― 樹 姦 ―
水気ヲ喰ラヒテ木気ヲ生ズ




 世界は静寂であった。
 否。『彼』の世界のみが、静寂であった。

(耳鳴リガスル)

 彼の周りには、『音』という物が存在していなかった。
 『時』さえも、常とはその流れを異にしていた。

(息ガデキナイ)

 目の前には只、闇のみが広がる。
 全ての彩を、覆い隠すかのような、漆黒。

(アレハ・・・・・・)

 その暗闇を裂くかのように、ほの白い影があった。
 影は、人の形をしていた。

(アレハ・・・・・・)

 艶かしく、影は躍る。
 その白い姿態を晒しながら。

(ア・・・レ・・・ハ・・・・・・)

 燐光を放つ腕が、彼を手招くように差し伸ばされる。

『ア・・・・・・』

 パシリ、と耳元で何かが弾ける音がした。
 そして彼は、落ちていく意識の中で、薄く嘲う紅唇を見た・・・・・・・。



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 悟浄の様子がおかしいと、気が付いたのは5日前。
 どこか上の空で、時々自分の掌を見詰めては握り締める動作を繰り返す。
(どうかしたんですか?)
 そう問い掛けてみても、返って来るのは生返事ばかり。
 そして時折、何も言わずにどこかへ出かけてしまう・・・・・・。
 あぁ見えても、悟浄は意外と几帳面で、余程のことがなければ行き先を告げてから出掛けるのに、この数日はいつのまにか姿を消している。
 その不自然さが、八戒の心をざわつかせていた。
 しかし、悟浄の後をつけるもの気が引けて、逡巡している間に5日が過ぎた。
 その間に、悟浄の食欲は落ち、確実に身体は細くなっていた。
 僅かな変化ではあるけれども、八戒はそれを見落とすことはなかった。
 肌は病的な白さになり、瞳は虚ろに空をさまよう。
 そして今夜も、悟浄は己の寝床を抜け出し、そっと扉を開けると夜のしじまへと歩み去る。
(・・・・・・・・)
 息を殺してそれを見送った八戒は、今夜こそ彼を追う為に、上着を手に取った。



「は・・・・」
 尾行に気付かれないように、そして見失わないよう後をつける事は、妖怪となった身には意外と簡単な事だった。
 明かりがなくても周囲は容易に見渡せたし、何よりも彼の気配を感じ取る事が出来たから。
 しかしそれも、森に入るまでだった。
(見失いましたか・・・)
 呼吸を整えながら、八戒は辺りを見回す。
 前を歩いていた悟浄の足取りは確かなもので、迷いはなかった。
 だが、後ろを気にする様子もなかった。
 何よりも気配に敏感な悟浄の事だ。八戒の尾行になど、通常ならすぐに気付くだろう。
 なのに、彼は『前しか』見ていなかった。
 彼の歩き方を知っている自分には判る。
 それが、いかに異様な事かが。
(もっと。奥に・・・)
 訳の解らない焦燥が八戒を駆り立てる。
 早く見付けなければ、取り返しのつかない事になるような気がして。
(悟浄・・・)
 八戒は足を速める。
 知覚を限界まで高め、生い茂る草木を払い除けるようにして森を進む。
 枝葉が頬を打ち、血が滲んだが、今の八戒にはそれすら気にする余裕はなかった。
 只ひたすらに悟浄の姿を追い求め、先を急ぐ。
 そうしてどれだけ走った頃だろう。
 八戒は視界の端に、淡く光るモノを捉えた。
(・・・?)
 燐光にも似た、朧げな光。
 誘蛾灯の様に己を惹き付けて止まないその明かりに、更なる不安が掻き立てられる。
 五感を澄ませば、幽かに漏れ聞こえる人の声。
 鬱蒼と茂る木々。星明かりさえ届かないこの森に、誰が居るというのか。
 すすり泣くような細い声は、途切れることなく八戒の聴覚を刺激する。
 歩を進めるごとに、確かになってゆくその声は・・・。
(この先に・・・)
 彼は、いる。
 その確信が、八戒の足を更に速める。
 木の葉を透かしてさえ見える光。
 そこに・・・・・・
 八戒は、最後の枝葉を払い除けた。



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