さあ台輔、戻りましょう         NEXT「食べてみる?」へ

あれから数ヶ月後。

尚隆は金波宮を訪れていた。
いつものように掌客殿の一室でを含めた数人の女御が尚隆をもてなしていた。

茶菓の用意をし終え、退出しようとしていたところへ背後から尚隆が聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声でさりげなく声を掛ける。
「紫香」
他の女官達がそのまま扉へと向かっていく中、の足が一瞬止まった。
だが聞こえなかった振りをしてはそのまま去ろうとするのを尚隆が呼び止めた。
「ところで、話がある」
は一抹の不安を感じながらもそれをおくびにも出さず、落ち着き払った笑みのまま振り返った。
は他の女御を先に下がらせ「何で御座いましょう」と尚隆に問う。

だが尚隆はただ黙ったままを凝視する。
「・・・延王君?如何なさいました?」
は穴が開きそうな程見つめられ、気まずそうに苦笑する。

顔も声も違うが・・・似ている。
それに先程「紫香」という名を口にした時一瞬だが確かに反応があった。
薄く化粧を施して大人びて見えるが、それに今はきつく結い上げているがその艶やかな紫紺の髪とあの吸い込まれるような瑠璃の瞳、そして何よりその身に纏う不思議な気。
(・・・やはりな)
尚隆は何か閃いたと同時に間違いないと確信したようだった。

「あの・・・延王君?」
本当に穴が開くかと思う程見つめられ、はどうしたものかと首を傾げたが、次の瞬間には身動きがとれない状況に陥っていた。
「・・・んっ!?」

不覚にもまたやられてしまった。
これで三度目だ。
「な、何をなさるのですか!」
危うく手を出しそうになったが何とか思いとどまる。

の唇を解放した尚隆は予想していた平手打ちが来ないのでおや?と思ったが、ニヤリと口端を上げる。
「やはり、お前か。・・・なるほど、道理で会った事があるはずだ」

は内心ではギョッとしたが、表面上は平静を取り繕った。
「私が、何か?」
「俺を騙しきれると思っているのか」
「何のことでしょう。延王君を騙すなど畏れ多い事をする者がいらっしゃるのですか。私がその者に似ていると?」
「ああ、似ているな、まるで同一人物だ。唇の感触も抱き心地もな」
はあからさまに言われて思わず絶句する。
「・・・・・」
だが絶句したのにはもう一つ理由があった。
入り口に浩瀚が殺気を漲らせて立っていたのだ。

当然聡い尚隆は浩瀚の殺気の意味を悟り、人の悪い笑みを浮かべる。
「なるほど、そういうことか」
浩瀚はちらりとに視線を向け「もう下がって良い」とを下がらせた。

「延王君には少々お戯れが過ぎるようで御座いますね」
浩瀚は堂室ごと凍り付きそうな程の極上の笑みを尚隆に向けた。
「恐れながら御忠告申し上げます。穏やかな海と侮って踏入れば足下を掬われる事も御座いましょう。御身が大事ならば迂闊に踏入らぬ事です」
尚隆は後ずさりながら、朱衡より恐ろしい、と冷たい汗を流した。

「お前達は・・・揃いに揃って俺を脅迫するのか」
「おや、それは心外で御座いますね。私は延王君の御身を案じて御忠告申し上げたまでに御座います。それに、今の仰りようは・・・先程の女官に脅迫されたので御座いますか?まさか稀代の賢君とも謳われる延王君が他国の一介の女官ごときに脅迫されるなど有り得ない事で御座いましょう?秘密を握られたり、余程の事がない限りは・・・」
「うっ・・・それは・・・」

尚隆の動揺を見て取り、浩瀚はふっと目を細め慇懃に礼をとる。
「これは不躾な物言いを致しましたことをお詫び申し上げます。・・・さて、今宵の宴の件について御説明申し上げます」
浩瀚が何事もなかったかのように事務的に説明しているのを、まだ冷や汗の引かない尚隆は半ば上の空で聞いていた。
(くそっ!相手が浩瀚だろうが陽子だろうが俺は諦めないぞっ!)
密かに闘志を燃やす尚隆であった。












そして更に数ヶ月後、金波宮を訪れたのは戴極国王驍宗、泰麒、李斎。

宮内に入るや否や泰麒はそわそわと落ち着きが無くなった。
泰麒の後ろについて歩いていた李斎は「台輔、如何なさいました?」と首を傾げた。
「居ます・・・あの方が・・・」
李斎を振り返った泰麒はその黒い瞳をきらきらと輝かせていた。
「あの方、と仰いますと?」
李斎は訳がわからず問い返したが、泰麒は聞こえていないかのように「あっ」と小さく声を上げると立ち止まった。
その視線の先には一行を出迎える陽子、景麒、浩瀚とその後ろに控えるの姿があった。
走り出したいのを我慢し、驍宗の後に続く。

