【 流れ落ちる砂よりも尚緩やかに・6】





 伸ばした腕の先。赤黒い粘液で濡れた切っ先が、鈍く光った。


 剣を体得したいと思ったのは、義兄の稽古を見てからだった。
 義兄は物心ついた時にはとある道場の門下に入り、一角の人物を師と仰いでいた……らしい。らしいというのも悟浄がその師を見たことがないからだったが、義兄の技量は素人目に見てもかなりのものだった。
 だが、悟浄は義兄と同じ道場に通うことは許されなかった。それは悟浄を必要以上には家から出したがらない義母のせいでもあったし、また忌児を厭う師範のせいでもあった。悟浄はあの小さな町に於いて、異端者であり禁忌の象徴だったのだ。
 だから悟浄は義兄に教えを請い、その剣を学んだ。
 幸いにして妖力は通常の妖怪のそれに近かった悟浄は、武器を具現化するコツを掴むのも早かった。身体こそ小柄ではあったものの、それが返って敏捷性を高め、自然義兄とはまた違った剣術を体得することとなった。義兄の剣は剛。妖怪である利点を活かし、力を十二分に乗せる剣である。その剣に憧れていた悟浄にとって、義兄の勧める剣技は不本意でしかなかった。だが、剣は自分と義兄とを繋ぐものである以上、剣を捨てることだけはできなかった。義兄に言えば笑われるだけかもしれないが、剣を捨てることによって義兄から見放されることが怖かったのだ。
 それだけ、あの頃の悟浄は「義兄」という存在に依存していた。
 それは義兄の実母殺害という段になって、如実に現れることになる。
 悟浄は全ての生命活動を「義兄」という存在によって支えられていた。文字通り、義兄が生命線だったのである。義兄という存在を失った後、腐臭を訝しく思った隣家の住人が扉を叩くまで、悟浄は食事を摂ることも眠ることもせずに蹲り続けた。グズグズと腐り落ちる義母の亡骸を前に膝を抱えていた悟浄の頬は、乾いた血によって衣服の一部に張り付き、立たせようと隣家の者が腕を引けば傷口がバックリと開き新たな血を流したという。そのまま医療院に連れて行かれ、悟浄はとある施設に収容された。それもまた、彼が禁忌の子であるが故の処置であったのだが、悟浄が周囲の変化に気が付くまでに、実に三ヶ月の期間を要した。
 そして、その施設にいたのが約一年八ヶ月。自我を取り戻した悟浄は、ある事件をきっかけに脱走した。その後、悟浄は件の施設について、一度も語ったことはなかった。



「あー!悟浄、ナニソレ!新しい武器!?ズッリー!」
 八戒が声を掛けるよりも早く、自分の分担を片付け終えた悟空が、大声をあげながら悟浄の元へと走り寄ってきた。
「ズルイってなんだよ。それにこいつは、新しいもんじゃねぇよ」 
 刀身が空を切れば付いた血糊は振り落とされ、何事もなかったかのような輝きを取り戻す。その様から目を離さずに、悟浄は苦笑を浮かべて答えた。
「ずっと昔……俺が、一番初めに作った剣だよ」
 目を細め、悟浄は懐かしそうに剣を眼前へと持ち上げた。細身の刀身が美しい片刃の剣は、幼くなった悟浄の手にこそしっくりと馴染んでいる。柄は絡みつく根のような意匠を湛え、握った拳の僅か上に鈍色に光る目玉が埋め込まれていた。それを覗き込み、悟空が眉根を寄せて舌を吐き出す。
「うぇ。悟浄その頃から趣味悪かったんだー」
「なんだと?!」
「だって真ン中、変な目ぇ付いてんじゃん」
「バーカ。これが格好いいんじゃねェか。それに……」
 手首を返せば光が切れた。
「兄貴の、レプリカだから」
「え……」
 戸惑うような声を発したのは、誰か。
 悟浄の耳には悟空の声にも、八戒の声にも聞こえた。
「俺の剣技も、剣の作り方も、兄貴仕込みなんだ。この目も、兄貴が付けてくれた。……元は兄貴の剣に付いてた目だから」
 静かな黒金の色を湛えた瞳が、悟浄を映す。爾燕の刀の両面に填められていた瞳は、その持ち主の手によって片方を抉られた。
 元を正せばこの瞳は妖力で創られた物ではない。だから、悟浄の創った剣にも瞳は付いていなかった。瞳のあるはずの場所には、ぽっかりと空洞が開いていた。それを見た爾燕が苦笑と共に瞳を填め込み、今の剣となったのだ。
 一対の瞳は別たれ、半分しか血の繋がらぬ兄弟に新たな絆を齎そうとしたのか。
「ふーん、仲良かったんだ」
 小首を傾げたままその瞳を覗き込んだ悟空に苦笑を隠さず、悟浄は頷いた。
「そう、だな。兄貴は…優しかったから」
 その声に含まれた色を感じながらも、八戒は拳を握ることしか出来なかった。
 今の彼に必要なのは、自分ではない。
「じゃ、そろそろ行くか」
 その思いが届いたのでもないのだろうが、悟浄が振り向き、八戒を見た。
「そうですね。早くしないと、また野宿になっちゃいますし」
「えー?!メシっ!八戒、メシは?!」
「保存食くらいならあるんですが……生憎」
「そんなんヤダ!」
「だーかーら、早く行こうって言ってんだろ?」
 騒ぐ悟空の頭を小突いて黙らせると、悟浄はすでに変体して運転手を待つジープの元へと歩き出した。
「ってー…何すんだよ、バカッパ!」
「トロくさいお前がワっルーい」
 ケラケラ笑いながら、悟浄が歩く。
 何事もなかったかのように。
 それに誘われて、悟空と八戒も歩き出した。
 だが、たった一人だけ、その足を進めなかった者がいた。
「……三蔵?」
「まだ、早いみたいだぞ」
 呟くように低い声を落とした三蔵が、視線を一点に固定させている。
 その先を追う前に、酷く澄んだ声が乾いた空気を引き裂いた。
「ほんに。まだ、安心するのは早いぞえ?」
「っ!?」

 ふわりとたなびく紗の衣。
 禍々しいまでの紅髪を風に遊ばせ、細面の女が、嘲笑った。







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