将棋関係(中学時代)

 慶應名人戦OB予選1日目   慶應名人戦OB予選2日目   慶應名人戦本戦   慶應名人戦決勝
 


 今回で慶應名人戦は今回で4回目の出場となる。1回目は高校3年生の時であり、その時はOBの方に1回戦で負け。2回目は大学2年生の時で、準決勝で北川さんに負け3位。3回目は大学4年生の時で、準決勝で小林さんに負けまたも3位。一度も陣屋での決勝戦に残ったことはなく、慶應名人とは無縁であった。しかも今回は卒業して初めての参加であり、真剣に将棋に費やす時間はほとんどなく、とりあえず参加してみたという感じで「まともな将棋」が指せる自信は全くなかった。

慶應名人戦OB予選初日

2004年11月7日(日)

 新橋の将棋道場で午後1時から開始。久々のチェスクロックということもあり、前日に少し24早指しで調整したが、いざ対局を開始しようとしたら何とチェスクロックが1つしかない。公平性を期すために進行の遅い対局は一手30秒未満という何ともアバウトなルールで行われることに。これには正直拍子抜けした。チェスクロックのない将棋は時間的制約がないため、どことなく緊張感に欠けてだらだら指したり、軽率な手を指しそうで非常に不安であった。

1回戦:対藤原大王(平成8年卒)

 現役時代、個人戦では籤運のなさを如何なく発揮していた私だが、その籤運のなさはこの時も衰えておらず、何と初戦で藤原大王を引いてしまう。

藤原大王といえば
① 慶應名人2回(2004年12月当時・・・2014年現在は5回の優勝経験あり)
② 将棋も強いが口はそれ以上(by関向さんの卒業エッセイ)
③ 自宅生の家に3泊4日で泊まってさらに洗濯物まで頼める人(by網仲さんの棋報)
・・・と色々なエピソードがあるが(笑)、とにかく綺麗な将棋を指す人である。この当時は埼玉県にお住まいであったが、結婚前は私と家が近かったこともあり、地元の将棋道場でよく教えていただいていた。

 将棋の方は相矢倉となり、藤原大王は後手番ながら積極的に攻めてこられた。今から見れば少々無理気味な攻めだったのだが、当時の私は強気な受け方を知らなかったようで、自然に指していたつもりがいつの間にか一方的に攻められる展開となってしまった。結局、藤原大王の攻めを受け切れず、形も作れず圧敗してしまった。内容的にも非常に悪く、幸先の悪いスタートとなってしまった。


予選2回戦:対関向さん(平成10年卒)

 初戦で敗れてしまったため、この日予選通過するためには、残り2連勝する必要がある。この状況で関向さんを引いてしまうあたり、籤運のなさを発揮してしまった感は否めないが、関向さんも本来ならば1回戦は勝っているはずのところ。どうやら12月12日の慶應名人戦本戦の日がご都合が悪いらしく、今日関向さんと当った人は不戦勝になるらしい。ということで、この予選2回戦は私も不戦勝となったのだが、将棋そのものはいつも通り指すことになった。戦型は関向さんの三間飛車対私の左玉。強引に左玉を目指した構想が裏目に出て、序盤は作戦負けに。終盤、ちょっとした罠を仕掛けてチャンスをうかがったが、10分くらい長考された末に見抜かれて、最後はまたもや完敗。


予選3回戦:対斎藤さん(昭和48年卒)

 形式的には一応1勝1敗(実質2連敗)となり、予選3回戦は斎藤さんと当たることになった。しかし、斎藤さんも12月12日のご都合が悪いらしく、またもや不戦勝となった。2回戦とは異なり、この3回戦は将棋すら指すことなく、終了。
 藤原大王は順当に3連勝で予選通過。私はというと2勝1敗でOB予選初日の補欠ということになった。2回も不戦勝が続いて補欠扱いになったのはラッキーだったのだろうが、指した将棋は1局も勝っておらず、気分的には予選落ち確定という感じであった。幹事の関向さんからも、「今日の結果だけで本戦は出場できるかもしれないが、すっきりさせたいなら、OB予選2日目に来て、きっちり予選通過するように」と言われ、OB予選2日目にも参加することになった。


