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樹液と泥に汚れた体を洗い流すために、帰る早々二人は浴室に引篭もった。
シャワーから降り注ぐ清浄な水が、元の色を残したまま排水溝に落ちるまでには暫くかかったが 幸いにして悟浄に大きな外傷は殆どなく、湯で温められた肌は次第に血の気を取り戻していった。
八戒は複雑な面持ちで、悟浄の肌を撫で擦る。
細かな擦過傷が多く残る肌は、スポンジすら痛みを感じさせる。
そう言って、八戒を浴室に引き込んだのは悟浄だ。
八戒は左手だけで、器用に悟浄の身体を清めていく。その右手は・・・未だ獣のまま。
「結局あれって、何だったんですか?」
悟浄を浴槽の中に移し、髪にシャワーを当てたところで蟠っていた疑問を八戒は口端に乗せた。
「ん〜?さあ・・・俺もよく知んない」
のんびりと悟浄は応え、前に一度だけ捕まった事があったけどねぇ・・・と付足した。
「昔って・・・」
「俺がまだガキの頃。やっぱ、あん時も死ぬかと思ったもんなぁ」
助けて貰えたから、生きてるけどね。
悟浄は瞼を伏せたまま、静かに続ける。
「多分、年を経て妖になった種なんだと思う。俺はあいつらにとって、御馳走なんだって」
『水生木』・・・五行に於ける相乗の理。水性の悟浄は、木性の妖にとっては力の源である。そして・・・
(金剋木・・・と言うわけですか)
八戒は金性の生まれ。ならばあれらを容易に退けたのにも頷ける。
「あいつらさぁ、結構姑息で・・・始めの頃は幻覚見せんのよ」
実体を持たない植物が、身体中を這い回る。強く念じれば、消えてしまうくらいの軽い幻覚。
しかしそれは日に日に輪郭を増し、己の妖力を養分に成長を続ける。実体化できる、その日まで。
厄介な事に、妖樹は実体化しないと手が出せない。
だから、悟浄はじっと機会を待っていたのだ。
だが・・・
「あの樹液ってやつがさ、これまた結構な催淫剤みたいなやつで。まぁ、効率よく妖力奪おうってんだろうけど」
トン・・・と自分の頭を人差し指で突付くと、ここに直にクるんだよねぇ、と嘲笑う。
習慣性はないけど、その分効力は絶大で。
その言葉に、八戒は先程の媚態を思い出す。
まるで、別人だった。御伽噺のニンフのように、獲物を誘うその様。
それが、あの植物の樹液のせいだとしたら・・・
「とんでもない代物ですね」
溜息と共に素直な感想が漏れる。
一度捕まったら、二度と逃れる事が出来なさそうだ。
「ホント、あそこまで強烈だとは思わなくってさぁ。実体化したところで返り討ち、って計画だったのに、失敗しちゃった」
けらけらと、真剣味のない声で言われても、悟浄がどれだけ本気だったのか八戒には理解できた。
何しろこの数日の悟浄を、傍らで見守り続けたのは他ならぬ自分なのだから。
「ま、お前が頑張ってくれたし?俺もトドメ指してきたから、暫くは大丈夫だろ」
滅多に居ない代物だしねぇ。
悟浄は気楽に繋げたが、八戒としても二度と御目に掛かりたくはない。
それに、『頑張って』と言われたって、所詮は自我が保てなくて暴走しただけだ。
忌々しげに、その証である右手に視線を落とす。
破壊衝動しか持たないこの手が、悟浄を傷付けなかったのは奇跡に近い。
次に似たような事があったとき、はたして自分は・・・。
その時不意に、悟浄の手が八戒の右手に添えられた。
はっとして顔を上げれば、身体ごとこちらを向いた悟浄と目が合う。
「どうした?」
上目遣いで訊ねる声に、僅かに右手を引いて『何でもありません』と応える。
しかし、思いの外悟浄の力は強く、八戒の右手はそのまま悟浄の両手で包まれた。
「・・・離して下さい」
眉根を寄せて訴えれば、
「なんで?」
と悟浄が首を傾げる。
「いいじゃん。これだって正真正銘、お前の手なんだし。俺は好きだよ?」
そして、手繰り寄せた手の甲に頬を寄せ、
「俺を助けてくれた、手だろ?」
自信持って良いよ。そう言って目を細める。
そのまま悟浄は静かに目を伏せ、神聖な儀式のように、その手に接吻けを落とす。
「俺・・・さ」
顔を伏せたままの悟浄の表情は、八戒からは見えない。
「このままだと悪夢を見そうでさ」
