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 ブレた意識が次第に輪郭を取り戻していく。
 あたかも、朝の目覚めのように。
 八戒はゆっくりと瞼を押し上げ、纏まらない思考を拾い集めた。
(僕は・・・)
 上体を起こすと、濁った草木の臭いが鼻を突く。
(何を・・・・・・)
 地面に着いた掌が、ぬるりとした感触を伝え、その不快感に視線を落とすと、
「!?」
 そこにあるのは、見慣れた自分の右手ではなかった。
 不釣り合いに大きな手。鋭く伸びた爪と、獣の様な質感。
「っ・・・・はぁ、ぁ」
 心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃に必死に耐えると、爪が地面を抉った。
 常とは違う、感触。固い筈の大地が柔らかい粘土のように容易に裂ける。
(何故?)
 恐る恐る見た左手は、まだ、『ヒト』の手の形をしていたのに。
 右手のみが獣に・・・妖怪の本性に立ち返っている。
(封印が?)
 不完全ながらも解けたと言うのか。
 では何故、封印が解けたのか・・・・・・。
「悟浄っ!?」
 不意に蘇った記憶に、慌てて悟浄の姿を捜す。
 振り返ったその先にあるのは、ズタズタに引き裂かれた蔓草と・・・・・・打ち捨てられたヒトの姿。
「ご・・・じょ・・・」
 声が震える。
(マサカ、僕ハ彼モコノ手デ・・・?)
「あ・・・悟浄っ!!」
 半ば恐慌状態に陥りながら、八戒は悟浄へと縋り付いた。
「悟浄・・・悟浄・・・悟浄っ」
 泥と樹液に汚れた頬は色を失い、八戒の呼び掛けにも瞼は硬く閉ざされたまま、ぴくりともしない。
(イヤダイヤダイヤダ・・・)
 八戒の脳裏に、ただ一つの言葉が谺する。
 こんな事が、あっていい筈がない。彼が・・・悟浄が、僕を置いて逝くなんて。
 僕が、彼を殺シテシマウナンテ・・・。
「ねぇ、目を開けてくださいよ・・・ごじょう・・・悟浄ぉっ!!」
 視界が歪み、八戒は壊れていきそうな自分を感じていた。
 悟浄の顔がぼやけて、見えない。
 チリチリと自分の『ナカ』の何かが、悲鳴を上げている。
 いや。もしかすると、歓喜の声かもしれない。暴走しようとする、妖怪の本能の・・・コエ・・・。
(もう、それでもいいや・・・)
 八戒は霞む思考の中で、諦めにも似た感情を抱く。
 このまま、悟浄を失ってしまうくらいなら、自分を保つ必要もない。
「悟浄・・・」
 八戒は悟浄の肩口に額を預け、吐息のようにその名を呼んだ。


 どれだけそうして、悟浄の体を抱いていたのだろう。
 不意に、己の頭に何かが触れるのを八戒は感じた。
「?!」
 驚きに、悟浄の体から身を引き剥がせば、うっすらと開かれた深紅の瞳と眼が合う。
 頭部に触れていた手が、ゆっくりと滑り、八戒の頬を撫でる。
「なに・・・泣いてんだよ」
 掠れてはいても、それは間違えようもなく悟浄の声で・・・
「ご・・・じょう?」
 信じられなくて、嬉しいのに感情が追いつかなくて、八戒は名前を呼ぶことしかできない。
 そんな八戒に、悟浄は笑い掛ける。
 時間をかけて肩を抱き、その身を近づけ「ありがとうな」と囁く。
 助けてくれて。呼んでくれて。
 本当は、自分一人で片を付ける筈だったのだけれども。
 そう告げる悟浄を、八戒はきつく抱きしめる。
「もう・・・殺しちゃったかと思いましたよぉ・・・」
「ば〜か。俺がそんなに簡単に死ぬかっての」
 声の調子も戻ってきて、それが八戒を安心させる。
 抱き着いて、抱き締めて、鼓動を確かめて。
 漸く悟浄が生きている事を実感できる。
「まったく・・・無茶しやがって」
 悟浄の手が八戒の左耳に伸ばされ、そっと触れる。
「制御装置、割れてんじゃねぇか」
「いいです。家に帰れば、予備がありますから」
 貴男が居なくなる事に比べたら、そんな些細な事はどうでもいい。
 獣化も右手だけですんだのは奇跡に近い。
 でも、悟浄が生きていた事の方が自分にとっては重要だから。
「いいんです・・・・・・」
 瞳を閉じれば、悟浄の温もりだけが全てだった。
「そっか・・・」
「えぇ」
「じゃぁ、早く家に帰ろ?」
「えぇ・・・」
 悟浄と一緒に、あの家に・・・二人の家に帰ろう。
 こんな場所からは、一刻も早く離れて。
 八戒は名残惜しげに悟浄の体を離した。
「と・・・その前に。俺の上着、どっかに転がってねぇ?多分あの辺だと思うんだけど・・・」
 言われ悟浄の指し示す方角を見れば、確かに彼の上着が落ちていた。
 悪いけど、取って来て?と言われれば、素直に拾いに行くしかない。
 不思議なまでに無傷な上着を、八戒は悟浄の肩にかけた。
「さんきゅ」
 いつもの笑みで悟浄が返し、自然な動作で懐を探る。
 取り出したのは、煙草とライター。
 何もこんなところで・・・そう思って見ていると、悟浄は咥えた煙草に火を着け、深く吸いこむ。
「悟浄」
 窘める様にそう呼べば、悟浄はウィンク一つ。
「じゃ、行こうぜ」
 と手を差し出した。どうやら自力で歩けるくらいには回復していたようだ。
 その手を肩に回し、なるべく負担をかけないように助け起こせば、軽く眉を顰めたものの、しっかりと大地を踏みしめる。
 そして、俯いた視線の先には・・・引き裂かれた、蔦。
 憎々しげに一瞥をくれると、悟浄は咥えていた煙草を2本の指に挟み持つ。

「勝手に一人でイきやがれ」

 吐き棄てる様にそう呟くと、指を弾いて煙草を落とした。
 常には考えられない勢いで煙草の火は燃え移り、瞬く間に辺りを朱に塗り替える。
 それを満足そうに確認し、悟浄は踵を返すと、振り返ることなく歩き出した。



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