さあ台輔、戻りましょう    NEXT(鬼と死神)へ

は衝立の手前で立ち止まり、恭しく礼をとると、台輔が通り過ぎるのを待って中へ入る。

「お呼びでございますか」
「・・・呼んだから来たのだろう」
陽子は明らかに機嫌が悪い、また台輔にお小言でも言われていたのだろう。
はそっと溜息を吐き、苦笑する。

「怒鳴って喉がお渇きでしょう、お茶を煎れますね」
「怒鳴ってなどいない」
陽子はムッとしている。
「そうですか?外まで聞こえてきましたが」
「だって景麒が悪いんだっ!」
「台輔もかなり譲歩していらっしゃると思いますよ」
「私が悪いって言うのか?」
「そうは申しておりません」
「やっぱり景麒が悪い」
「そうは思いません」
はどっちの味方なんだ」
そういう問題ではなかろう。
「どちらも」
「面白くないな」
「ご期待に添えず申し訳ございません」
「・・・謝られても困る」
ふてくされながら呟くように言う陽子に、まるで小童みたいだなどと思いながら苦笑するしかない。
それでもお茶を差し出すと、口を尖らせたままでも「ありがとう」と律儀に言うから思わず笑いそうになってしまう。

お茶を飲みながらもまだ陽子は口の中で何かブツブツと言っていたが、暫しの間何も言わず様子を見守り、陽子が少し落ち着いたのを見て漸く話を切り出す。
「主上?まさか私にお茶を煎れて欲しくてお呼びになった訳ではございませんでしょう?」
そう言われて漸く冷静さを少し取り戻したのか「ああ、そうだった」とに向き直る。





「謎の殺人鬼の噂は知ってるだろう?」
「はい」
「各地に見張りを置いて兵も巡回させているが、まだ殺人鬼は捕まっていない。神出鬼没で予想は不可能だし掴み所がない相手だ。しかも殺人鬼はどうやら一人ではなさそうなんだ。人を殺しておいて物を盗る訳でもないし、殺された人物に繋がりは見られない。はっきり言ってお手上げ状態だ」
「・・・なるほど。探りを入れてみましょう」
「うん、頼む。何か急ぎの仕事は入っているか?」
「いえ、特には」
「そうか、ならば明日から五日間休暇を申し渡す。更に必要ならば改めて考慮する」
「畏まりました」



陽子から資料を受け取ると自室へ戻り、王宮中が寝静まるのを待って冢宰邸へと忍び込む。
人気がないのを確認し、真っ暗な堂室へと足を踏み入れると、奥の書房から灯りが漏れているのに気づく。
己の気配を消しながら書房の入り口まで行き、中を確認すると書卓に一人の人物、他に人は居ない。
ほっと息を吐き、声を掛けようとしたが、中から「」と呼ぶ声に先を越されてしまった。

はふっと笑んで中に入る。
「お人が悪い。気づいているならもっと早くに声を掛けてください。気配を消すのも楽じゃないんですからね」
言われて浩瀚は漸く書面から目を離すとに視線を移し、くつくつと笑う。
「気配を消すならもっと上手くやることだな」
「あら、私の気配を感じ取ることが出来るのは浩瀚様くらいですわ」
の気配は嫌でもわかる」
「まあ、お嫌なのですか」
はちょっと膨れてみせる。
浩瀚はくすりと笑い「夜這いにでも来てくれたのか」と更にからかう。
その言葉には一瞬思考が停止したが、すぐに浩瀚を軽く睨め付けた。
「余程退屈なさってたのですね、今度殿にでも夜這いに来させましょうか」
浩瀚は絶句し、「それは勘弁願いたいな」と苦笑する。

浩瀚がふと真顔になった。
「それで?から訪ねてくると言うことは、明日からまた降りるか」
も真剣な表情へと戻る。
「はい、例の殺人鬼の件で」
それにうむと頷き「わかった、気を付けてな」とだけ返し、軽く口づけをする。
二人にはこれだけの会話で充分だった。











