さあ台輔、戻りましょう        NEXT「安寧の生」へ

水禺刀は、ギィーーーンと脳に直接響くような音を発し、大気を振るわせながらの身体に吸い込まれていった。





「ぁ・・・ぅぐっ・・・・!?」

その直後、くぐもった苦呻が漏れ聞こえる。
だがそれは剣に貫かれたのものではなかった。
はその胸に剣を突き立てられながらも尚、ピクリとも反応を示さず死者のように横たわったままだ。
澄んだ鋼色だった水禺刀は、まるでの生き血を吸い尽くしたかのように、その刀身を赤黒く変色させ、不気味な光を放ってている。

「主上っ!」

背中から地面に強かに叩き付けられた陽子を、浩瀚が即座に抱え起こす。
陽子は水禺刀を突き刺したとほぼ同時に、得体の知れぬ強力で弾き飛ばされたのだ。

「ぅ・・・だい、じょうぶだ・・・やった、のか」
苦痛に顔を歪ませながらの方へと視線を向けると、そこからは黒く蠢く影が幾つも飛び出していた。

苦しげに藻掻き、身を捩らせ、グォーーーッと低く地を揺るがすような咆吼とも苦鳴ともつかぬ声が辺り一面に木霊する。
それに呼応するようにそこら中を突風が渦巻き、咄嗟に陽子を庇うように覆い被さった浩瀚も、吹き荒れる砂塵に堪らず顔を袖で覆う。
だがそれも長くは続かなかった。
ほんの数秒、その場にいる者の呼吸を妨げた突風も徐々に弱まり、やがて辺りには静寂が戻りつつあった。

「・・・は?」

陽子は浩瀚の護手を振り払うように立ち上がり、の元へと走った。
だが剣を抜こうとして剣柄に手を掛けるも、何故か剣はピクリとも動かない。
まるでの身体を貫通し、更に地中深くまで根付いているかのように・・・。

「・・・なんだ!?どうして抜けない!?」
陽子の顔は瞬時に焦りと不安で蒼白になった。

たとえ水禺刀がの命を奪う事はなくても、その傷がすぐに塞がるとしても・・・。

見下ろしたの身体は、その傷口から流れ出た血でみるみる赤く染まっていく。
早く剣を抜かなければ、このままでは完全に失血してしまう。

「どうして・・・、頼むから抜けてくれ!」
渾身の力を込めても、両手で引っ張ってみても剣はびくともしない。
これでは最悪の予感が現実となってしまう。
今になってを刺したことを悔やんだ。

いかな宝重といえども、の身体は生身の人間と同じ構造からなり、同じように血も流れている。
失血し続ければ生を紡ぐその機能はいずれ停止し、再び再生されることはないだろう。
の生命の灯火が徐々に小さくなり、今にも掻き消えてしまいそうな、そんな絶望感に襲われる。

辺りには鉄のような血臭が漂い、淀んだ空気がより一層重くなっていく。
その場にいる者は皆、為す術もないままただ立ち尽くし、その光景を息を呑んで見守ることしかできない。

「嫌だ!・・・が・・・が死んじゃうっ!」
必死に剣を抜こうと足掻いている陽子の頬を、幾筋もの涙が流れ落ちていく。

重力に逆らえず零れ落ちた透明なそれは、地を染めた朱へと虚しく呑み込まれていった。










は深く沈んだ闇が一つ、また一つと自分の身体から抜けていくのを感じていた。
だが身体は一向に軽くならない、何故だろうか。
呼吸すら殆ど満足に出来ず、手指一本動かすことも出来ない。
ただ、闇に包まれ何も見えなかった先程までとは違い、今では薄明かりを遙か遠くに感じとることが出来る。
それに酷く落ち着くような安堵感を覚えながらも、一方では、自分は死んだのかもしれないとも思った。

『・・・・・娘よ』

どこからともなく声が響いてきた。
「誰?」

『我が愛しき娘よ』

「我が・・・娘?」
どこかで聞き覚えのある声だと思ったのは単なる気のせいだろうか。
しかしその声は少なくとも自分の記憶にある父のものではない。
それなのに、酷く懐かしいと思えるのは、その声がとても優しく温かく、父の持っていたそれと重なったからだろうか。