慶應名人戦OB予選2日目

2004年11月27日(土)

 OB予選初日で一応補欠ということにはなったものの、気分もすっきりしなかったため、OB予選2日目できっちり予選通過としたいと思っていた。やはり指した将棋が全敗のまま予選通過というのは非常に気まずい。少しでも白星を積み重ねておきたいところであったが・・・。

予選1回戦:対坂本さん(昭和56年卒)

 またもや籤運は悪く、慶應名人経験が2回ある坂本さんを引いてしまう。坂本さんも12月12日の本戦当日がご都合が悪いらしく、「不戦勝か、ラッキー♪」と思いきや、この予選2日目は一旦すべての勝敗を有効として順位付を行い、本戦に出場できる人を上から選出する、ということになった。坂本さんが該当した場合は、その分一人繰り上げということになる。坂本さんを引いた自分は不戦勝扱いにしてもらえず、一気に目の色が変わることに。
 戦型は坂本さんの向飛車対私の左美濃。中盤で機敏な仕掛けを喰らってしまい、形勢を損ねてしまった。そこから終盤で粘りを見せたものの、逆転には至らず、またもや完敗。予選2日目も苦しいスタートとなってしまった。


予選2回戦:対柏原さん(昭和56年卒)

 後がない予選2回戦は柏原さんと。将研三田会の中でも中枢的な存在の方である。柏原さんとの将棋は、柏原さんの三間飛車に対し、こちらは得意の左玉で挑んだが、序盤の駒組みが強引だったようで、柏原さんに的確に咎められ、序盤は作戦負けに。中盤で柏原さんにミスが出てこちらが優勢となったのだが、終盤で私が致命的な見落としをしてしまい、逆転負け。

・・・ということで、予選2日目は見事に全敗で予選落ちとなってしまった。一応3局目に関向さんに勝たせていただき、最後に1勝したが、実質的にはほとんど全敗といっても過言ではなかった。
 本戦に出場できるOB枠数の関係上、予選初日の補欠(一応2勝1敗)となった私は何とか辛うじて本戦に出場できることになったが、何とも味の悪い予選となってしまった。関向さんからも「これで本戦に出場するのだから、本戦でもきちんと1勝くらいはするように」といったお話があったが、とにかくまともな将棋が指せるよう、しっかりと調整しなければならないと感じた。


慶應名人戦本戦

2004年12月12日(日)

 OB予選を2日とも参加したものの、指した将棋はほとんど勝てないまま、本戦に向かうことに。OB予選2日目を終えてから、気持ちを入れ替えて調整を試みたものの、そう簡単に調子は上向くはずもなく、不安を払拭することはできないまま本戦当日を迎えた。現役の参加状況を見ると、O関・森本といったエース級が参加しておらず、少々淋しい印象を受けたが、関東オール学生準チャンピオンにまで昇り詰めた小川、格付けを済まされている櫻井、主将として苦労している斎藤優、全日委員長に出世したクリリン、レギュラーとして定着しつつある阿部、といった懐かしい顔ぶれが並んでいた。自分が現役の頃からいた人との対戦は、お互い手の内を知り尽くしているものの、負けた時のプレッシャーが大きく、正直やり辛さを感じていた。

1回戦:対斎藤優(現役3回生、主将)

