来ることは、せめてあの方の宝を守っていくこと。。。」
言いながら拓錬は、懐かしむように眠っているを見つめた。
「結局のところ、あの方の望むものは完成しなかった。王の手によって造られたものの、その赤子は何の力も持たぬ只の赤子だったのです。自分の娘を甦らせるという私情の混在した宝重造り、そしてその結果、物でも人でもない”モノ”を生み出してしまった。そのことが天の怒りに触れたのだと・・・」

「そんな・・・」
陽子はやりきれない表情で呟いた。

「皮肉なものだな。自分の造り出したもの、それも娘に、王を護るための存在によって滅ぼされることになろうとは・・・」
尚隆の横やりに、陽子は思わずバンッと卓を叩いた。
「それじゃ、まるでが達王を滅ぼしたみたいじゃないか。達王は自ら滅びの道を歩んでしまったんだ、それに実際に手を下したのは天じゃないか。に罪はない!」

尚隆の言に否を唱えなかった拓錬が苦い顔を陽子へ向け、だがすぐにそれを自嘲めいた苦笑へと変えた。
「確かにそうですが・・・いえ、そうですね。その通りかも知れませんね。あの方が最後に仰られました。”この娘は後々王となる者を守護するであろう”と・・・。今こうして改めて思い起こすと、もしかしたらあの方は、慶の末永い安寧を望んで、敢えて御自身が犠牲になることを選ばれたのかも知れませんね。そして今・・・その願いが、漸く叶ったのですね」
そして、つと視線を陽子の腰へと落とすと、水禺刀を見つめる。
「今回のことは恐らく、太廟に祀られていた王達の魂が、封じられた思いが、殿の持っていた力によって一時的に波長が乱れ、引き出されてしまったのではないでしょうか。水禺刀が幻覚を見せるのと同じように、殿もまた不完全な存在故、何が切っ掛けでどのような事態が起こるのかは私にも皆目見当が付きませんが・・・。力が覚醒し、それを操る術を会得したとて、殿はあくまでも鞘として創られた存在。邪気を払い、斬るのは水禺刀でなければ敵いません。今後も気をつけられるが宜しいでしょう」

「そういうことだったのか・・・」
改めての出生の秘密を明かされ、漸く合点のいった様子で陽子は、小さく息を吐きながら剣を労るようにそっと撫でた。

それから暫くは、陽子がこれまでのの様子を拓錬に話して聞かせた。
和州の内乱で出会ったこと、兄である周露斉の事件、戴での出来事などを・・・。










カタ、と小さく椅子が鳴る。
拓錬は静かに席を立つと、臥牀で眠っているの枕許にそっと何かを置いた。

「・・・これは?」
陽子もまた立ち上がると拓錬の置いたものをしげしげと見つめた。

「私に課せられた使命は二つ。殿の目覚めを見届けること。そして目覚めたとき、全てを明かし、彼女自身がその宿命を受け入れたなら・・・これを、殿にと・・・」
穏やかに告げる拓錬の言葉を耳に、陽子はそれを見つめた。

翼を持った龍の帯留め。

「あの方が殿を、そしてこの国を見守り続けるでしょう」
そう紡いだ拓錬の声は慈愛に満ちていて・・・。
まるで神の声を聞いているかのようだと陽子は思った。

そう、は既にその宿命の力に目覚め、その全てを受け入れて陽子の側にいる。
それは当然のことなのだと思っていた。
だが拓錬の言に陽子はふと疑問を浮かべた。
が目覚めたのは必然ではなかったのか?それに、もし彼女が自身の力を疎み、拒んだとしたら・・・?」

陽子の問いに拓錬はやんわりと微笑んで見せた。
「目覚めるかどうかの確証は皆無でした。そして目覚めたとしても、もし殿が拒めば・・・私は祓呪しなければならなかったでしょう」

その言葉に陽子はぎょっと顔を強ばらせた。
は人ではない、呪によって創られたのだ。
それはつまり・・・。
「そ、それって・・・呪を祓ってしまえばは死んでしまうんじゃ・・・」
だが拓錬はあくまでも穏やかな表情を崩さず、然りと頷いた。
「そういうことになりますね。ですが、そのまま存在を許すことも出来ないのです。それに・・・呪物に死という概念はありません。・・・いえ、無いはずでした」

無いはず・・・それは確かにそうなのだ。
だが、は外見だけでなく、その内面、精神、感情、人としての心・・・全てが備わっている。
喜び、怒り、悲しみ・・・そして勿論、負傷すれば痛みを伴い、死に対する恐れも持ち合わせている。
人と何ら変わりはないのだ。
それは拓錬も、そして生み出した達王自身も予想していないことだった。
それが分かってしまうと、たとえが拒んだとしても祓呪などと残酷なことは出来はしなかっただろう。
そうならなくて済んだ事実に、ほっと胸を撫で下ろした。
それは拓錬のみならず、陽子も同じ気持ちだったに違いない。










禁門へと向かっていた拓錬の足がつと止まった。
気配のした方を何気なく見遣り、その人影に僅かに目を見開かせる。

数歩先を歩いていた尚隆は、それを背後の気配だけで感じ取り、微かに口元を緩ませると、さも気付いていないかのようにそのまま厩舎へと歩を進めた。



「松、伯・・・殿?」
互いに顔を覚えていたのは、どちらも百年前とその容姿が変わっていないからに他ならない。
ゆったりと歩み寄ってきた老人は懐かしげに目元を綻ばせた。
「久しいのう、綾繊殿」

綾繊と呼ばれた男は照れたように苦笑を返す。
「・・・・・随分と懐かしい名を覚えておいでですね」
「ふむ、見事な技量で呪物を造り、思うままに操る。それがまるで絹を染め上げ、織る匠のようだと仰っておられた・・・」
「・・・ええ、あの方が私に授けてくださった字です。今になってその名を呼ばれようとは、思いもしませんでした」
「国へ、戻るのかね?」
「はい」
「それから、どうするね?」
そう言った老人の声には咎めの色もなければ憂いの色もない。
端から見れば何の含みもない世間話でもしているかのようだ。
拓錬は秘め事を見破られたように、更に苦笑を深くした。
「・・・・・。相変わらず、心を読む事に長けていらっしゃる。・・・国へ戻ったら、籍を返上し、野に下ろうと考えております。あの方との約束も漸く果たせました。余生を静かに暮らし、そしていつか、あの方へ報告に参ると致しましょう」

あの方以外の下に仕える気など毛頭無かった。
それでも不本意ながら他国の王宮へと自ら上がったのは、仙で在らねばならなかったからだ。
約束を果たすため、生き存えるためには、己の持つ知識と技術を最大限に生かすしか術はなかった。
だが、自分を現世に繋ぎ止めていたその枷からも漸く解き放たれる時が来たのだ。

「・・・そうか。閉鎖的な舜国を選んだのもその為か・・・。達者でな」
老人は惜しむでもなく、穏やかな微笑みを湛えたまま、短く告げた。

大切なものを守るために敢えて他国との交わりの少ない国へ落ち延び、ただひたすらその時が来るのを待ち侘びていた男。
そして漸くその役目を全うし、背負っていた重荷を下ろすことが出来た。

「松伯殿も」
拓錬は丁寧に拱手すると、尚隆の後を追うべく厩舎へと踵を返した。

その姿を見送りながら遠甫は感慨深げに小さく呟く。

「”約束”・・・か」

命令ではなく、約束。
そのためだけに、今まで生を紡いできた男。

「儂は、いつになったら貴方様の元へ行けますやら・・・」

老いた太師の呟きは、碧く澄み切った空へと静かに吸い込まれていった。