『我が愛しき娘よ。おまえはこの国の光、おまえはこの国を統べる者の影。己の信ずる道を歩みなさい』

慈愛に満ちあふれた声はとても遠く、だが明瞭に聞こえた。
その柔らかな声に包まれながら、は全ての苦痛から解き放たれ、穏やかな眠りへと引き込まれていった。










「・・・っ!?」

突如ドスンという重たい音が響いた。
「っつぅ・・・・・・抜け、た?」

盛大に尻餅をついて唖然としながら、自身の手にしっかりと収まっている剣を見つめた。
それは常と変わらず、美しい鋼色の刀身を晒している。
先程までの赤黒く変色し、不気味な光を放っていたものと同一だとは信じ難いほど一点の曇りもなく輝いていた。
「・・・

自失している間もなく、視線を転じると、そこには既にを抱きかかえて立ち上がろうとしている浩瀚の姿があった。
「浩瀚、は・・・」
「分かりません。傷は既に塞がっておりますが・・・」
ゆるゆると首を振った怜悧な冢宰の声は一見常と変わらぬようだが、やはり何処か沈んでいた。

「すぐに瘍医を」
そう言って立ち上がり、内殿へと身を翻した陽子だが、その入り口に尚隆が扉を開けて待機しているのを視界に捉えると、つと立ち止まった。

「瘍医なら既に呼びにやらせたぞ」
そう言って促す尚隆に、陽子は「有り難う御座います」と礼を言い、浩瀚を先に入らせる。
そしてそれを見送ると、自身はその場へ留まり、後から来ていた拓錬へと向き直った。
「拓錬、有り難う。貴方がいなかったら、・・・我々だけではどうすることも出来なかっただろう。貴方が知っていることを、話してもらえるだろうか」

突然の来訪者に気さくに言葉を掛け、あまつさえ王が頭を下げるなど・・・。
その上、会って間もないこの自分に大切な者の命さえ託したのだ。
(何処か、あの方と似ておられる)
内心でそう思いながら拓錬は恭しく拱手し、そして微笑んだ。
「私は、そのために参りました」

この日が来るのをどれほど待っただろうか。
本来ならば周将軍の役目だったが、その将軍一家は既にこの世には居ない。
だから自分は死ぬわけにはいかなかった。
何としても生き続け、課せられた荷を預けることが出来る日を待つしかなかった。
ただ、そのためだけに生きてきた。

喉まで込み上げたその言葉はしかし、辛うじて飲み込んだ。










斎宮などという本来潔斎の場として造られた其処は、呪術的な力が強く、しかしそれでも人に危害が及ぶような事態に陥ることはこれまで無かった。
実質人ではないは、其処に彷徨い眠る魂をどういうわけか引き寄せてしまったのだ。
そればかりか、を救おうと近づいた桓たい達までもがその穢れを受けてしまった。

陽子は臥牀で眠っているを痛ましげに見つめた。
穢れに心身の精気を削がれ、更に大量の失血。
医者の話では、衰弱が激しく、数日は意識が戻らないだろうということだ。

「達王は登極前、冬官の長として先王に仕えていたそうです。当時からその呪の知識技術は相当なものだったらしいです。その当時、先王の時代が終わりを告げる内乱で妻子を亡くされ、悲嘆明けやらぬうちに天啓を受けたとか・・・。政をこなし、国を立て直しつつも、その傍らでは呪の研究も続けていたそうです。水禺刀はその頃造られた物ですが、側近には失敗作だと零していたようです。事実、やがて水禺刀は暴走を見せ始めるようになりました。私があの方に召し上げられたのはその頃のことです。そして水禺刀の暴走を封じるために鞘を造ろうということになったのですが・・・」

拓錬は愁いを湛えた眼差しで窓の外、柔らかに薙ぐ木の葉を、否、彼の瞳はもっと何処か、遙か遠くを見つめていた。

「あの方は臣に対して分け隔て無く愛情を注ぎ、こと政に関しては完璧とも言えるほど有能な方でした。まさに王として相応しいと、誰もが永劫の治世を信じて疑いませんでした。・・・ですが、犯した過ちを天は見逃したりはしませんでした。たった一つの過ちを・・・深い愛故に、あの方は、犯してしまわれました」










木々に新緑の若葉が萌え始めた季節、慶東国首都堯天は凌雲山に位置する金波宮で一つの命が産声を上げた。

だが生まれたばかりの赤子は一般的なそれと比べ、どこか不自然に見えた。
既に愛らしい瞳をくるくると彷徨わせ、肩まで生え揃った髪をそよぐ風に靡かせている。
紫紺色の髪と瑠璃色の瞳をもったその女児は、かつて自分が愛して止まなかった娘の幼少時姿そのものだった。