 抽選の結果、本戦1回戦の相手はこの年の現役主将であった斎藤優に決まった。優が現役1年生の頃は荒削りだったこともあり、合宿でそこそこの結果を残したものの、対外戦での結果を残せず、レギュラー定着には至らなかった。本人は納得いかなかったであろうが、自分も1年生の頃同じような経験をしていたので、焦らず1つ1つ実績を積み上げて頑張ってほしいと思っていた。その斎藤優も主将になり、個人としての頑張りだけでなく、チームをまとめる責任ある立場となり、プレッシャーも相当なものであったのだろう。団体戦では相変わらずの5割バッターらしく、強豪相手にもちょくちょく勝つものの、格下相手にもコロコロ負けており、思い通りの結果が出せず苦労している様子であった。
 斎藤優とは学生時代、部内戦での直接対決では2-2と五分の星であった。自分としては、学生時代に斎藤優に勝ち越せなかったことは不満としか言いようがないが、何せOB予選ではまともな将棋がほとんど指せていない状況であったため、対戦成績は互角のままにしておきたかった・・・などと思ってしまう程弱気になっていた。

 斎藤優との将棋は優の四間飛車対私の居飛車穴熊となり、以下の局面を迎えた。


 まだ駒がぶつかっていない局面だが、既にかなりの大差がついてしまっている。相手との実力差を考慮せず、純粋に局面だけを見て、駒がぶつかっていない局面で投了を意識したのはこの時が初めてだった。どうしようもない局面になってしまい、嫌気がさしていたが、相手が斎藤優ということで、さすがにここで投了するわけにはいかず、思い止まって指し続けることに。
 
 実戦はここから△5二飛▲4五歩△2三銀▲4四歩△同角▲同飛△同金▲4一角△9二飛▲3二角成△同銀▲4二角成△同飛▲3一銀△3三角と進んだ。そこで▲2二金△同角▲4二銀成ならば先手陣には手つかずで程なく終わっていただろう。実戦は△3三角に▲4二銀成(?)△同角▲8二飛△3一銀▲8一飛成△3五歩▲4五銀△同金▲同桂△6四角と進んだ。▲4二銀成は疑問で、後手陣がすっきりしてしまい、後手に粘る余地を与えた罪は大きかった。

 これでもまだ後手が少し苦しい局面ではあるのだが、開戦した段階では一方的に攻められて終了するはずだった将棋なだけに、とりあえずの詰めろとはいえ先手玉が見えてきただけでも大分楽しみが出てきた。仕掛けた局面が大差すぎて「何をやっても勝つだろう」と斎藤優が思い込んでしまった気持ちも分からないではないが、勝負においてはこうした慢心が逆転につながることはよくある。以下数手進んで次の局面を迎えた。

 実戦はここから▲4七金寄(?)△5五角▲4六銀△同角▲同金△3七銀▲4七銀△6九飛▲2六銀△3八銀成▲同銀△6四角▲4七銀打△3六桂▲同銀△4六角▲3四桂△2八金▲4八玉△2一金▲3五銀直△3八金▲同金△3五角▲同銀△3六銀と進んだ。
 ▲4七金寄は疑問手で、何はともあれ▲2六銀と受けるところだったと思う。後手は桂馬を渡すと▲3四桂や▲4四桂が生じ、場合によっては▲2二銀以下直接詰み筋に入ってしまう可能性もあるので、強い戦いができない制約を受けることになる。

 本譜はここで後手玉が即詰みと錯覚した斎藤優が▲2二角としてバーストしてしまい、後手玉が詰むはずもなく、最後は斎藤優の玉を即詰みに討ち取って、大逆転勝ちとなった。▲2二角では▲4七金打を中心に読んでいたが、最後まで読み切れなかった。△3七銀打▲同金寄△同桂成▲同金△4九金▲3八玉△3九金▲2八玉△2九金▲1七玉△3七銀不成としたいが、桂馬を渡すと▲2二銀以下即詰みになるため、それはできない。△3七銀不成のところ△2五桂としても▲3五銀がよく利いていて先手玉は詰まない。▲4七金打と指されていたら、勝負はどう転んでいたか分からない。
 

 準々決勝:対小川(現役4回生)

