「悟浄・・・」
 声を掛ければ、肩が震えて反応を示す。
 シーツの下から赤い瞳がおずおずとこちらを確認し、そして漸く彼が待つ人物と違うことに細い吐息を漏らす。
「あぁ、アンタか・・・」
 その声に八戒は僅かに微笑み返すと、サイドテーブルにトレイを置いた。
 “彼”はこの部屋から出ようとしない。無理にでもこの部屋から連れ出そうとすれば、心神喪失状態に陥った。
 それからは食事も全て八戒がこの部屋に運んで食べさせている。
 八戒が用意しなければ、彼は水の一滴さえ口にしようとしなかった。
 ただ一つの行為以外を忘れた様に、彼は表に出ている時間を過ごす。
「さぁ、食べましょう?」
 八戒は悟浄の手にスプーンを握らせると、そっとその手を引いてテーブルに近寄らせた。
 握った手は確かに悟浄のものなのに、その内に宿る精神が自分の知る彼でないというだけで、八戒は泣き出したい衝動に駆られる。だがそれを表に出さず、彼を安堵させる為に微笑み続けた。
 それはまるで、贖罪の如く・・・。





―氷の華―
case4





 カラリとスプーンを置く音がし、悟浄が食事を終えたことを示す。
 その音に目を向ければ、悟浄はじっと八戒を窺っていた。
「どうかしましたか?」
 問いかければ、悟浄はふいと目を逸らしまた膝を抱える。
「あのさ・・・」
「はい?」
「アンタも、大変だよな。俺の世話なんかして」
 膝に埋めた顔から視線だけを上げ、悟浄は八戒を見上げる。
 彼は八戒が義母の知り合いだと思っている。八戒がそう説明したからだ。
「別に、そんなことありませんよ」
 八戒は僅かに俯き、口元に笑みを張り付かせたまま応えた。
 聡い彼は気付くだろうか。いや、気付かぬ筈がない。この空気の不自然さに。
 だから、彼が気付いた時が、始まりであり・・・終わりとなる。
 その瞬間を自分が待ち望んでいることに、八戒は気付いていた。
「でもさ、母さん・・・アンタが来てから、一度も帰ってきてねぇよな」
「そう・・・ですね」
「俺のせい、かな・・・」
 悟浄の、コトバ。
 震えそうになる己の手をきつく握り締めることで抑えながら、八戒は目を閉じる。
 閉じて己の内を省みた。
 決意は固い。それは揺るぎ無く八戒の内にある。
 それまでの逡巡も自戒も、後悔も。自らを苛むものは全て捨てた。
 ただ残虐までに凪いだ気持ちが、滑稽だった。
 そして歯車を回す為に・・・八戒はその目を開けた。
(もう、終わりにしましょう?)
 それがどんな結果になろうとも、受け入れるから。

「違いますよ」
「でもっ!」
 言い募ろうとする悟浄を、八戒はその手を取ることで封じる。
「違います。あなたはもう、気が付いているでしょう?」
 義母が現われない理由。
 彼がもう、義母に会う事が出来ない理由・・・。
「貴方のお母さんは・・・」
「ちがうっ!」
 悟浄は八戒の手を振り払い、両耳を押さえて叫ぶ。
「母さんは俺を置いて行ったりしない!俺はずっと、母さんと・・・っ」
 再び恐慌状態に陥ろうとした悟浄を、許さぬ強さで八戒は抱き止める。
「悟浄、もう良いんですよ。彼女を待たなくて。アナタは楽になって良いんです」
 でもそれは、この小さな悟浄にとって、死にも等しい言葉。
「アナタのお母さんはもう、死んでしまったのですから」
 瞬間見開かれた瞳から零れ落ちる涙さえ、八戒の心を動かす事は出来ない。
 ただ、真実を告げる為だけに、八戒の口は動いた。
「本当は覚えているんでしょう?彼女は死んで、貴方は生きた」
 それは残酷な運命だけど、その過去があるからこそ僕は貴方に出会えた。
 だから・・・。
「貴方はもう、彼女を畏れなくて良いんです。彼女はもう、貴方の前に立つ事はない」
 抱き締めた身体が、震える。
 ならば何故?
 悟浄の瞳が震える。
 俺はここにいるの?
 母さんに必要とされない俺が、何故ここにいるの?
 問い掛ける瞳に返す言葉は、もう決められている。
「貴方自身が、生きる事を決めたんですよ・・・悟浄」
 そして僕には、貴方が必要なんです。
 それを思い出して欲しくて腕に力を込めれば、悟浄はゆっくりと目を閉じた。
「俺、死にたくなかった。でもさ、一人になるのはもっと嫌だった」
「えぇ」
「母さんもさ、もう泣かなくて良いんだ」
「そう・・・なりますね」
「・・・・・・さんきゅ」
 その言葉を最後に、幼い悟浄の精神は眠りについた。


