【 流れ落ちる砂よりも尚緩やかに・4】
「悟浄悟浄悟浄悟浄っ!」
「だーもうっっ!煩ェなぁっ!」
しつこく己の名を呼んだ悟空に文句を付けながらも、悟浄はゆっくりと歩み寄った。
「そんなに急がなくても、ジープは逃げねぇよ」
「ジープは逃げなくても、日は暮れちまうかもしれねぇだろ!」
「んなワケねぇだろ……」
呆れながらも、悟浄はそれ以上悟空を揶揄うこともせず、後部座席に乗り込もうとジープに手を掛けた。
「オラ、もうちょっと詰めろ」
「えー?大丈夫だよ。悟浄、ちっちぇえんだから」
「テメ……」
「悟浄」
パシっ!
刹那、響いたその音に凍りついたのは、三人同時だった。
何が起こったのか理解出来ないままに、目を見開いた八戒の顔。
「あ……ワリ……」
そして、自分の行動が信じられないように、手を下ろすことすら忘れた悟浄。
八戒の顔を見たことで、漸く見えない何かから引き剥がすように手を戻した悟浄は、反射的に謝罪の言葉を口にした。
「―――お前、足音立てねぇから驚いちまった」
付け足すように先の行動に言い訳をして、悟浄が頬を笑いの形に歪める。
それをなるべく見ないようにして、八戒は手にしていた布を悟浄へと差し出した。
「いえ、僕も不注意でしたから。今日は日差しが強くなりそうなんで、これを渡しておこうと思いまして」
「暑くなるなら余計いらねぇって。どうせ次の街だって、そんなに遠く……」
「面倒くさがらずに」
「……ハイ」
「あ、悟空。悟浄のこと笑ってないで、貴方もきちんと被ってて下さいね。ここから先、砂地も続きますし」
「うえ……ヤブヘビ」
八戒に言い包められて渋々ながらも手を出した悟浄を密かに笑っていた悟空が、自分に矛先が向いたことに肩を竦める。
その様子に、今度こそ悟浄は、いつもの顔で笑った。
「バーカ」
先を急ごうと、提案したのは悟浄だった。
確かに急遽戻った宿屋は、一番近いという理由だけで決めたところだから、街としても小さい場所にあった。情報を集めるにも限界があり、悟浄に術を掛けた妖怪のことを聞こうにも、直ぐに頭打ちになってしまった。しかも収穫は限りなくゼロに近い。幸いにしてもう少し大きな街が北西に3時間ほどの場所にあることを知った悟浄が、三蔵にそのことを進言したのだ。
……八戒ではなく、三蔵に。
そして三蔵は、八戒に地図を確認させるとその街に移動することを決めた。
勿論、一行の決定権は三蔵にあることは理解している。
だが八戒は、正直この街を離れたくなかった。
あの現場から近い。それだけの理由しかないこの場所に留まることは、万策尽きた状態の今では何の意味も持たない。
しかし、万が一ということもある。
相手がもう一度、仕掛けてくれば良し。
今度こそ捕らえて、悟浄に掛けた術を解かせればいい。
でも、このまま敵が現れなかったら?
その不安が、八戒を掴まえて離さない。
悟浄のことだ。足手纏いになるくらいならこの旅から降りる。そう言い出すに違いない。
それだけは嫌だった。
このまま、悟浄がいなくなることだけは。
だから八戒は、黙って三蔵の決定に頷くしかなかった。
「悟浄」
「んー?」
風が、悟浄の頬を叩く。
思いの外速度を上げているジープの後部座席は、痛いくらいの風が擦り抜けていく。その風に髪を遊ばせながら、悟浄は生返事をした。
「さっきの」
「ああ」
声を潜ませる悟空というのは、珍しいかもしれない。いや、悟空にも公にしていい話題とそうでない話題の区別くらいつくということなのだろうと、悟浄は意外な事実に小さく笑いながら、目線を横に移した。
頭を少し傾ければ、狭いジープの中のこと。二人の額は容易にくっつく。悟浄は纏っていた布を頭まで引き上げると、悟空にも同じことを目線だけで強要した。
「悟浄、ちょっと、変。」
単語を並べるように吐き出された言葉は、前にいる八戒を気にしてのことだ。無論、三蔵に聞かれてもおもしろくはない話なので、悟浄も風で掻き消される事を十分に確認してから口を開いた。
「何が」
「さっき。八戒の手、叩いた……」
「アレか。仕方ねぇだろ。急だったんだし」
「それでも……」
「正直、」
触れる肩の高さが、数センチ下にある。悟空は急にそのことが気になりだした。
「俺は、八戒が怖い」
「………なに、それ」
だから、悟浄の言葉に反応が一瞬遅れた。
「八戒だけじゃない。お前のことも、本音で言えば怖くて仕方がない。姿を見れば、お前らなんだと理解は出来る。だが、本能が逃げろって叫んでるんだ。お前も八戒も制御装置はしているが、純粋な妖怪だからな。今の俺の力じゃ、どう足掻いても敵わねぇ」
「なっ…!」
「シッ!デケぇ声出すんじゃねぇ。勿論、お前や八戒が俺に危害を加えるなんて事がないってのも、百も承知だ。だが、理屈じゃねぇ。自分よりも強い気配があるってだけで、自然に身体が緊張するんだ。お前はまだ解りやすいからどうにかなるんだけど……」
そこで言葉を切って視線を流した悟浄に、悟空は何も言うことが出来なかった。
理性で抑えられるなら、疾うの昔にどうにかしている。悟浄はそう言っているのだ。
力ない者の身を守る為の本能が、八戒を排斥する。その事実に、悟空は泣きたくなった。
「でも……いつかは、慣れるんだろ………?」
そうでなきゃ、八戒が可哀相過ぎる。
俯いた悟空の揺れる前髪を見ながら、悟浄は小さく呟いた。
「多分な」
「なら、イイ」
八戒のあんな顔は、もう見たくないから。
そんなのは俺も一緒だと、口には出来ない苦々しさの代わりに、悟浄は前方を睨みつけた。
その、感覚の端。何かが触れる。
「ヤバ……」
「悟浄?」
「お客さん、来たわ」
その言葉に弾かれたように、悟空がシートの上に立つ。
「悟空?!」
「どこっ?!」
「前から右方向に掛けて。数は、七十三……いや、八十二」
「悟浄?」
「八戒、敵だ!ジープ止めろ!いや、このまま突っ込んで中から蹴散らせっ!!」
風を引き裂いて叫んだ悟浄の声に、一瞬で八戒の表情が消えた。躊躇も何も、必要ない。左手がギアへ延び、右足に力が入った。
「……飛ばしますよ?しっかり掴まってて、ください」
八戒の言葉に被るようにして、ジープのエンジン音が高らかに響く。その時になって初めて、無数の人影が一行の目に映った。