 準々決勝は小川と。小川が大学1年の頃は、リーグ戦の固定レギュラーとしての安定感はなかったが、大学2年頃から安定感がついてきてレギュラーに定着した。その小川も気がつけば大学4年生で就職も決まり、この年の夏には関東オール学生選手権準優勝・オール学生選手権団体優勝と大活躍しており、私も心して対局に臨むことにした。
 なお、この準々決勝からチェスクロックが足りたこともあって、初手よりチェスクロックが使用された。終盤のみ秒読みという将棋よりも初手からチェスクロックを使用した方が、良い意味で緊張感を保って将棋を指すことができると個人的には思っている。

 小川との将棋は先手小川の矢倉対私の右玉。本当は急戦矢倉を仕掛けようとしていたのだが、小川が急戦封じの駒組をして来られたこともあり、またこの当時はそれでも強引に急戦を仕掛ける変化を理解できていなかったため、やむなく右玉に組み直した。そして以下の局面を迎えた。

 実戦はここから▲2三銀成△同金▲2四角△同金▲同飛△3七歩成▲2二飛成△1三角▲1一竜△4七と▲2四歩△4五桂▲8四香△同飛▲2一竜△3一歩▲2五角△5七と▲1二竜△4二香▲1三竜△6七と▲同金△5七金と進んだ。
 上図で▲3六同飛ならば△6八角成▲同金引△3三歩▲2五銀と銀を追い返してから△2七角とすれば完封勝ちも期待できそうだが、そんな甘い手を小川が指してくれるはずもなく、▲2三銀成からの猛攻が始まった。途中▲2五角が攻防に利く好手で△5八銀や△6九銀も防いでおり、ここでは苦戦を意識していた。

 実戦はここから▲5七同金?△同桂成▲7九金△6二銀▲7八金打△6七銀▲4三歩△同香▲3五桂△7八銀成▲同金△6七金▲7九銀△7八金▲同銀△6八金▲4三桂成?△7八金▲同玉△6七銀▲8八玉△7八金▲9八玉△7七金▲同桂△7六銀成▲6一角△8二玉▲7八金△8六歩▲同歩△同成銀▲8三金△同飛▲同角成△同玉▲8七金打と進んだ。
 上図では▲6八金と引き、△6七銀▲6九金△7五歩に▲6一角△同玉▲5三竜とすれば後手は受けが利かなかった。金を手放すと△6二金打とできなくなるのが痛い。本譜は小川が私の必死の喰いつきに対応を誤り、後手に立ち直りを許し、以下上部開拓をして勝勢になった。

 実戦はここで指した△7六角が決め手。▲同金は△9七銀▲8九玉△8八金▲同金△同銀成▲同玉△8七金▲7九玉△7六銀成で後手勝ちだろう。本譜は△7六角に対し▲8八香と受けたが△9七金▲8九玉△8七成銀以下押し切って制勝。途中は苦しい将棋だったが、暴発せずに辛抱したのが功を奏した。


準決勝:対藤原大王(平成8年卒)

 準決勝の組み合わせは佐藤さん(昭和51年卒)対叶多さん(平成2年卒)、藤原大王(平成8年卒)対私となった。この時点で現役は全滅してしまっていた。個人的にはもう少し現役に頑張ってほしいと思ったが、今回はOB陣が意地を見せた結果となった。自分の相手は再び藤原大王となったが、予選1日目に藤原大王に手合い違いでの圧敗を喰らっていたので、今回はいい将棋を指したいと思っていた。

 戦型は私の三間飛車対藤原大王の右四間飛車。序盤から藤原大王に機敏に動かれて一歩損となり、作戦負けに陥った。そこから強引に捌きを試みたものの、金銀がバラバラで玉形が薄く、下図の局面は振り飛車側が苦しい。

