さあ台輔、戻りましょう           NEXT「救われぬ思念」へ
「・・・は?・・・今何と?」

慶国随一有能な冢宰を呆けさせたのは、他でもない彼の主の一言だった。
またとない貴重な冢宰の間抜け面を拝めることにも意に介せず、陽子は心底辟易したようにただ力なく嘆息を零した。
「こうなってしまった以上仕方ないだろう」

それにつられるように浩瀚も小さく息を吐く。
「・・・無論、このような事態に陥るとは予測だに出来ませんでした。・・・が、余りにも処断が早急すぎは致しませんか。まだ充分に検討する時間は御座いますでしょう」
先程の王の言葉を果たして処断などと言えるだろうか、という疑問はこの際頭の片隅に追いやっておこう。
今はそのような些末なことに拘ってはいられない。

「検討?・・・ならば、他にどうしろというのだ。何か良い案でもあるというのか?」
思わず怒鳴りつけそうになりながらも、若き女王の発した言葉は実に力無いものだった。
余りにも唐突且つ予想外の事態に、怒鳴る気力すら削がれてしまったらしい。
「・・・いえ。・・・ですが、それをこれから考えるのです。きっと何か良策が見つかりましょう」
この怜悧な冢宰を以てしても、現在のところ良案は浮かんでいない。
その戸惑いが伝わったのか、陽子は更にがっくりと項垂れて深く溜息を吐いた。
「はぁーっ・・・そんな気休めはよしてくれ」

だが、今一番泣きたいのは恐らくこの話題の中心となっている張本人ではなかろうか。





時を遡ること数刻。





いつものように朝議を終え、執務に就こうとしていた陽子の元へ、血相を変えた下官が飛び込んできた。
「しゅ、主上っ!一大事に御座いますっ!」

本来ならばその場で取り押さえられ、王によっては即刻処罰を申し渡したことだろう。
だが此処慶の国では、王は極めて寛容なようだ。
入室の礼も忘れ、髪を振り乱しながら無様に転がり込んできた男を、陽子はちらと睨め付けただけだった。
「・・・なんだ、騒々しいな」
「さ、先程、え、延・・・い、いえ・・・雁国より使者が・・・」
その言と見覚えのある顔からして、その男が秋官の一、下大夫だと分かる。

「ああ、落ち着け。ほら、水を飲んで、・・・おい、そんなに慌てるな」
恐れ多くも王より賜った水を無言で奪い取り、慌てるなと言う忠告すら無視して一気に煽る。
案の定、ゲホゲホと咽せた男を、陽子は呆れた眼差しで見遣りながら「それで?使者がどうしたって?」と先を促した。
「そ、そうでした。と、とにかく直ちに客庁へお越しくださいっ!」
この男、接待を預かる身とあって、普段ならもっと落ち着き払って流暢に話すのだ。
どうやら水の効果は喉を潤しただけに留まったようだと、相変わらず舌を噛みそうな喋り方をする男に、陽子は肩を竦めた。
この慌て様と動揺振りは只事ではないな、と全身に微かな緊張が走る。
「わかった、すぐ行く」
先程とは打って変わった堅さを含む声音に、男は大役を果たしたと言わんばかりに安堵の表情を浮かべ、恭しく礼を取り、踵を返した。





雁国からの使者・・・・・。
あの下大夫は確かにそう言っていたのだが・・・。



客庁に行ってみると、そこで大仰に踏ん反り返りながら茶を啜っていたのは、陽子もよく見知った男だった。
額に手を当て、軽く溜息を吐く。
「・・・また、突然ですね。今日は如何されましたか?下大夫に”使者”と告げたからには、政務を抜け出して遊びに来たわけではないようですが・・・」

男は陽子の軽い呆れと嫌みに、ふっと口端をつり上げ、「まあ、座れ」と向かいの席を顎でしゃくった。

「俺も随分と年を取ってしまった。このところ政を行うのがえらく退屈でな。それを朱衡達が見かねて嫁を貰ったらどうかと言いだしたのだ。確かに潤いは必要だと思うし、よく考えてみれば・・・実は最近、とある女のことが気になって気も漫ろになっていたのだと、漸く気付いたのだ。女に懸けては達観していると自負していたが、どうやら己に関しては存外鈍かったようだ」

