さあ台輔、戻りましょう           NEXT「真相を知る者」へ
雲海の上は今日も良い天気だ。
どこまでも澄み渡る空は、今の彼の心情を優しく苦笑う母親のように沈黙を保っている。
その日、再訪した隣国よりの客人を丁重に持て成した下大夫は、どこか憮然とした表情で、逸る気持ちを必死に押さえつつ、主の元へと向かっていた。

前回の来訪は一月ほど前だったろうか、その時に『また近いうちに来る』と、そうあの方は告げたのだ。
分かってはいたが、それでも落ち着いてなどいられようはずもない。
あの方が来るといつもろくな事がない。
ましてや窓からひょっこり不法侵入するのと違い、秋官を介しての来訪など、敏腕怜悧完璧な冢宰が寝坊して朝議に遅刻するか、はたまた王宮の園林の小さな池で突然大蝕が同時に三つ起きても不思議ではない。





扉の前で一つ小さく息を吐くと、男は客人の来訪を主へと告げた。
「主上、雁国より使者が」
内心とは裏腹に極力感情を押し顰めて言ったつもりだったが、ビクリと筆を持つ手を振るわせた主を見れば、そのささやかな気遣いは無駄に終わったようだ。
「とうとう、来たか」
聞き取れはしなかったが、微かに動いた主の唇が、そう発したように見えた。





下大夫から客人の来訪を告げられた陽子は、一瞬表情を強ばらせ、そして腹に力を込めながら奥歯をぎりりと噛み締めた。
「・・・わかった。すぐに行く」
下大夫が退室するや否や、たまたま側にいた女御を掴まえる。
「鈴、すぐに桓たいに知らせてくれ」
言われた鈴は心得た様子で頼もしく頷き、踵を返した。



本来王宮内では担当区域が厳密に定められていて、一つ用事を言伝るにも、相手に伝わるまでに幾人もを介することになる。
そのため経由途中で微妙に内容が変わってしまうことも多々あった。
だから確実な手段を取るべく、どんな些細な連絡事でも一筆書いて、その書状を相手に届けるというのが常になっていた。

しかし現景王である陽子はそれらを「人手不足と物資節約」の名目の下に廃止。

『人がいないし、紙だって馬鹿にならない。人を介するより直接伝えた方が早いし間違いもない。だいたい、そもそもの則を逸して信の置ける者だけを選りすぐって側に置いているんだから、担当区域が云々などと堅いことを言わず融通を利かせろ』

蓬莱育ちの陽子には、それまでのやり方が酷く面倒且つ不確実なことに思えて仕方がなかったのだ。
それを半ば勅命同然で廃止した事で、今では側に使える者達は以前にも増して逞しくなった。
目的の人物を捜して王宮中を走り回らなければならないからだ。
尤も、いつも政務の途中でいつの間にか姿を消してしまう(抜け出すとも言う)陽子を血眼で捜し回っているので、それに比べれば大凡の居場所が把握できている官を探すことなど今更大変だとも思わない。



鈴が退出したのを見届けると、陽子は一つ小さく息を吐き、大僕を従えて執務室を後にした。










と話がしたい」
開口一番にそう言った尚隆に、陽子はにべも無く言い放った。
「生憎とは本日留守です。遠くまで使いを頼んだので今日は戻りません」

だが実際には、はこの王宮内にいた。





実は先程執務室を出た陽子は客庁とは逆の方向へと向かっていた。
そのすぐ後ろからは大僕と、そしてもう一人。

呼び出されたかと思えば何故か突然「ついてこい!」と命じられ、後宮へと向かう道すがら、は必死に食い下がっていた。

「私が行って話して参ります」
「駄目!却下!は顔を出すな、勅命っ!!」
また勅命ですか、と内心で嘆息しながらも尚言い募ることを辞さない。
「何故です!?これは私自身の問題、本人が直接出向くのが筋というものでしょう。あの方だってきちんと話せばきっと分かってくださいます!ですから・・・」
「駄目だと行ったら駄目だっ!・・・悪いけど、少しの間だから」

何処かの堂室に入ったと思ったら、陽子は素早く身を翻し、だけを残して出て行ってしまった。
「え・・・あ、ちょっ・・・しゅ、主上!?」
「いいか、ここから絶対に出てくるな。私が何とかするから」
無情にも鍵の掛けられる音が重々しく響く中、扉の向こうから掛けられた陽子の声に、自分は閉じこめられたのだと漸く理解する。
余りにも強引な王のやり方に、はただ溜息を零すしかなかった。

これは私の問題だ。
私が直接延王と話をしなければならないのに・・・。

何とか抜け出そうと窓を開け、そこから庭院へと降りてみる。
扉の鍵はしっかりと掛けたくせに、窓から抜け出すとは考えなかったのだろうか。
いつもどこか詰めが甘い主を思い、思わず苦笑が零れる。

が閉じこめられたのは、後宮の中でも最奥の北宮、つまり水陽殿である。
そのすぐ手前には祀殿が、また両翼には東宮と西宮がそれぞれ位置している。
そして西宮には太廟がある。
太廟と言えば、歴代王が祀られている場所だ。