 実戦はここから△5五歩?▲9六飛△8四角▲4五歩△3五金▲4四歩△3六歩▲同角△8六歩▲6三角成△3六桂▲1七玉△1五歩▲同歩△6二角▲4七桂△4六金▲3三歩△同金▲5三歩△2四金▲2六玉と進んだ。
 上図では△3六歩▲同飛△3五歩▲9六飛△3六桂▲1八玉△3三桂で後手勝勢だった。以下▲4五歩くらいだが△2五桂▲4四歩に△5九角成!▲同金△3九角で後手勝ちである。
 本譜は▲9六飛に△8四角と後手を引いているようでは変調で、▲4七桂~▲3三歩~▲5三歩と手順を尽くして後手の角を封じ、難しくなったと思う。この手順は後手の攻めを呼び込んでいるようでもあり、今見ても怖い手順だが、よく指せたと思う。

 以下、玉頭での小競り合いが続き、下図を迎える。

 上図から、ここはもう行くしかないと思い、▲2四馬△同歩▲3四金と踏み込んだが、そこで先手玉には即詰みが生じていた。△2五金▲同桂△3七角▲3六玉△4六角成▲2六玉△3七馬▲3五玉△2六銀▲2四玉△4六馬▲3五歩△同銀▲同金△2三歩▲3四玉△2二桂まで長手順だがぴったりの詰みがあった。
 本譜は▲3四金に対し△3三金と受けられたため、▲4一角△同玉▲5二歩成△3二玉▲4二と△同玉▲4三歩成△同金▲5二金△3一玉▲3二歩△同玉▲2三銀△3一玉▲4三金と進み、後手玉には必至がかかった。後は先手玉が詰むかどうかだが・・・。

 実戦は以下、▲2五銀△3五玉4六角▲4五玉△3六角▲5六玉△5七角成▲6五玉△6四歩?▲5五玉△4六馬▲4四玉まで先手の勝ち。△6四歩では△7三桂▲5五玉△4六馬▲4四玉△8四飛▲5三玉△6四銀までぴったり詰んでいた。先程の詰みもこの詰みも、秒読みの中、私も藤原大王も読み切れていなかったが、結果的に藤原大王がこれを逃し、薄氷の勝利となった。2度も詰みを逃してもらっての勝利であり、内容としてはあまり良いものではなかったが、久々にスリリングな終盤戦を堪能することができた。
 もう一方の準決勝は佐藤さんが勝ち、決勝は佐藤さん対私となった。



慶應名人戦決勝戦

2005年2月5日(土)

 決勝進出を決めてからの約2か月間は非常に長く感じた。しかし、将棋の調整の方は思うようにできなかった。日々の仕事で忙しいこともあるが、それに加えて1月下旬に資格試験(初級シスアド)があったため、その勉強のため、将棋に時間を費やすことができなかった。
 決勝戦は島先生に解説していただけるとのことで、そのような檜舞台で将棋が指せることは大変光栄であるが、同時に恥ずかしい内容の将棋を指すわけにはいかないというプレッシャーも強く感じていた。

 この時は佐藤さんと初手合いであり、後には2007年の慶應名人戦をはじめ、神奈川県大会でも何度か対戦したが、初手合いだったため、佐藤さんの棋風はほとんど分かっておらず、「慶應将棋第八号」の佐藤さんの原稿より、居飛車党ではないか、という程度しか情報を持っていなかった。恐らく居飛車党であろうと思い、決勝戦を想定して先手番矢倉で試したい作戦を、決勝戦直前の島先生との指導対局でぶつけてみた。その将棋は終盤の見落としで私が負けたものの、作戦としてはかなり使えそうな手応えを感じていたので、決勝戦は是非とも先手番を引きたかった。

 決勝戦とは直接関係ないが、陣屋では毎年恒例の餅つきがあり、若手主体で参加するという伝統もあってか、まだOB2年目だった自分も迷わず参加した。この餅つきのおかげか、何となく精神的にリラックスできたような気がした。また、ついたお餅も非常に美味しかった。