唐突に訳の分からない話を切り出すなど、この男にしては今更だが・・・。
ははは、と豪快に笑ってみせる男の真意が相変わらず読めない。
王妃を?・・・そう思うならば、何処の誰とでも勝手に仲良くやればいいし、一体この国に何の関係があるというのだ。
それとも嬉しさのあまり、単に惚気話を聞かせに来たとでも言うのだろうか。
・・・あ、もしかして何か祝いの品をくれという催促だろうか。。。

半ば呆れながら聞いていた陽子に、次の瞬間、ニヤリと鋭い笑みを向けた男は言い放った。
「そこでだ。その女を後宮に迎え入れることにした」
その射抜くような眼光に、陽子は嫌なものを感じ取った。
それに、どこか思わせぶりな態度が妙に引っ掛かる。
・・・なにか・・・ある・・・・・。

「あの、それは・・・どういう・・・」
もしかしてこの王宮内にいる誰か?
そう聞こうとした陽子の言葉を、男は手を挙げて遮り、裏の有りそうな笑みを深くした。

「まあ、聞け。恐らくは陽子の察しのとおり、その女はこの王宮にいる。・・・どうだ陽子、たかが女官如き、一人欠けたとて不自由はなかろう?何なら雁から代わりの者をくれてやっても構わない」
ニヤッ!と勝ち誇ったような笑みを向けられ、陽子は蟀谷を引きつらせた。
女官と聞いて咄嗟に頭の中で把握している者を次々と思い浮かべる。
「・・・・延王、そこまで仰るのですから、当然相手の女性は了承済みなのでしょうね?たかが女官一人と仰られますが、私にとっては皆大切な者ばかり。そのような話は誰一人として聞いたことは御座いませんし、勝手に決められても困ります。相手の女性は、一体誰なんです?」
勿体振るように間合いを詰めて楽しんでいる様子の男、尚隆に対して、陽子は焦れったいとばかりに一気にこちらからその間合いを詰めていった。

だ」

どうせまたはぐらかされるだろうと予想していた陽子の読みは、いとも呆気なく覆された。
別段何でもないことを話すような飄々とした口調で即答した尚隆は、先程までの含み笑顔など嘘だったかのように涼しい顔をしている。
陽子は思いもよらなかった名に、唖然としながら目を瞬かせた。

「・・・・・・はっ!?・・・・・・?」

・・・って誰だっけ?・・・あのの他に居たっけ?・・・いや、と言えば一人しか・・・・・でもでも、彼女には浩瀚が・・・・・。

「・・・ちょっ!駄目、・・・・・駄目駄目、絶対に駄目!他の者ならともかく、だけは絶対に駄目ですっ!!第一、本人が同意するわけがないでしょう!な、何を考えているんです、貴方はっ!?」

これが見たかったのだ、と言わんばかりに陽子の動揺振りを意地悪げな笑みをもって楽しんでいる。
「おいおい、俺は王だぞ。王が女を選ぶに誰の同意の必要がある。後宮に憧れぬ女は居らぬし、王が来いと言えばそれは命令にも等しい。相手に断る道理など無いな。数少ない王の特権を、こう言う時こそ有効活用せねば勿体なかろう」

ぬけぬけと言いたい放題を・・・。
陽子の頭の中で血管がブチッ!と音を立てて切れた気がした。
この際、自分が勅命で景麒の溜息を禁じたことや、王宮を抜け出すために虎嘯に勅命で暇を出したことや・・・は、きれいさっぱり忘れ去っておくことにしよう。
「なっ!何が数少ない王の特権ですかっ!貴方はいつだってその権力を笠に着て政務放棄や王宮脱出や・・・、やりたい放題じゃないですかっ!本人の同意もなく後宮に無理矢理閉じこめるなんて余りにも気の毒すぎます!横暴すぎますっ!第一はっ・・・・・」

尚隆は突然押し黙った陽子を訝しむように片眉を上げた。
「ん?第一・・・何だ?」

自分は今、勢いに任せて何を言おうとしたのだろうか。
自分の護衛だと?浩瀚と野合中だと?それとも、慶国の大事な宝重だと・・・?
前の二つは断る理由にはなり得ない、最後の一つは相手が誰であろうと禁句だ。
「あ、いえ・・・その・・・」
口ごもる陽子を視界の片隅で一瞥し、コトリと茶碗を置くと尚隆は先程の悪戯っぽい笑みから一転して、一国の王たるに相応しい鋭い眼光を向けた。