翌朝は王宮を出ていつもの宿舘へ行き、房間で身支度を整える。
宿舘から出てきた見目十七,八歳の少女は朝の清々しい空気を思い切り吸い込むように大きく伸びをし、さりげなく視線を通りの向こうの大木へ向けると、そこには予想通り瑛泉の姿があった。

が間諜として動く時にはいつも必ず堯天にあるこの宿舘を拠点とする。
瑛泉は浩瀚の間諜だが、今ではの補佐役兼護衛でもある。
そうは言っても基本的には何をするでもない、万が一の事態に備えてただ見守るだけである。
しかしを見守りながらも隙あらば情報収集に余念がない所はさすが浩瀚の間諜である。



賑わい始めた街並みの中を歩きながら買い物を装い、休憩を装いながら聞き込みをしていく。
殺人鬼の噂は既に街中に広まっているようで様々な話が聞けた、がしかし、資料に書いてあった内容以上の情報は得られない。
結局一日目は何の収穫もないまま終わった。





次の日、宿舘を出ると街外れにある琳明の店へと向かった。
店へ着くまでにもあちこち寄りながら新しい情報がないか聞いてみるが、どれも同じような話ばかりで手応えは皆無だった。

午過ぎになって漸く琳明の店に到着した。
「こんにちは、琳明いる?」
店番をしていたのは琳明の弟だ、利発で人なつっこく店の跡継ぎでもある。
さん、いらっしゃい。姉なら房間に籠もって訳わからない新薬作ってるよ。どうぞ入って」
にこにこと笑む少年は店の奥へとを促す。

琳明の房間の扉を叩き「琳明、入ってもいい?」と声を掛ける。
すぐに中から「どうぞ〜さん、入ってきて〜」と返事が返ってきたので扉を開けて中へ入った。

琳明が書卓に向かって何か書き付けているので適当に側にある椅子に座り、くつろぐ。
相変わらず棚には所狭しと並んだ薬品や調合道具。
この部屋は研究室でもなければ調合室でもない、紛れもなく琳明の私室なのだ。
しかし、女性の部屋という雰囲気を微塵も感じさせない、薬品の匂いが染みついた其処は、その部屋の主のおっとりとした性格には相わない。
それでもは、どこか不思議と落ち着くその雰囲気が好きだった。


少しして「お待たせしました〜」と言って琳明が向かいの椅子に腰掛けようとした時、扉を叩く音がする。
返事を待たずに扉が開いて、少年がお茶を持って入ってきた。
「姉の煎れるお茶は飲むのに勇気いるでしょう。はいどうぞ」
「ありがとう」
は苦笑しながらも余計なことは言わなかった、が琳明は「失礼ね〜」と弟を睨め付ける。
少年はくすっと年相応の悪戯っぽい笑みを浮かべ、「ごゆっくり」とにこっと笑って房間を出ていった。


琳明の店は薬屋というだけあって様々な人間が出入りする、それだけに情報も手に入りやすい。
何か得られるのではないかと思って来てみたのだが、どうやら空振りに終わってしまったようだ。
話しこんでいるうちに、外はすっかり暗くなってしまっていた。





宿舘に帰ろうと店を出て歩き出すと、何処か遠くで悲鳴と怒声が上がった。
声のする方へ走り、慌てふためく人々を掻き分けると、その先には剣を振り回しながら走り去る男の姿があった。
(あれが・・・殺人鬼なのか?)