 さて、夕食後はいよいよ決勝戦。観戦者の皆が退屈しないように、との配慮から島先生が「持ち時間は10分、切れたら一手30秒未満ということにしましょう」と提案されたとのこと。対局当事者としては、若干短めの持ち時間での対局となり、少々厳しいような気もしたが、中終盤が秒読みになるのは当たり前でもあり、序盤で大差をつけられないように注意して指すことにした。棋譜読み上げの井元君(現役2回生、関東学生名人)による振り駒の結果、私の期待とは裏腹に佐藤さんの先手となり、佐藤さんの初手は▲2六歩。解説の島先生も仰っていたが、これでは矢倉戦には持ち込みづらい。無理矢理矢倉にする手はあるが、そこまで矢倉に拘ることよりは、自分の土俵で戦うことの方が重要と考え、高校時代の得意戦法であった右玉を採用することにした。

 陣屋での決勝戦は当時大広間で行われており、同じ大広間の逆サイドの端の方で島先生による大盤解説会が行われていた(後に、決勝戦の対局とは別室で大盤解説会が行われるよう、改善された)。対局場と大盤との距離は離れてはいるものの、同じ大広間で解説が行われるため、対局に集中しているつもりでも、島先生の解説や聞き手による対局者の紹介等は非常に良く聞こえてくる(笑)。「これは矢倉戦にはなりそうもないですね。」「右玉とは随分老獪な作戦を選択しましたね。」等々。あまりにも良く聞こえてくるので、自分が対局当事者であることを忘れて解説に聞き入ってしまいそうになるほどであった。

 さて、将棋の方はまだ駒組みが続くかなと思っていたところで佐藤さんが仕掛けて来られた。右玉側の意見としては、菊水矢倉に組まれる方が嫌なので、この段階で仕掛けて来られたのは意外だった。下図の△5四歩により、△5五歩~△5四銀左の構想を見せた効果があったか。

 実戦はここから▲4六歩△5五歩▲同歩△同角▲4七銀△5四銀左▲3八飛△4二金左と進んだ。何気なく△5五歩と突いたようだが、対局中は結構勇気がいる一手で、ここで持ち時間を全て使い切った。というのも、二歩渡すと端攻めの筋ができるからであり、この瞬間が対局中最も恐れていた局面であった。

 ここで恐れていた手順は▲9五歩△同歩▲9二歩△同香▲9三歩△同香▲6五歩と仕掛けてくる順であった。これに対し、△9一飛と寄ると▲6四歩△同角▲9二歩で先手優勢となる。予定では▲6五歩に△8三玉と顔面受けで徹底抗戦するつもりだったが、▲8五桂△同桂▲8六歩と玉頭方面から押し返して来られても右玉側は自信がない展開だと思う。

 実戦は上図から▲5六歩△3三角▲3七桂△4六歩▲同銀△3六歩▲4五桂△1五角と進み、後手優勢となった。途中▲4六同銀が疑問で▲同角なら難しかったと思う。本譜は△3六歩~△1五角が会心の手順で、次に△5九角成・△4四歩・△3七歩成等、指したい手がいくつもあって後手の攻めが切れなくなった。できれば▲5五歩△4三銀▲4四歩のようにして△4四歩を防ぎたいところであるが、▲5五歩の瞬間に△3七歩成▲同銀△4五銀となり、後手優勢と思う。

 実戦はここから▲3六飛△4四歩▲9五歩△4五歩▲5五歩△4六歩▲5四歩△4七歩成▲3五角△5五桂▲5三銀△6七桂成▲同金△5九角成▲5二銀成△6九銀▲8九玉△7八金▲9八玉△5二金▲5三歩成△8九銀▲9七玉△9五歩▲6三と△同金と進み、あっという間に先手玉に必至がかかった。後手玉への有効な攻めも見当たらず、ここで投了されるであろうと思っていた。ところが・・・。