「こちらの調べでは何も問題ないはずだな。はまだ正式に官として拝命されていない。しかも慶の人間かどうかも不明だ。その上、どうやら籍が見あたらぬようだが・・・そのような者を王宮に、それも王の側近に置いておくことの方が余程問題なのではないのか?」
「っ!?・・・い、いつの間にそんなことまで・・・」
途端、陽子の顔が僅かに青ざめたのを尚隆は見逃さなかった。
「それくらい、調べようと思えばいくらだって方法はある。・・・その様子だと、調書に手抜かりはないようだな」
フッと笑った尚隆に、陽子はしまった!と後悔したが後の祭りだ。

「実は、そんな馬鹿な話はあるかと半信半疑だったのだが・・・。何故未だに籍を置かぬのだ?仙でない者が側近とは、一体どのような事情あっての事だ?」

「そ、それは・・・。我が国の事情であって、いかな延王といえど明かすことは出来かねます」
浩瀚が裏で手を回し誤魔化してきたこと、この国の者でさえ未だ知らぬ事実を、一体どのような手段で調べたというのか。
少し考えれば出てくる答えは一つしかない。
(王宮内に間者が紛れ込んでいる。それもかなりの手練れだ)
だが本来であれば国の存亡にも関わる深刻なその問題も、今の陽子にとってはどうでも良いことだった。
治世五百年を誇る隣国の名君に、駆け出しの慶が盗まれて困るようなものなど無きに等しい。

「ああ、そういえば・・・。水禺刀の鞘は二度と造らぬのか?」
「・・・・・はぁ?」
突然話題を変えてきた尚隆が何を言わんとしているのか読み取れず、思わず間の抜けた声を発してしまった。

「水禺刀は鞘がなければ暴走する。昔、同じように鞘を無くした王がいた。その王は毎夜のように暴れ出す水禺刀を御しきれずに狂乱し、最期は自らの首を切り落として死んだそうだ」

『いっそ死んじまえば楽なのに。痛みなら一瞬で終わる』

ふと脳裏に忘れていた蒼猿の言葉が甦り、思わずその王の惨状を想像して身震いする。
「・・・・・そ、そんな・・・」

「その分だと、どうやら今のところは暴走はしていないようだな」

コクンと頷きかけて、陽子ははっとした。

鞘を無くしてから後、玉座についても最初の内は確かに暴走に悩まされていたのだ。
いつからだったろうか、それが無くなったのは・・・。
思えば、固継に降り、そこから先バタバタと慌ただしく過ごしている内に、気がついたら暴走はなくなっていたように思う。
そう、確かに和州の乱の後に王宮に戻ったときには既に暴走は皆無に等しくなっていた。
実際には今でも時折妙な幻を見せるが、暴走と呼べるほどの厄介なものではない。
「・・・ぁっ!?」
もしかして暴走が抑えられているのは、が側にいるから・・・?

今更ながらに漸く何かに気付いた陽子だったが、それをこの場で口にすることも出来ず、押し黙ってしまった。
その事を察したのか否かは分からないが、尚隆はゆるりと席を立つと戸口の方向へと身体を向ける。
「まあ良い。今日の所は打診に来ただけだ。また近いうちに改めて来る」
そう言い残すと、何事もなかったように帰って行ってしまった。





後から下大夫に聞いた話では、尚隆曰く、『慶国の華を頂きたく、事が事なので、よって使者に委ねること憚られ、こうして自らが使者となり参った。景王には「雁国より使者が参じた」とだけ伝えろ』とのこと。
それを聞いた下大夫が、てっきり延王が陽子を妾にするのだと思いこんでしまったそうだ。
それを聞いてしまえば、先程の下大夫の狼狽振りも頷けるというもの。
尚隆もそれが分かっていながら、態と翻弄するようなことをして楽しんでいるのは明らかだ。
「・・・まったく、あの方の悪趣味にはほとほと手を焼かせられる。。。」
陽子は盛大に溜息を零したのだった。

そうして現在、陽子は途方に暮れていた。
「やはり正式に夫婦になるしかないだろう。それとも、嫌なのか?」
「・・・いえ、嫌というわけではないのですが・・・」
悩んだあげく、陽子の出した結論は、浩瀚とが野合という立場を引きずっていることに問題があるということだったのだ。
夫婦になってしまえば、さしもの延王も諦めるだろうと、そう考えたのだ。
だがは慶国の宝重、一人の男のものとなることなど到底許されぬ事だ。
それを目の前の主はいとも容易く「婚姻してしまえ」と言ってのける。
主の突拍子もない言動は今に始まったことではないが・・・。
宝重の何たるかを真実理解しておられるのだろうかと、浩瀚は密かに嘆息した。