【 流れ落ちる砂よりも尚緩やかに・2】
「俺さ、三蔵に告ったんだよ」
「はあ?」
何の拍子か突如悟浄が口にした言葉に、八戒はどう反応してよいものか困惑した。
空腹に耐え兼ねて屋台に走っていった悟空を三蔵が追い駆けて行った時だったのだろう。周囲は夕餉前の人ごみで雑然としながらも、二人の会話に耳を傾ける者はいない。ある意味二人きりという状況下で、悟浄は言った。
「この間の宿、覚えてる?」
「ああ、三日前の……」
八戒の脳裏に甦ったのは、別段変わり映えのない簡素な宿屋の板壁だった。確か、ベッドの右側の壁に奇妙な沁みが浮かんでいて、それが気になったのを妙に鮮明に覚えてる。本当に、どこにでもあるような宿屋だった。
夕立に遭遇して駆け込みで入った割に主人は親切で、運良く二人部屋が二つ空いているからと勧められて決めた。そして、いつものように成り行きで三蔵と悟浄が同室。八戒と悟空がその隣に。
翌日には天候もすっかり良くなり、ジープの体調も良かったおかげで森林や山間を越えた。その結果野宿を繰り返す羽目になってしまったのだが、兎に角一番最近泊まった宿といえば三日前の宿以外にはない。
その、宿屋で。
「ホント、成り行きだったんだけど。うっかり口が滑っちゃったって言うか……一回言ったらもうどうでも良くなっちゃったって言うか。まぁね、ダメ元だったんだけど」
「はあ」
「上手く行っちゃったみたいなんだよねぇ、これが」
「……………はい?」
だらりとした喋り方に思わず右から左に抜けようとした言葉の端を掴まえて、八戒は驚愕のあまり持っていた荷物を取り落としそうになった。
どこをどうしたらそうなるのか。
八戒にとって、悟浄が三蔵をそうした対象として見ていたというのは初耳だった。無論、一見モラルに欠ける彼でも自分の心情を易々と他人に語ることなどないということくらいは理解している。だが、それにしてもこの話は突飛過ぎた。
「まーそんなワケだから、今日の部屋割り……おっけ?」
小首を傾げて態々下から見上げるように覗き込んできた紅瞳は、普段のような悪戯な光を湛えてはいない。だから辛うじて、八戒も頷くことだけは出来た。
「二人部屋が取れたら、ですけど」
「あーあーあー、それはヘーキ。三蔵サマがどうにかするだろうから」
悟浄は口角を上げて笑みを作ると、手に持った紙袋を揺すり上げる。その動きを追うともなしに見ながら、八戒は奥底から湧き上がる感情をどうにか飲み込んだのだった。
あれから約二ヶ月。悟浄は二人部屋が取れれば極力三蔵と共に部屋に篭もるようになった。
表面上に大きな変化はない。寧ろ、二人の距離は不自然なほどに変わらなさ過ぎた。八戒とて突然二人が目の前で睦言を交わしたり甘やかな雰囲気になったりしたならば、困惑し、悟空になんて取り繕えばいいのか悩んだだろうが、そんな心配も杞憂に終ってしまいそうなほどに彼らの空気は変わらなかった。
ただ時折。
壁の向こうから漏れ聞こえる荒い呼吸音やくぐもった声、そして悟浄の腕につけられた爪傷が、八戒に事実を突き付ける。
その度に八戒は、咽喉の奥から競り上がる「何か」を嚥下しなくてはならなかった。
「―――っか…い……!」
「え?」
随分と遠くから聞こえた悟空の声に、自分の名前が呼ばれたのだと気が付くのに、時間が掛かった。
振り向けば、目に入った悟空の口が大きく動き、何かを伝えようとしている。
それが、「あぶない」だと悟るのに、数瞬。
反射的に身を捩ったその視界の隅に、流れる赤を見た。
(ご、じょう……?)
一瞬の閃光。
横にいた筈の男を取り囲んだ、嫌な気配。
そして。
「悟浄っ!!」
吸い込まれるように大地に倒れ行く悟浄の姿が、そこにはあった。