さあ台輔、戻りましょう      NEXT「血に沈みゆく」へ

拓錬は目を瞠った。

黒い闇に呑み込まれようとしている人影・・・。
それは本当に片時も忘れることの無かった自分の探し人なのか。
固く閉ざされた瞳を確かめることは出来ないが、その紫紺の髪は確かにあの幼かった少女の持っていた色。

目の前の惨状に思考が乱れるのを押し止めるように目を閉じ、精神を鎮める。
左右の手を組み合わせ、微かに唇が動く。
それは声にはならなかったが、恐らく印を結び、呪を唱えているのであろう。

やがて、蠢く穢れに阻まれながらも、僅かに清らかな気を感じ取ることが出来た。
それは倒れている女性の胸の辺りから発せられている。
記憶の中にある少女の鎖骨の下には水禺刀と同じ、一対の蒼い痣のようなものがあったはずだ。
それはその少女が水禺刀の鞘となるべく、呪によって創り出されたという証。
その一対の蒼が熱を発し、拓錬の呼びかけに応えているのだ。

間違いない、と拓錬は確信した。
彼女が本人だと分かれば、この状況の大凡の見当は付く。
彼女を喰らおうとしているのは歴代王達の負の念に違いない。
そして現状を打破する方法は・・・唯一つ。

拓錬は殊更ゆっくりと背後の王へと振り向いた。










「景王陛下には殿を斬っていただきます」

男が発したその言葉に、陽子は我が耳を疑った。

「なっ!?」
思いも掛けぬその言葉に、陽子はこれ以上ないと言うほど目を見開き、顔を強ばらせた。
まるで頭上から重たい岩を落とされたような、それほど衝撃的な一言だった。
ちょうどそこへ戻ってきた祥瓊も、手にした香を取り落としそうな程、ぎょっとした顔をしている。
出来ることなら、冗談だろう?と笑い飛ばしたかったが、男の目は真剣そのもので付け入る余地もない。
「な・・・何を言っている・・・そんなことっ!出来るわけが・・・い・・・いやだ!私には出来ない!」

尚隆の連れてきた男を疑いたくはない。
しかし、何かの陰謀か、これを機とばかりにの命を奪う算段か、と疑ってしまうのは果たして愚かなことだろうか。
腕を組み、傍観を決め込んでいる尚隆をちらと見遣ったが、彼はそれに対して何の反応も示さなかった。
いや、その僅かに眇めた瞳は、おまえは王だ、自国のことは自分自身で決めろと言っているようにも見える。

「主上、は水禺刀では、その命を奪うことは出来ませぬ。それは主上もよく御存知でしょう」
そう言いながら現れたのは、慶東国冢宰浩瀚だった。

「こ、浩瀚っ!だけどっ・・・!」
尚も拒もうとする王を、浩瀚は鋭厳な、だが苦渋を宿した眼差しを向けることで制した。
「事は一刻を争います。を救いたくば・・・今は、他に術は御座いませぬ」

確かに以前、周露斉の野望を阻止すべく、は自身共々露斉を水禺刀で貫いた。
その時は水禺刀で肩を貫き、だが、水禺刀が抜かれると程なくしてその傷は跡形もなく消え去ってしまった。

しかしだからといって、陽子が自らの手でを斬るなど出来ようはずもない。
水禺刀がの命を奪うことは無い、それは分かっている。
だが自分は水禺刀の主、以前のように自らが水禺刀を扱うのとは違う。
万が一にも、自分の振るった剣がを殺めてしまう事は無いと言い切れるのだろうか。

負の可能性が脳裏を過ぎり、身が竦む。
実際に試したことが無い限り、その答えは何処にも存在しない。

「拓錬殿を、と水禺刀を信じることが、出来ませぬか?」
浩瀚の静かな問いかけに是も否も言うことが出来なかった。
そこに、自分はを信じている、という口には出さない想いまでもがひしひしと伝わってくる。
陽子はぎゅっと拳を握り、唇を噛み締め、己の中で答えを導き出そうと必死で闘った。

手の届く位置にいるにも拘わらず、手を伸ばしてやれない。
目の前に横たわるをじっと見つめる。
すっかり色を失ったその顔は、最早死人と見間違う程だ。
一刻の猶予も罷り成らない。