見ると大径の中程には初老の男が無惨な姿で倒れていた。
生死を確認するまでもない、全身を何カ所も斬られ急所を貫かれて血の海が出来ていた。
その惨さに一瞬顔を顰め、だがすぐに周囲の状況を見渡す。
他に怪我人がいないのを確かめると、そのまま身を翻し、男の後を追った。


男は細く入り組んだ路地を街の外れに向かい走り去り、もその後を必死で追うが、角を曲がったところで忽然と男の姿が消えた。
見失ってしまった、しかし近くに潜んでいるかもしれない、剣の柄に手をかけ、用心しながらも気配を探るように辺りを窺う。
の剣は普通の剣より細身で少し短い、女であり身軽さが武器であるの手に馴染んだ物だった。

取り逃がしたか、と思いかけた時、視界の隅に黒い影が過ぎったのと同時に殺気を感じ、迷わず走り出す。
前方に先程の黒い影を捕らえ、「待ちなさい」と叫ぶと、影は予想に反してすぐにその場で立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた。
待てと言われて素直に従う犯罪者などそうはいない。
だがその男に逃げる様子はなく、その手には抜き身の血塗れた幅広剣が握られている。
は慎重に歩を進め、まるで此方が近づくのを待っているかのように沈黙を保ったままの男との距離を詰めていった。


近づくにつれ、黒い影の存在が徐々に確認できるようになる。
男、さして大柄というわけでもない、だが・・・
何か言い知れぬ違和感がを襲う。
(ただならぬ殺気・・・それに・・・)


があと数歩で間合いに入るかという時、いきなり男が斬りかかってきた。
も瞬時に己の剣を抜き、身構える。

人気のない路地裏は僅かな灯りしかない、相手の動きを見極めることも表情を読みとることも困難だ。
襲いかかってきた男の剣を受け止める、が・・・受け流せない。
(くっ、なんだこの馬鹿力は!?それに恐ろしい程の殺気を感じる、いや、殺気しか感じない)

渾身の力を込めて男の剣を押しながら、反動を利用して後ろへ飛ぶ。
体制を崩しながらも再び斬りかかってきた男をかわし、脇腹へ剣を食い込ませ横に薙いだ。
当然男は激痛に蹲るだろうと思われたのだが、予想に反し、痛みなど微塵も感じていないように再び斬りかかってきた。
(・・・馬鹿な!?・・・あり得ない!)

どんなに鍛えられた人間でも傷を負えば動揺するなり動きが鈍るなりするはずだ、だが目の前の男は自分が斬られたことにまるで気づいていないかのように勢いは衰えず襲いかかってくる。
その表情は苦痛に歪むどころか狂喜に満ち溢れていて・・・。
は背筋が凍り付くのを感じ、息を飲む。

何とか刃を避け、踏み込んで男の肩口を突く。
だが、やはり男には何の変化も見られなかった。
出来れば殺さずに捕らえたい、男の脇腹と肩の傷は出血が止まらぬ限り致命傷となるだろう。
男の繰り出す剣を躱しながら考える。
(このままでは埒があかない、どうすればいい・・・)

に僅かな迷いが生じ、男の剣を真正面から受けてしまった。
男の剣をまともに受け、じりじりと押され、の背中を冷たい汗がつたう。
間近に男の顔をとらえ、僅かな灯りにその表情が浮かび上がった。

男は不気味ににやりと笑っていた、その目に感情や覇気は全く感じられず、まるで死人か人形のようだ。
はいつになく焦りと恐怖を感じていた。
(くそっ!この男正気じゃない。まるで化け物だ)

尋常ならぬ力と殺気。
通常人間の出せる力というものは限られている、本能がそうさせるのだ。
だがこの男は本能に逆らい、おそらく死の瞬間まで己の持ち得る全ての力を出し続けるに違いない。

壁に追いつめられたの剣を持つ腕が僅かに震えだす。
尋常ではない力に押さえつけられ、身動きが出来ない。
やっとの思いで相手の剣を留めているその腕も、痺れが走り、筋肉が悲鳴を上げ始めていた。
やがてそれも徐々に感じなくなりつつある、既に腕の感覚が麻痺してきて、精神力だけで持ちこたえていると言っても過言ではない状態だった。

