さあ台輔、戻りましょう       NEXT「延王の后」へ


平和はいつも犠牲の上に成り立っている。
どれほど義を尽くしても振り落とされる者が出る。

数多の戦いが繰り返される。
人は皆、己の正義を確信しながら道を歩んでいる。
しかし、果たしてそれが真実正しかったのかどうかは長い時を経てみないとわからないものだ。
否、もしかしたら永久にわからないままなのかもしれない。

流れた血はいつしか歴史の中に埋もれ、忘れ去られる。
大地に抱かれ眠る落ち葉のように・・・
そして、人は再び・・・・・血を貪る








木漏れ日と戯れるかのように、地面に落ちた白く目映い点を足裏に拾いながら、ゆっくりと林の中を進む。

ふと翳した手に温もりを感じた。
・・・不思議だな、と思う。
手のひらに落ちた陽光は確かに其処にあるのに、掴んでも掴めない。
それでも暖く、歩む先を照らしてくれる。

見えているのに見えない、有るようで無い。

すぐ脇を流れている小川の水を掬ってみる。
水は手のひらでキラキラと輝き、その存在を誇示していた。
だが掴もうとしてもやはり掴めずに零れてしまう。
風が吹けば水面は揺れ、その流れを変える。

生きるということも、こういう事なのだろうか。
漠然と、だがしっかりと・・・。
時には葛藤し、時には流され・・・。

そんなことを考えていると、無性に可笑しくなってくる。
真剣に思い悩むほど大した存在でもなかろう。
広大な大地に立つ小さな存在、天の治める十二国の世界の中にある小さな小さな存在。
今見下ろしている米粒ほどの虫達のように、自分もまた日々をただひたすら生きているだけに過ぎないのだ。

こんな事を話したら、あのお堅くて理屈屋の台輔などは「虫や水と人が同じなわけがないでしょう」などと言いながら眉間に皺を寄せそうだな、と想像して思わず吹き出しそうになる。

そんな詮無い事を考えていると、少しは身も心も軽くなったような気がした。





不意に、カサッと小さな音が耳に入ってきた。
静寂の中でのそれは、微睡むような気持ちを一瞬にして引き締めさせる。

つと足を止め、そのままの体勢で用心深く視覚と聴覚を駆使して辺りを探ると、すぐ背後にふわりとした気配を感じ取った。
振り向こうとした首を動かし掛けたところで後ろから拘束され、口を手で塞がれる。

「っ・・・こう・・・」
顔を見ずともそれが誰なのかはすぐに分かった。
背後からまわされた腕の拘束も、口を塞いだその手も、酷く優しげで温かく、自分のよく知っているものだった。

「樹の上を見てごらん」
耳元でそっと囁かれた声に、言われるまま前方に目をやる。

間近にあった樹から順に視線を巡らせ、すぐにそれは見つけることが出来た。

「どうやら、親子のようだな。巣立って間もないのだろう、まだ足元が危なげだ」
がそれを見つけたと悟ると、浩瀚は口に当てていた手をそっと放し、クスリと小さく笑いを含んだ声で囁いた。

「・・・可愛い。ここにもまだ栗鼠がいたのね」
どうやら先程の音は、枝の上から木の実を落としてしまった時のものだったらしい。
大きめの、親であろう栗鼠が此方の気配に気づいたのか、丸い目を向け、じっと様子を窺っている。
そのすぐ横では小さめの栗鼠が、愛らしいふわふわとした尾をピクピクと小刻みに揺らしながら、細い枝で均衡を取りつつ、覚束ない足取りで動き回っている。

街のすぐ脇にある小さな林。
既にそこから失われていたと思われていた小さな生命。
だが今、目の当たりにしている光景は、百年前のあの頃と何も変わらず、ひっそりと息づいていた。





暫し栗鼠親子の微笑ましい姿を堪能していたが、すぐに何処かへ行ってしまうだろうという予測とは裏腹に、相変わらず親子はその場所に留まったまま。
此方が動かないので危険だとは判断しなかったのだろうか。
動いてしまえば当然驚いて逃げるのだろうが、どことなく気の毒な気がして、動くに動けなくなっていた。

しかしいつまでも此処にこうして立ち尽くしているわけにもいかない。
浩瀚も同様に思ったのか、「そろそろ、行こうか」と囁く。
それには頷きを返し、腰にまわされていた腕が離れるのを追うようにゆっくりと振り向いた。
同時にカサカサと枝葉の揺れる音が耳に飛び込んでくる。
親子が逃げたのであろう事は容易く想像できたが、そちらを再び見ることはなく、そのまま浩瀚の首に緩く腕を絡める。

軽く触れるだけの、だがとても優しく甘い口付け。
二、三度それを交わし、穏やかな笑みを浮かべる。
「何時からいらしたのです?」
嬉しそうに、だがどこか咎めるような口調で問いかけた。
「つい今し方」
そつなく返された答えに、は呆れた視線を向ける。

人が踏み入ってくる気配を感じれば、栗鼠親子があのように無防備な姿を晒すはずもない。
おそらく随分と前からこの場に立っていたのであろう浩瀚を軽く睨め付けた。
「浩瀚様の”今し方”とは、一体どれ程のものなのでしょうね」

期待通りの反応と可笑しさに、浩瀚はくつくつと喉を震わせている。
を待つ時間など然程の事もない。その姿を捉えているのであれば尚更だ」

・・・やはり。
自分が墓前にあった時からずっと、自分の姿が辛うじて視野に入る距離の此処で、そっと見守ってくれていたのだと確信した。
だがそれを咎めることも、何か言ってやろうと思うこともなく、ただ感謝の気持ちだけで満たされる。
そして本来なら忙しいはずの冢宰に、こうして気を利かせて送り出してくれたのだろう主上にも。
といっても大方、拒む冢宰に「勅命だ」とでも指を突きつけて無理矢理追い出したのだろう、と容易く想像出来てしまい、思わず苦笑が零れてしまう。

「折角だ、少し街を散策して帰ろうか」
本当ならたまには宿でも取ってゆっくりとしたいところだが、とは口には出さない。
早朝から行われる朝議を冢宰が欠席するわけにもいかないのだから。

もそれは十分承知であるし、何よりもこうして二人揃って王宮から離れるのは久しぶりのことなのだ。

「浩瀚さまの”少し”は如何ほどでしょうね」
先程の遣り取りからして、言外に「少しと言わず、もっとのんびりとしましょう」と含みを持たせて嬉しそうに微笑んだ。

「そうだな。相手がならば、の気の済むまで・・・といったところか」
「あら、それはどうやって推し量りますの?」
を見ていれば分かる」

端から見れば一見何の意味もない遣り取りも、二人にとっては過分すぎる程に満ち足りた一時であった。