【 流れ落ちる砂よりも尚緩やかに・3】





 ザワザワと、ノイズが耳の奥まで入り込む。
 微小な蟲が幾千も這い回るようなその音はやがて小さくなり、意味を持った言葉として悟浄の脳を刺激した。
「まさかこんなことになるなんて…」
(……は…かい……?)
 これは八戒の声だ。
 何がこんなに八戒を困らせているのか解らないまま、悟浄はその手を差し出そうとして失敗した。
(な…んで?何がお前を困らせてんだ?)
 問おうとも、カラカラに干乾びた咽喉は音を紡ぐことも出来ず、ただ苦痛だけを悟浄に伝える。
 たかが指一本、動かそうとする度に走る激痛が、これが夢じゃないのだと告げた。
「今更グダグダ言っても仕方ねぇ」
「でもっ!」
「術の痕跡は追った。だが肝心の術者が見付からん。ならば今出来ることは、限られているな?」
「………すみません」
 三蔵が、いる。
 耳に届く声が、あれは三蔵だと告げている。なのに、感じられる気配が……自分の知っている三蔵とは、違う。
「…ぁ……な、に………?」
「悟浄っ!」
 掠れた声が、漸く音として口から出た。それに気付いた八戒が、目を見開いて悟浄の視界に入る。
(なんだ、泣いてないじゃん)
 場違いなことを思いつつ、悟浄は霞が掛かったような思考をどうにか現実に引き戻そうと努力した。背や頬に当る少しざらついた感触が、自分がどこかの宿屋のベッドに寝かされているのだと知らせている。そういえば一番新しい記憶は、刺客を片付けている時だったか。ならば自分は、無様にも不意を突かれて敵の攻撃を喰らってしまった挙句意識不明に陥っていた…というところなのだろう。
(あぁ、とうとうやっちゃったか)
 諦めにも似た感情が、悟浄の胸を走った。以前ならば恥と捉える自分がいたのだろうが、今となっては「遂に」という感覚しかない。何時来てもおかしくない状態が、自分には常に用意されていたのだから。
「悪い。俺、迷惑かけ……」
「起き上がらないで下さい!」
 切迫した怒声が頬を叩き、後から遅れてそれが八戒の声であることを知る。否、それよりも今違和感を感じたのは……。
「あ……あぁああぁあ?」
「……何やってんだ、莫迦が」
「だってっ!俺っ!この声っ!!」
「人間が解る言葉を喋れ。大体、声だけじゃねぇぞ」
「え?……えぇえええ?!」
「本当に莫迦だな……」
「三蔵……」
 ただひたすらに驚愕する悟浄を余所に、二人は呆れた声を無遠慮に投げかけた。先程の「まさか」が「こんなこと」とは悟浄とて想像もしていなかったのだ。
「な、なんで俺……縮んでんの?」
「お前が莫迦だからだ」
「うわ……」
 珍しく否定することも忘れ、悟浄は己の手を、次いで硝子窓に映る自分の姿をまじまじと見ては眉を顰めた。
 半身を起こしただけでは窓の半分にも満たない、小さなその姿。数刻前の彼とは別人のような幼い容姿に、悟浄も、そして八戒も戸惑いを覚えていた。





「僕が、悪いんです」
「違うだろ、それは」
「いえ、本当に僕が……」
「それ位にしておけ」
 繰り返される言葉に悟浄がうんざりとしはじめた頃、漸く三蔵が助け舟を出した。
 悟浄は内心安堵しながらも表情には出さず、翠瞳から己が目を逸らす。
「三蔵も見てたんだろ?」
「ああ。遠目だから詳細までは解らんが、左腕に紋様のある男がお前に呪符を投げ付けていた。発端は恐らくそれだろう」
「呪符?妖怪が使うもんにしちゃ、珍しくないか?」
「そうだな。妖怪ならば己が能力自体で術を発動させた方が早い。考えられる可能性としてはそいつはただの運び屋で、術者本人は別にいる」
「それは確信?」
「……断定、だな」
 そこまで言い切ってから、三蔵は袂を探って煙草を取り出した。そして火を点け、肺の奥まで吸い込む。
「お前が倒れて、八戒がそいつをぶち殺した。俺が辿り着いた時には、僅かな術の痕跡しか残っていなかった。追おうにも材料が足らねぇ」
 煙と共に吐き出された言葉は、同席していた者全てを黙させる力を持っていた。
 三蔵の言葉は続く。
「術自体は恐らく時間軸を捻じ曲げるもんだろう。ただ、生命に干渉する力はない筈だ。それが出来るくらいなら、もっと手っ取り早く『産まれる以前』とやらまで飛ばしてくれる筈だからな」
 それならば話も早いのに、と三蔵は口元を歪めた。それは笑いの形なのか。八戒は手の平を爪が傷つけるのも構わずに、強く握り締めた。
「でも、悟浄は」
「こいつは禁忌の子だ。術の作用が変化したとしても、不思議はない」
 断定されてしまえば、八戒とて何が言える訳でもない。そもそも禁忌の子に対して、三蔵以上の情報を持っていないのも確かなのだ。こうなってしまえば、あの妖怪を殺してしまったことが返す返すも口惜しい。
「やはり、僕が悪いんですよね。あの妖怪を殺してしまったから」
「だからどうしてそこに戻るかなぁ」
 一番悪いのは油断した俺でしょ。悟浄はそう言い、素足を床に下ろした。
「ごじょ…」
「水、飲みたくなっただけ」
 これ以上お前の話を聞くつもりはない。言外にそう示して、悟浄は部屋に備え付けられた浴室と思しき扉へと向かう。
「ある意味、チャンスかもしれねぇよな」
「悟浄?」
 ポツリと漏らした呟きは小さかったが、不明瞭な音として八戒には届いてしまったらしい。しかし訊き返された言葉に返すこともなく、悟浄は扉を開いた。
(チャンス……なんだよな、三蔵?)
 背中に感じる、紫暗の瞳。それは自分の知っている生臭坊主ではなく、「三蔵」という唯一無二の力としか感じられなくなった存在。
 そして、鼓動すら感じる、八戒という「妖怪」の気配。
 見えない力が肌を刺す。
 その痛みから逃れるように悟浄は後ろ手に扉を閉めた。
 そこで漸く、息が吐ける気がして、悟浄は大きく深呼吸をした。そしてふと上げた視線の先にある物に、一瞬だけ安らいだ表情に再び険が戻る。
「胸クソ悪ぃ……」
 あの頃に帰ったかのような錯覚。
 幼い自分が、義母の血を浴びて真っ赤になった自分が、その中にいた。
 嘘で塗り固められたこの時間が漸く終るのだろうかと、悟浄は瞼をきつく閉じる。
 本当に終らせることが、出来るのだろうかと……。






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