悟浄の震える吐息が感じられる。
「・・・・・・慰めて、くんない?」
この手で愛されたら、きっと、忘れられるから・・・。
悟浄の口唇が緩やかに右手を辿る。
両手で手首を持ち、指の一本一本、関節の一つ一つを確かめるように、その動作は念入りに行われた。
触れるだけだった口唇が、食む様に指を挟み舌先が擽る。
親指から小指まで、全てが終わると今度は手首から中指の先までねっとり舐め上げる。
湿った唾液の感触と、熱い悟浄の吐息が背筋を震わせた。
「はっかいぃ・・・」
情欲に濡れた瞳が、誘うように八戒を見上げる。
八戒はそれに応える様に、紅く淫らに艶めいたその口唇を塞ぐ。
薄く開いた隙間から舌を忍ばせれば、悟浄の伏せた睫が歓喜に震えた。
二人が肉の交わりを持つのは、随分と久方振りだった。悟浄が幻覚を見始めてからだから、かれこれ一週間近くになるだろう。
だが、今夜の悟浄の、異常なまでの乱れ様は・・・
(やはり、例の樹液の影響、ですね)
催淫作用は未だに残っていたようだ。
「ん・・・っ」
嚥下し切れなかった唾液が、頤を伝い首筋へと流れる。
それを追う様に、八戒は舌を滑らす。
左手で背筋をやわりと辿れば、悟浄の咽喉が期待に鳴った。
しっとりと汗ばむ肌は、這わせた左手に吸いつくようで。
その極上の感触に、八戒は眩暈にも似た愉悦を覚える。
この腕の中のヒトは、今、確かに自分一人のモノなのだから。
浮き出た鎖骨に歯を立てれば、悟浄の腕が八戒の頭部を抱く。
そのまま強く吸い上げ、紅い徴を残すと、甘い声が耳元に落とされた。
胸骨の上を滑り、腹部を辿り、その時々で紅い花弁を散らす。
その度に、悟浄の身体は震え、跳ねた。
全てを余すことなく、八戒は癒す優しさで悟浄の身体を包む。
しかし右手を使わずに行われるソレは、今の悟浄には物足りなく感じて。
「八戒・・・」
自分の横に置かれたその手に、自分の手を重ねる。
いつものように触れたくて、でも、動こうとする度に思い留まる様にシーツを握り締める、その手に。
悟浄は両手で掬い上げると、掌に頬を寄せた。そして、導くようにその手を移動させて行く。
「・・・悟浄・・・」
頬から、首筋。鎖骨の上を通って、胸へ。
八戒はその爪が悟浄の肌を引き裂きはしないかと、指一本動かす事さえ出来ずにいた。
その手が心臓の真上に来たとき、悟浄は手を止め、八戒の顔を見た。
眉を寄せ、辛そうな顔をする八戒に、悟浄は薄く微む。
大丈夫。この手は優しいから。
もしこの手が俺を傷付けても、俺は受け入れられるから。
この手が与える全てが、俺は欲しいから。
声にならない声を聞いて、八戒は祈るように悟浄の胸へと頭を垂れた。
優し過ぎるこの人に、安息が訪れるように、と。
「で、予備がコレ?」
悟浄はパクン、とビロードのケースを開けた。
その中には、八戒の左耳に付けられていたものと寸分違わぬ、妖力制御装置があった。
「なにもさぁ、予備だからってまったく同じモンじゃなくてもイイと思わん?」
一つ取り出し、目の前に翳せば、陽光を弾いてキラリと光る。
ま、いっかぁ。
そう言いながら八戒の方へと向き直ると、その左耳に触れ、皹の入ったカフスを新しいものに換えていく。
一つ、また一つとカフスが取り替えられる度に、八戒は自分の妖力が凪いでいくのを感じていた。
「っと、コレでおしまい♪」
最後の一つが交換され、ケースの中には割れたカフスが3つ収まった。
そして八戒の右手も、すっかり元の様相を取り戻していた。
ケースの蓋を閉じれば、何事もなかったかのようだ。
「じゃぁ、僕はコレを片付けてきますね」
ケースを片手に席を立てば、時計を見た悟浄が眉を顰めた。
「なんだ、もう昼かよ。どーりで腹が減ってると思ったよ」
それすらも、いつもの情景。
八戒は笑みを零す。
「ついでに何か食べられそうな物を持ってきます」
「頼むわ」
悟浄は煙草を取り出し、灰皿を引き寄せる。
二人の日常が回り始める。
悪夢はもう、見ない。
この右手には、優しい想いしか残っていないから、僕はあの人の側に居られる。
「待っててくださいね」
八戒は見つめていた掌を握り込むと、食堂のドアを抜けた。
〜FIN〜