「・・・。お帰り」

愛おしげに囁いた男は壊れ物を扱うが如く、優しくその腕に女児を抱き上げた。
そこに在るのは男と、その腕に抱かれた赤子のみ。
母親の姿も、生まれ出でるまで包まれていたはずの卵殻すら何処にもない。

ぐずる様子もなく、機嫌良さげにころころと笑う赤子を見つめながら、男はふと首を傾げた。
「食飯は・・・どうすればよいのだ?」

思い起こしてみれば、かつて子供の面倒は全て妻が見ていた。
自分は仕事一筋で厨に立つことは愚か、赤子がどんなものを食べ、それをどうやって作るかなど知る由もなかった。
それに、今は室内にあった適当な布で包んではみたものの、やはりきちんと服を着せねばなるまい。
だが、人を呼ぶことは憚られる。
「はて、どうしたものか。。。」

あれこれと思案しながらも、赤子の口を覗いてみると、どうやら生え揃うまでは行かないが、それなりに歯は生えているようだ。
「柔く煮たものならば、食せるだろうか・・・ああ、そうだ」
そう呟きながら、男は一人の青年を頭に浮かばせた。

 **********

その日、拓錬は落ち着かない足取りで主の元へと向かっていた。

彼は普段から、冬官に呪師として配属されている身としては、同僚の中でも例外的に主と行動を共にすることが多い。
大抵は呪に関する情報提供や、主自ら手がける呪物の製作補佐だったりするのだが、それならば彼以外にも充分に役割を果たせる人間はいただろう。
しかし、王は彼の持つ従順穏やかで人当たりの良い物腰に好感を持った。
そして何よりも、側に居て疲れないのだ。
誰もが王を王として崇め畏れる中で、彼は互いの間を仕切る壁が誰よりも薄いと感じた所為かもしれない。
それは彼が冬官に籍を置きながらも、正式な官位を頂いていない呪師であることも一因かも知れない。

拓錬は重々しい扉の前に立ち止まり、さして乱れてもいない呼吸を改めて整えると参内を告げた。
「拓錬、御召しにより参内致しました」

その声がいつもより幾分緊張しているように聞こえたのは決して気のせいではなかっただろう。
何故ならば、彼が今立っているのは後宮の間だ、いつも呼ばれている内殿とは違う。
内殿の更に奥、本来王とその親族のみが住まい、極限られた者だけが立ち入ることを許される場所に、彼は生まれて初めて踏み入ったのだ。

「おお、来たか。待っておったぞ。入るが良い」
掛けられた声が常の主の声音と何ら遜色ないことに僅かな安堵を覚え、拓錬は慇懃に扉を押し開く。
だが開き掛けた扉をそのままに、拓錬はきょとんと間抜けな表情で目を瞬かせた。
「・・・・・・・・・おやおや・・・これはまた、大層可愛らしい。一体何処ぞから拾われていらしたものか・・・」

目の前の主の膝にちょこんと座って、此方を興味深そうに見つめている赤子。
しかし何故この様な所にこの様な赤子が・・・?

思わずその可愛らしさと意外性にぽかんと立ちつくしていた拓錬だが、「早う、此方へ参れ」の一言ではっと我に返った。
中途半端に扉を開けたままだったことを思い出し、「これは失礼を致しました」と謝罪しながら扉を閉める。
聡明な拓錬は直ぐさま思考を切り替え、当初の目的を果たさんと床に平伏した。
「主上、此度はどのような御用件でこのような場所に私を御呼びなさりましたか」

「うむ、実は其方に頼みがあってな。この娘・・・の世話を頼まれて欲しいのだ」
数瞬、室内に何とも言えぬ沈黙が降りた。

「・・・・・・・は?」
拓錬が思わず素っ頓狂な声を上げてしまったのは、己に不相応な世話係という役目を申しつけられたことに驚いたからではなかった。
娘・・・?今この王は娘と言ったか?
はっきりと告げられた言葉に聞き間違いだとは思わなかったが、信じ難いものであることは確かだった。

拓錬の反応は容易く予想出来得た、しかもその予想に違わず返ってきた反応に、王はまた苦笑を禁じ得ない。
「いや、流石に唐突過ぎたか。だが、この事は誰にも知られたくない。其方だからこそ頼めるのだ」

その秘密めいた言葉とは裏腹に嬉々とした表情の王。
この時、拓錬は多少なりと悟ってしまったのだ。
何かが狂い始めるかも知れない、と・・・。