【 流れ落ちる砂よりも尚緩やかに・8】
雨滴が、窓硝子を忙しなく叩いている。
土砂降りの雨はたった一枚の薄っぺらな硝子に遮られ、部屋の中まで入ることは出来ない。
それでも、その存在を忘れるなとでも言うように、雨音は主張し続ける。
八戒は、両手で耳を覆った。
血流が潮騒のような音を奏でる。それを聞きながら、自分は何度こうして夜を過ごしたのだろうと、そんなことを考えた。
だが、この音を聞いている時が一番落ち着けるのも事実なのだ。
耳を塞いでいるフリをすれば、音を聞かなかった事に出来る。
僕は何も聞いていない。聞こえなかったのだ。そう、言い訳が出来る。
なのに、その音に気付いてしまった。
窓を叩く雨音よりも、ずっと小さな音だったのに。
そして、言葉が口から零れ落ちてしまった。
返事をしなければ、なかったことに出来たかもしれないのに。
だが、扉を叩く音を無視出来なかった。廊下で返事を待っている彼を、無視出来なかった。
「どうぞ。開いていますから」
これから起こることが、例え地獄だとしても。
「黙れっ!」
叫んだ悟浄の刃は横薙ぎに女の首を狙った。だが、女は軽く身を反らせるだけで攻撃をかわした。
「黙れ黙れ黙れ黙れっ!!」
一つ叫ぶ毎に刀は左右に大きく振られる。
通常、無闇に動く刃は隙を生む。隙は相手の攻撃を、そして操者の死を、誘う。
しかし悟浄の剣は、確実に相手の急所を狙って振るわれていた。
悟浄の剣技は本物だ。素人目に見ても、それは解る。無造作に切り付けているように見えても、切っ先はいつも相手の急所の上を通っている。だがそれも、届かなければ意味がない。
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙……れっ!」
ゆるりゆるりと身体を揺らす事だけで悟浄の剣戟の全てをかわす女は、笑みを湛えたままだ。
それが更に、悟浄の焦燥を煽った。
幼い身体は限界を訴え、自然息はあがる。それでも悟浄は剣を振り続けた。
女は尚も嘲笑う。
「吾とてそなたと同じ忌み子。それ故、忌み子の背負うた業も末路も心得ておる。どうだ?吾と共にくるというなら、術を掛け直し、その命を永らえさせてやってもよいぞ?」
一瞬、悟浄の目が見開かれ、剣が止まった。
「共に来ぬか?吾も独りは少々飽いた。そなたがいれば、良い暇潰しにもなろ?なに、然程長い事でもなかろうよ。吾がまた、そなたに飽くまで」
その後は、何処へ行くなり滅ぶなり、そなたの好きにすればいい。
スイ、と女の手が上がり、その細い指先が悟浄へ向けて差し出された。
「さぁ、吾と共に来ぬか?」
手を取れと、無言の呪縛が悟浄を捉える。
女の庇護を受けてしまえば、この苦しみから抜けられる。その甘美なまでの誘惑に、眩暈を覚える。
だがしかし、悟浄は口端をあげ剣を構えた。
「は……誰が今更、ツバメになんかなるかよ。玩具なら他を探しな、オバサン」
「……ほんに、面白い」
暫しの沈黙の後、女の目に浮かんだのは怒気や蔑みではなく、純粋な歓喜であった。
「そなたのような者に遭う度に、永く生くるも悪くはないと思わされる。さりとて如何したものか……」
顎に手を当て考える素振りの女には、それでも一分の隙もない。
「力尽くでそなたを奪うも容易いが、それでは些か興醒めよの。ならばそなたが来るのを待つのも一興か……」
悟浄の額を、一筋の汗が伝う。緊張の糸はいつ切れてもおかしくなく、張り詰めた空気はただ、辺りを満たした。
「そうさの」
不意に、女の隻瞳が右方へ流れ、その先にある薄暗い山陰を見た。そしてツイ…と右手を伸ばし、件の山を指す。
「あそこに、吾の庵がある。吾はそこで待つゆえ、そなたが探し当てるというのはどうかのぉ?」
妙案とでもいうように、クスクスと女の笑い声が空気を震わした。
女の言う通り、そこに行き着きさえすれば、捜し求めていたものが得られるのだろう。だが、それをこの女に易々と与えられるのだという事実が、悟浄の癇に障った。ギリリと音がするほどに握り締めた拳は手の平を傷付けていたが、その痛みさえ気にならない。
ポタリ。
「……誰が、行くって言ったよ」
「別に来ずとも、そなたを待つ間は退屈がまぎれる。吾は構わぬよ。そなたが死を選ぼうと、生きる為に吾の手をとろうと」
「誰が……」
ポタリ。
また一雫、大地に紅の花が咲く。
ポタリ、ポタリ、ポタリ、ポタリ。
流れ落ちる血液は、次第に早く、大地を黒く染めあげる。
その彩に誘われるように動いたのは、悟浄でも隻娘子でもなく、八戒だった。
「そう、ですよね。僕としても貴女に悟浄を渡すつもりはありません」
傷ついた悟浄の手を後ろから捕らえ、ゆっくりとその手を開かせる。
その間も逸らさぬ射殺すような視線を、隻娘子は目を細めて受け止めた。
「これが、そんなに大事かえ?」
「無論です」
挑発するような言葉も、一刀の下に切り捨てる。そんな強さを持つ言葉を、悟浄は背中で聞いた。
「ならばその手を離すがよい。その者を、殺したくないのなら……のう?」
悟浄の手首を捉えた力が、一瞬だけ強まる。その痛みに、悟浄は泣きたくなった。
八戒の手から伝わる熱に、皮膚が焼け爛れそうだ。この手が離れてくれれば、自分は楽になれるのに。
「まぁ、時間はある。吾は待つよ。あの、山で」
女はまた、笑った。細くたなびく衣が、悟浄の視界でひらひらと踊る。
それに目を奪われていると、女の姿が遠く感じた。否、事実女は軽く大地を蹴ると、宙へと身体を浮かせていたのだ。
「来るがいい。吾と共に生きる気が、あるなら……」
「まっ…!」
その声は、女を引き止める為の物なのか。それとも……。
己の心が解らぬままに、追おうとした悟浄の目の前で、女の姿は空へと溶けた。そして次の瞬間、叩き付けるような豪雨が、四人を襲った。
何もかも洗い流すような雨に、大地に染みた悟浄の血の跡も、直ぐに紛れて、消えた。