このままではやられる、と思ったが、不意に一瞬、男の力が緩んだ。
男の剣がぐらっと揺れるのを見て、迷わずその心臓を貫いた。



肩で息をしながら壁伝いにずるずると崩れるように腰を下ろす。
死を恐れたことはない、だが・・・死を覚悟したことは何度もある。
つい先程も・・・死を思った。

目の前には男の死体が転がっている、そしてその脇に立つ一人の男。
瑛泉だった。
男の剣が揺れたのは恐らく瑛泉が男の腕の筋を断ち切ったのだろう。

「・・・遅い、よ」
は横たわっている死体から目を離さず、まだ整わない呼吸で呟くように言う。
腕は痺れて指先の震えも止まらない。
剣を鞘に収めるだけの行為ですら酷く億劫に感じられた。

「お前がすばしっこすぎるんだ。途中で見失った、すまない」
「・・・死ぬかと、思った。。。」
「死なずに済んだだろう」
素っ気なく言いながら瑛泉は男を調べている。

「生かしたまま捕まえたかったけど、余裕が無かったわ」
瑛泉もそれに頷く。
「そうだな、やむを得まい。・・・それにしても、所持品が剣一本だけとはまたご丁寧なことだな、気にくわぬ」
確かにあの様子ではまともに口もきけなさそうだ、狂っているとしか思えない。

「・・・そうね、何か嫌な予感がする」
「そうだな・・・それにしてもお前、強いな。剣を扱うのを初めて見たが、大したものだ」
「まあ・・・ね」
そんなことはない、と常のなら謙遜するのだろう。
だが既に体力を使い果たしてしまったは、それすらも面倒だと言わんばかりに適当に返答するだけに留めた。

「この男、正気を逸してた。ただ人を殺すためだけに存在しているような・・・殺気以外に何も感じられなかったし・・・たとえ生きててもあんな状態じゃ何も聞き出せなかったでしょうね。明日主上に報告するわ、瑛泉も浩瀚様に報告を」
「ああ」


遠くで人の気配がして、すぐに声が聞こえてきた。
おそらく衛士か兵がこちらに向かっているのだろう。
と瑛泉は男をそのままにしてその場を後にした。





は宿舘に向かいながら先程の出来事を思い出していた。
男、殺気・・・あの力と男の目は何を意味しているのか・・・。
男の剣には基本の型や定石のようなものは無かった、それでも素人というわけではなく、確実に急所を狙ってくるやり方は実践で覚えた自己流の剣なのだろうか、ならば・・・。
(あの男もまた、傭兵・・・なのか)

殺人鬼は一人ではないという。
数人で何かを企むのというのはよくある話だが、あのような正気ではない人間には謀というのは不可能だろう。
もし誰かに雇われているとすれば・・・あの男が傭兵ならば、あり得ることだ。

そこまで考え、ふと資料にあった内容を思い出す。
今まで出た被害者数名、市民であったり衛士であったり、その間には何の繋がりも見受けられないし物盗りでもない、と。
本当に繋がりは無いのだろうか、もし無いとすれば一体誰が何のために・・・。

それにもう一つ気になることがある、男の身に何が起きていたのか。
あの状態は普通ではないことは確かだ、まるで魂の抜けた肉体だけが動いているような感じがした。
操られてる・・・いや物語の世界でもあるまいしそれは無いだろう、ならば香は・・・しかし香は神経を麻痺させ陶酔させることはあっても、あのように素早い動きと力を保つのは無理だろう。

頭の中を色々な可能性が飛び交っては行き詰まる、だがは「あっ」と小さく声を発し、足を止めた。
(薬・・・?)
今まで考えた可能性の中で一番確信に近いような気がした。
それにしても、と思う。
果たしてそんなことが可能なのだろうか。
いずれにしてもあらゆる可能性を考慮し、一つずつ紐解いていくしかなさそうだ。
明日再び琳明を訪れてみよう、と宿舘に戻るべく再び歩き出した。