「遠路をようこそおいで下さいました。お待ち申し上げておりました」
などと一応の挨拶はしたものの、堅苦しい雰囲気は最初の一瞬だけで・・・。

「中嶋さん、お元気そうで何よりです。本当に色々と有り難う御座いました」
「高里君も元気そうで安心しました。戴も大分落ち着いてきたみたいで良かったですね」
陽子と泰麒はすっかり同窓会気分で盛り上がっていた。

「ところで、あの・・・」と、ふと泰麒が立ち止まり後ろを振り返った。
最後方に従うを戸惑ったように見つめる。
泰麒の視線を受け、は困ったように微笑みながら改めて礼をとった。

泰麒は(綺麗な人だな)と思わず見惚れてしまった。
見た目は違うものの、の纏った気は間違えようがなかった。
あの時も不思議な、どこか癒される暖かいものを感じていた、そして今のからもそれを感じる。
それにあの時の過酷な状況では無理もないが、切羽詰まったピリピリしたものは全く無くなっている。
まるで柔らかく心地よい春の陽光に包まれているようだと思った。

陽子がくすっと笑いながら泰麒を促す。
「見た目が全然違うから驚いたでしょう。彼女の事は後でゆっくり話しますから取り敢えず堂室へ行きましょう」
泰麒は「はい」と再び歩き出した。

「以前こちらにお世話になった時にも彼女に会ってますが、その時は何も感じなかったからちょっと驚きました。まさか彼女だったとは・・・」
「彼女は変装が得意だからね。普通の人は同一人物だと見破れないよ。たぶん李斎殿もまだ気付いてないと思うよ」
すっかり口調が泰麒仕様になりながら陽子は楽しそうに言った。
その李斎はというと、陽子の予想通り(ああ、以前お世話してくれた女官だわ)としか思っていなかった。

客堂でお茶を飲みながらくつろぎつつ、驍宗は李斎が世話になった事、泰麒捜索に尽力してくれた事の礼を述べ、また戴が漸く落ち着きつつある状況を話した。
己の力を過信し強引だった上に、泰麒を大切にする余りに過保護になってしまい、その意味を履き違えていたと顧み、もう少し謙虚さを身につけようかなどと冗談交じりに苦笑した。

ひとしきり各々の国情報告や情報交換等を遣り取りし終えると、陽子は「実は内々にお話ししたい事が御座います。、こちらへ」と隅に控えていたを呼ぶ。
は驍宗達の座っている所から数歩離れた位置で叩頭をした。
場の空気が張り詰め、緊張感が漂う。

陽子はから驍宗へと視線を戻した。
「この者は女官のです。本来ならば戴が落ち着いた頃を見計らって本人が伺う予定でしたが、今回泰王がいらっしゃるということでこの場を借りてお話ししようと思いまして。勿論泰王がお望みならば改めてそちらに伺うように致します」
その説明だけで全てを把握できたのは泰麒だけであった。
驍宗も李斎も「何の事でしょう?」と首を傾げている。

陽子は少し恐縮しながら「うちのが貴国で派手に暴れてきたようで、お詫び申し上げます」と頭を下げた。
暫し場が沈黙し、やがて李斎が「あっ!」と声を上げて立ち上がった。
「貴方が・・・あの時の・・・?」

未だ叩頭を保ったままのは「はい」と答えた。
それでも李斎はまだ信じられないという顔で唖然とし、驍宗は勿論まだ何の事かさっぱりといった顔をしていた。
救出された当時の驍宗は記憶がほとんど無い、無論の事も覚えていなかった。

は伏したままほんの少しだけ頭を上げ、全てを語った。
見えない力を持ったため、その力が強かったため玄綜に利用されようとした事、阿選の事、全てを。
そして阿選の本当の姿を知ってしまった事も話し、最後に阿選を救えなかった事を詫びた。

驍宗はから視線が逸らせずにいた。
李斎と泰麒から阿選が死に、自分が救出された事は聞いていたが、改めてこうして詳細を聞かされ驚愕に言葉も出ない。
それは李斎も泰麒も同じで、二人とも改めて驚嘆していた。

「そうだったか」
驍宗はゆっくりと息を吐いた。
「私は愚かだった。王として一から修行し直さねばなるまいな。殿、よくやってくれた。心から礼を言う。貴国には李斎と泰麒が世話になった上に大事な殿を危険な目に遭わせてしまい誠に申し訳なかった。何か償いをさせて欲しい」
そう言って驍宗が頭を下げたので陽子は「とんでもない!頭を上げてください」と慌てた。
「そんな償いだなんて仰らないでください。それを言うならこちらこそ償わなければなりません。それに戴が安定してくれるのは何よりも嬉しい事なんです。私もまだ未熟者ですし胎果です。お互い助け合い、更なる親交を望みたいのですが」
「それは勿論、私も望むところです。同じ胎果として蒿里の相談相手になって頂けると尚有り難い」
そう言って驍宗は成長した泰麒の頭を昔と変わらず無造作に撫でた。
泰麒は恥ずかしそうに首を竦め「驍宗様、僕はもう子供じゃありませんよ〜」と抗議の声を上げながらも嬉しそうだった。
そうしてその場は一気に和んだのだった。