庭園に出て見渡すと視界に西宮の建物が確認できた。
ゴツゴツとした岩に阻まれてはいるが、その隙間からは辛うじて建物の片鱗が窺える。
その傍らに見えている尖塔が恐らく太廟だろう。
このまま南に向かえば正殿に入ることが出来る。
そう、平面図上の理屈ではその通りなのだが・・・。

ここは凌雲山、文字通り”山”なのだ。
それも切り立った岩壁を削り、転々と建物が配置されている。
後宮と内宮の間にも、岩肌がその姿を晒し、そこを人が行き来しようと思えば勿論命がけの旅となるだろう。
いや、その危険すぎる旅に挑戦しようものなら、間違いなく死神に出会す羽目になるはずだ。

後宮と内宮とを唯一繋ぐ通路は、御丁寧にも警備がびっしりと立ち並んでいる。
勿論、内宮への門はしっかりと閉ざされている。
その門を抱くように高く分厚い隔壁が聳え立ち、梯子と縄を使っても乗り越えられるかどうか疑問だ。

先程、詰めが甘いなどと思ったことは撤回せざるを得ない。
なるほど、ここまでしてくれたのなら、いくら自分でも容易く内殿に戻ることは出来まい。
陽子の徹底ぶりに、何もこうまでしなくても・・・とは深く嘆息した。



ふと見上げた空は雲一つ無く碧かった。
それも当たり前のこと、雲海の上はいつだって晴れている。
常ならばそんな至極当然のことは考えもしない。
・・・晴れているはず・・・?

先程の堂室もそうだったが、ここは・・・。
初めて訪れたはずの其処に妙な既視感を覚え、何だろうと首を傾げる。

いや、それよりも・・・、この言い知れぬ違和感は何だろうか。。。

は辺りを見渡して不思議に思った。
霞んで見えるのは・・・気のせい?
ほんの数刻前、窓から外へと脱出を謀った時には、確かにいつもと変わらず澄み切った空気を肺に送り込んだはずだった。
だが今は・・・。

薄ぼんやりと霧が立ちこめ、その所為だろうか、気温も僅かに下がっているように感じる。
指先から血の気が失せていくように冷えてきて、その冷気が徐々に身体を這い上がってくる。
堪らず擦り合わせた手がしっとりと汗ばんでいるように感じるのは果たして本当に汗なのか、それとも霧の湿気だろうか。
常日頃、澄んだ空気に慣れきってしまっているため、この程度の霧でも息苦しく感じる。
普段は無意識にしている呼吸を、これ程意識したのは何時以来だろうか。

そんなことをぼんやりと考えていたが、不意に何か嫌な気配を感じ取り、徐に背後を振り仰いだ。
しかし勿論そこには誰も何もない。
あるのは薄気味悪く立ちこめる霧だけ。
その霧も、先程より濃く、暗くなった気がする。

「なんだか・・・嫌な、感じ・・・・・っ!?」

小さく呟きを吐き出した口から、次の瞬間詰まった声が漏れ出た。
唐突に身体がずしりと重くなったのだ。

ぞくりと全身を悪寒が包み、次いで地の底を這うような低く重たい音が響く。
肺は新鮮な空気を取り込もうとするが、まるで何かに締め付けられたように胸が苦しく押し潰されそうだ。

まるで幾人もに羽交い締められ、のし掛かられているような圧迫感を感じながら、音は容赦なく鼓膜を揺さぶる。
それが単なる不快な音ではなく、声なのだと分かったのは、自分がその場から一歩も動けなくなっていることに気付いた頃だった。

耳を塞いでも声は一向に消えず、それどころか、どんどん大きくなっていく。
そのあまりにも不快な大音響に気が狂いそうなほどだ。
脳に直接響いてくるそれは悲しみ、憎しみ、悔い・・・、様々なものが一気に身体の中に流れ込んでくるような気がした。
全身が氷のように冷えていくのを感じ、視界が霞む。
それ以上立っていられず、堪らずにその場にしゃがみ込んでしまった。

「・・・い・・・いや・・・やめ・・て・・っ・・・」

呼吸すら間々ならず酸欠に喘ぎながら、きつく閉じた瞳から意図せず涙が零れ落ちる。

頭部の無い身体が首を返せと喚く影。
ぱっくりと割れた腹から溢れ出す内臓を押さえながら、助けてくれと泣き叫ぶ影。
何体ものそれらがの首を絞め、あるいは縋り付き・・・。

私の所為?私が悪いって言うの?私が側にいなかったから?
・・・違う。私は単なる守り役に過ぎない。堕ちたのは貴方達自身の問題よ。私の所為じゃない。
どうして欲しいのか・・・一体、どうしろというのか。。。

責め咎めるような呻り声に必死で抗おうとしたが、結局各々の思いは一方通行のようで相手に届くことはなかった。
為す術もなく、ズルズルと闇に呑み込まれていくのを、ただただ薄れ行く意識の中で感じる事しかできない。
「・・・どう、し、て・・・・・・」
とうとう限界に達したは、身体中の意識という意識を侵入者に乗っ取られたかのように、くたりと地面に崩れた。



幾つもの黒い影は、力無く横たわったそれを貪るように不気味な触手を伸ばしていた。