 実戦は以下、▲9四歩△同香▲7一角成!△同玉▲3一飛成△6一角まで後手の勝ち。上図で投了の一手と思い込んでいたところ、▲9四歩とされ、△同香で意味がないだろうと思ったら、▲7一角成!全く読んでいない手が飛んできた。それもそのはずで、投了の一手と思い込んで読みを打ち切ってしまっていたのだから。この▲7一角成にとんでもない罠が仕掛けられていたとは・・・。
 しかし、幸運なことにここで島先生の解説が耳に入った。「▲7一角成!これはびっくりしたんじゃないでしょうか。」一瞬、何のことだか分からなかった。慌てて読み直してみると、△7一同飛には▲3二飛成△6二角▲8四桂とされ、△8三玉には9二銀▲8四玉△8三金で見事に頓死。△8三玉のところで△8二玉としても▲6二竜△同金▲8三銀とされ、△同玉なら▲9二角△8二玉▲8三金△9一玉▲8一角成△同玉▲9二金で頓死、▲8三銀に△9三玉でも▲9二桂成△8三玉▲8二金△8四玉▲9三角まで、いずれも詰んでしまう。30秒の秒読みの中、この即詰みが見えて目の前が暗くなったが、その直後に▲7一角成には△同玉として▲3一飛成に△6一角と手にしたばかりの角を合い駒すれば大丈夫だと分かり、実戦もそのように進んで事なきを得た。やはり将棋は相手が投了するまで油断は禁物である。


 ・・・ということで、私を含め大方の予想に反し、第21期慶應名人の座を獲得することができた。OB予選では全敗していただけに、本戦出場すること自体申し訳ない気持ちになったが、まさか優勝するとは夢にも思わなかった。唯一、決勝戦だけは後から振り返ってみて「別の手を指すべきだった」と後悔する場面が一度もない会心譜となったが、その他の将棋では読み抜けが多々あったし、準決勝では2度も詰みを逃してもらっての勝利だったこともあり、実力不足が目立った大会だったように思う。

 その後も慶應名人戦には何度も出場したが、2018年8月現在も、慶應名人戦での優勝はこの1回だけで、他は2007年度の準優勝(決勝で関向さんに圧敗)、2000年度・2002年度にそれぞれ3位となったくらいで、後は結果を残せていない。それでも慶應名人を1期獲得したのは大きかった。現在の社団戦における将研三田会チームのメンバーには、藤原大王・田村さん・関向さん・ケンローさん・小林さん・葛山・O関・森本・私)と、慶應名人経験者だけで9人もいる。こうしたメンバーを書き出しして見ると分かるが、自分も皆と同じ慶應名人経験者として名を連ねることができているのはこの慶應名人戦のおかげであり、幸運だったと思う。いつだったか、「将研三田会のレギュラーになるための必須条件は慶應名人を獲得すること」などと言った人がいたが、そういう話を言われても出遅れ感を感じなくて済んでいるのもこのラッキーがあったからに他ならない。
 上記将研三田会の慶應名人経験者のうち、最も優勝回数が多い藤原大王(慶應名人戦優勝5回!)は色々な意味で別格として、残る8名のうち、関向さん・ケンローさん・葛山・O関・森本・私の6名は皆アマチュアの県代表経験もあり、フルメンバーが揃えばかなり強いチームになるはずなのだが、中々フルメンバーを揃えるのは難しく、毎回何とか7人揃え、集まった7人で戦っているのが現状である。ちょっとチームの歯車がかみ合わなかったりすると、チームは一気に連敗街道驀地にもなりかねない。言い換えればそれだけ社団戦の1部リーグはレベルが高く、全国大会レベルの選手が多数揃っているということでもあるのだが、長く続けられる将棋という素晴らしい趣味を持ち、チームの皆と勝利を目指して団体戦を戦えることは本当にありがたいことだと思っている。
 最後の方は慶應名人戦の話ではなく、社団戦の話になってしまったが、この慶應名人戦は本当に良い記念になったと思う。今後も将研三田会が益々発展し、毎年素晴らしい慶應名人戦が続いていくことを願っている。




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