「・・・・・他に術は無いのか?・・・私じゃなくては、駄目なのか?」

苦しげに絞り出された言葉に、拓錬は「はい」と揺るぎなく答えた。

「私でなくては、を救うことは出来ないんだな。信じて良いんだな」

この拓錬という男はつい先程見知ったばかり、それを後先考えずに信じろと言われても容易く頷くことは出来ない。
だけど、のことは信じられる。
自分が信じないでどうする。

「私は・・・を、信じている」

己に言い聞かせるように小さく紡ぐと、陽子は腰に帯びていた剣をすらりと抜きはなった。

を救うために、この剣を振るう。
私がこの手で、を喰らう闇を・・・斬る!

「皆立ち退れ!今よりこの場で起こることを誰も見てはならぬ!今まで目にしたものも、全て忘れろ!」

そこには先程まで俯き加減で迷いと怯えに呵まれ、今にも泣き出しそうだった少女の姿はない。
毅然と立ち、覇気を漲らせ、真っ直ぐに前を見据えた碧眼には微塵の影もない。
まさに威風堂々たるその様は、何者をも寄せ付けない神々しささえ感じられた。

忘れろと言われて、あっさり忘れられるような生易しい出来事などではない。
だが陽子は、命令だ、とは言わなかった。
それでもその凜とした、威厳高き王たる姿を惜しみなく晒した陽子に、誰一人として否を唱えられる者が居ようはずもなかった。

その場に残ったのは陽子と拓錬、浩瀚と・・・、そして何故か尚隆が後方で成り行きを見守るように立っていた。
それが気にはなったが、邪魔立てするでもなければ、帰国してこの事を口外する事も無かろう。
退れと言った時点で退らなかったのだから、今更出て行けと言ったところで聞く耳を持たぬ事は分かっている。
今は馬鹿馬鹿しい問答をしている余裕など無い。

そう思いながら、陽子はちらと前方を見遣った。
闇の手によって縫いつけられたようにピクリとも動かぬと、そして少し離れたところには桓たいと兵が転がっている。
桓たいはともかく、兵には出来れば居て欲しくないところだが、動けぬ近寄れぬとあっては致し方あるまい。
それに兵の意識は既に弱まり、現状を認知できるような状態でもなさそうだ。





・・・・・・始まる。



拓錬が香を焚き、それを地にそっと置くのを見つめながら、カチャリと水禺刀を握り直した。

先程から水禺刀は暴れている。
閃光を放ちながら震えているのだ。
静まりかえったその場に、虫の羽音のような耳障りな振動音が木霊する。
しっかりと掴まえていないと、今にも勝手に暴れ出しそうな勢いだ。
落ち着かない!放せ!と訴えてくる振動を手に感じながら、陽子はただその時が来るのをじっと待った。



臨兵闘者皆陳烈前行 
受恵敵背篭弓刃矢以射 鎮亡鎮古跋地解精 ・・・・・ 

呪唱と共に拓錬の両の手が目にも止まらぬ早さで次々と結印していくのを、陽子達はただ見守ることしかできなかった。
彼なら妖魔をも折伏出来るのではないかと思ってしまうほどに鮮やかだ。

・・・・・・・・・・ 天地玄妙神遍変通力 離 

最後の一句を紡ぎ終えると、拓錬は結印した手をに翳し、「今です!」と促した。

陽子はごくりと喉を鳴らし、手にした水禺刀に力を込めた。

そして、その時を待っていたかのように、水禺刀は一際目の眩む閃光を放った。

近づくことさえ適わなかったの側へついと歩を進める。
もう何度味わったか知れない、肉を貫くおぞましい感触が刃先から伝わってくるのを感じ、ぞくりと背筋を悪寒が走った。
それが大切な友ならば尚更だ。
もし冗祐を憑けていなかったら身体が拒絶し、きっと最後まで剣を振り下ろすことは出来なかったろう。

、戻ってこい!
陽子は歯を食いしばりながら、心の内で叫んだ。

振り下ろされた刃は光の残像を走らせながら、その胸に呑み込まれていった。