小学校6年生の頃卓球が流行っていて、当時受験等で非常にお世話になっていた宮崎先生に、受験終了のご褒美(?)に卓球を教えてもらった気がする。そんな流れで中学に入学し、卓球部を見学したのだが、その時は妙に肌が合ったのだろう。他にもサッカー部等入ろうかと思った部はいくつかあったが、気がつけば卓球部に入部していた。同期は5人と少なかったが、1年上の代が12人と多く、個性的な人達ばかりでとにかく楽しかった。
<夏合宿> 於 大洋スポーツセンター(大網)
初めて経験する運動部の5泊6日の夏合宿。運動部の中では比較的楽な部類に入るはずの卓球部ではあるが、この夏合宿だけは本気できつかった。5月から既に練習は開始しており、基本中の基本である素振りは既に何千・何万回とやったはずだったが、「1年生は再度基本から叩き直す」との方針で初日は2時間くらい延々と素振りをさせられた気がする。他にも筋トレや走り込みなど、特に楽しくもない練習メニューを中心に初日が終わる。初日とはいえ練習が終わった頃には既に筋肉痛は相当なものだった。
しかししかし。さすがは中学生。厳しい練習を終えたはずなのに、みんなエネルギーに満ち溢れている。食事も遠慮なくがっつり食べるし、ゲームも大いに盛り上がる。他にも泊り込み客がいるのにお構いなしってな感じで夜遅くまで遊んでいたら、コーチの方々からこっぴどく怒られた。消灯時間を守らずに夜更かしして遊んでいたのだから、怒られて当然なのだが、ここから厳しい試練が始まることに。夜更かししていた部屋に居た全員が呼び出され、正座すること約30分。あまりにも辛く長い時間だった。今にして思えば、ただ正座してシーンとした場で、コーチの方々(N村さん、Y澤さん、N浜さん)はただひたすら我々を監視していたわけである。自分がコーチだったらそこまではできないなと感じたが、当時のコーチはそうしたしつけもしっかりしていた。ようやく正座終了のお許しが出たかと思えば、「こんなにみんなエネルギーが有り余っているのなら、明日からの練習メニューはさらに厳しくして、遊ぶ元気もなくなるくらいにしてやろう」なんて発言まで飛んできた。
二日目から朝早く起きて、朝食前のウォーミングアップが始まった。具体的には、大網の宿舎から2kmほどの所にある海岸まで走り、そこで校歌を歌うのだが、海岸までの道のりがグループによって異なっている。当時3年生がいなかったこともあり、Aグループ(2年生上位)、Bグループ(2年生下位)、Cグループ(1年生)に分かれており、道のりもA>B>Cとなっていた。走る道のりが短い我々Cグループ(I田・T島・H村・O崎・私)は当然ながら一番楽だったのだが、余裕があるところをコーチに見抜かれてしまった私はBグループをすっ飛ばしてAグループへの合流を余儀なくされてしまった。「1年生の中で自分だけがAグループに入らされてはたまらない」と直感的に感じた私は「それならI田もAグループへ」とコーチに願い出た。今考えると、I田には悪いことをしたなと反省しているが(笑)、こうした諸々のやりとりの結果、私とI田はAグループで地獄を見ることに。
昼間の基礎打ち練習(ラリー、ショート、ツッツキ)は普段の練習と似たような感じであったが、細かいフォームの修正指示などは、やはり2年生の先輩達よりもコーチの方々の方が的確で非常にためになった。また、個人的に好きだったのがスマッシュ練習だった。自分の番の時はスカッとするので、楽しいのは当然なのだが、実は球拾いにも意識して力を入れていた。普通何も考えずに球拾いをしていると、スマッシュのスピードについていけず、ぽろぽろ球をこぼしてしまうので、球拾いに時間がかかるし、ボールをなくす原因にもつながってしまうのだが、私はワンバウンドしたスマッシュを極力そのままキャッチするようにしていた。ボールの勢いがなくなる前にキャッチするため、手がかなり痛くなるのだが、実はこんなちょっとした工夫が球拾いを楽にするだけでなく、「スマッシュのスピードに目がついていけるようにするトレーニングになる」とコーチから褒められた時は何だかすごく嬉しかった。本当はそこまで深くは考えていたわけではないのだけれど(爆)。
昼間の基礎打ち練習が終わり、午後3時半くらいから地獄の走り込みが始まった。走り始めたときはまだ、Aグループへの移動を命じられたことの厳しさを認識していなかったが、この走り込みはとにかくきつかった。やることはコーチのF川さん(大学体育会卓球部)に着いて田んぼ道を走るだけなのだが、F川さんは全くペースを緩めない。それに加えて精神的にきつかったのは、いつ休憩になるのか分からないことだった。最初のうちは一緒に走っている先輩達と他愛もない話をしながら余裕をこいて走っていたが、途中から少しずつ遅れ始める。ところが遅れても待ってはくれない。ゴールが見えない恐怖心は今でもよく覚えているが、3年間の練習の中で最もきつい走り込みだった。
しかし、冷静に考えて真夏(7月下旬〜8月上旬)の炎天下で帽子もかぶらずに1時間以上走っていたのは危険だったとしか思えない。あんな環境でよく日射病・熱射病で倒れる人が出なかったなと思う。
そんなこんなできつかった練習もいよいよフィナーレを迎える。5日目は丸一日試合を行う。個人戦のトーナメント戦でコーチ・2年生・1年生合わせて20数名の中でHDCPをつけて戦うのである。HDCPは
1年生対大学体育会卓球部:18点
1年生対OB:15点
1年生対2年生:12点
2年生対大学体育会卓球部:15点
2年生対OB:12点
くらいだっただろうか。1セット21点勝負の中でこれだけのHDCPがつくので、とにかく上位者側には厳しいHDCPだった。逆に言えば現役(特に1年生)に勝たせて自信を持たせるのが狙いだったのだろう。大きなHDCPがあったおかげか、幸運にも自分が優勝してしまった。当時の自分といえば、サーブにバリエーションがなく、横上・横下回転といったひねったサーブを持っていなかったため、ほとんどがロングサーブ、たまに下回転(しかも回転が弱い)みたいな試合展開だったが、ロングサーブ→レシーブ(チャンスボール)→スマッシュというパターンだけでも結構点が取れたように思う。当時のサブキャプテンだったA野さんとの決勝戦では、12点もHDCPをもらっておきながら、大苦戦だったが、2セット目の19対19という場面でA野さんのスマッシュを打ち返せたことだけは今でもよく覚えている。本当にたまたま右手が反応しただけだったが、これもスマッシュ練習での球拾いの賜物だったのかもしれない。
<私学戦>(8月)
年に一度の大きな大会である私学戦は東京都の私立中学が代々木第一体育館に集って競い合う。ものすごい人数が参加しているようで、合計何人くらいだったかも良く覚えていない。とりあえず覚えているのは、明治中のN本氏という人に何となく1回戦で負けてしまったことくらいか。
<全塾戦>(3月)
学校内の対抗戦であるこの大会は、大学体育会の部、高校生の部、中学生以下の部に分かれて行われる。しかし私はこの日丁度家族でのヨーロッパ旅行と重なってしまい不出場。この時はまだ翌年以降のこの大会のことなど全く考えていなかったが、この年出場していれば、当時主将のK谷さんや副将のA野さんには歯が立たなかったことだろう。
中学2年の時
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