「さて、次はアナタの番ですね」
 今までとは打って変わった冷めた声で八戒が告げると、腕の中の悟浄が身じろいだ。
「ほんっと、酷い人ね。アナタって」
 悟浄の義母と名乗る、人格の目覚め。
 彼女は不快感を隠さず、八戒を責めた。
「あの子、消えちゃったわ」
「そうですか」
「あの子が解からないからって、アタシが死んだとかって嘘吐いたり・・・」
「嘘?」
 それを遮る様に、八戒の言葉が落ちる。
「嘘じゃありませんよ。悟浄の義母は確かに死んでいます。それに」
 断罪者の目で、八戒は告げる。
「アナタは悟浄のお義母さんじゃありませんから」
「っ!」
 見開かれた目さえ、八戒の心を冷ます。
 この人格は、彼の弱さ。
 だからこそ、彼を取り戻す為に消さねばならない。
「僕も霊魂の存在を信じないわけじゃありませんけど・・・・・・どう足掻いても、アナタは悟浄でしかありえないんですよ」
 ほら、と八戒は左手を伸ばす。
 その指先に触れるのは、厚く閉ざされたカーテン。
 それを無造作に引けば、弾けるような音と共に窓ガラスが現われる。
 夜闇のせいで鏡のようになったそれに映るのは、赤髪の男の姿。
 その鏡像に、強張る視線を無理やり向けさせる。
「あの子が畏れる様に、あなたも一度として鏡を見ようとしませんでしたものね。女性である筈の、アナタが・・・」
 不自然なんですよ。
 そう告げれば、悔しさに歪んだ瞳が八戒を見据えた。
「悟浄には、アタシが必要だわ」
「そうでしょうか」
「アタシは悟浄を愛しているわ」
「奇遇ですね。僕もなんです」
 その言葉に悟浄の動きが止まり、首を垂れた。
「アナタは・・・アナタは、“悟浄”を、一人にしない?」
 孤独を嫌った悟浄。悟浄を一人にしない為に、現実を摩り替える。
 それこそが彼女に与えられた役割だった。
「そのつもりです」
「そう・・・」
 女は寂しそうに微笑むと、その身を八戒へと預けた。


 ひとり、ふたりと姿を消した。
 彼らが本当に消えたのか、八戒には確認のしようがない。だがこれで、上手くいけば・・・
「そして誰もいなくなった・・・か」
「っ!」
 思いに沈む八戒を引き戻す様に、その声が響いた。
 深緑の瞳が喜色に染まり、だが次の瞬間には再び翳る。
「アナタは・・・」
「“悟浄”だよ。俺も、な」
 ただ、お前の知っている悟浄じゃないけどな。
 悟浄は薄く笑い、突き放すように八戒の手から離れると、壁に背を預けた。
「チビもあの女も消えちまったぜ。ホント、やってくれたよ」
 落ち掛かる髪を掻きあげる仕種も、八戒の知る彼に近いのに。
「アナタは、彼等を知っているんですね」
 それでも悟浄ではあり得ない、更なる人格。
 悟浄は皮肉げに口端を歪め、肩を竦めた。
「そりゃ、俺は上位人格ってヤツらしいし?俺は大概のことを知ってるよ」
 ただし、と言葉を区切り、身を乗り出して八戒へと顔を近付ける。
「質問は短めに。俺はそんなに長く表に居るわけにゃ、いかないんでな」
 俺があんまり表にいると、あいつを殺しちゃうし。
 その言葉に弾かれた様に、八戒が反応する。
「悟浄は・・・悟浄はっ」
「寝てるよ」
「消えたわけじゃ・・・ないんですね」
 八戒は安堵に吐息を漏らすと、肩の力を抜いた。
 畏れていた最悪の事態だけは免れたらしい。だが。
「だが、いつ起きるかは俺にも解からねぇ」
「でも・・・いつかは目覚めるんでしょう?」
 それだけで、今の僕には十分です。
 そう呟いて八戒が悟浄を抱き寄せれば、その背を悟浄は軽く叩いた。
「あのさ、俺は一番下で眠っちまうけど・・・アイツのこと頼むわ」
 その言葉に、八戒は数日振りに笑った。
「悟浄のことなのに、その本人から頼まれるなんて変な話ですよねぇ」
 それに同じように笑いながら、悟浄も応える。
「そりゃそうだけどさ、俺以外に頼むヤツもいないじゃん」
「あはは・・・確かに」
 一頻り笑って、悟浄は八戒の肩に回した腕に力を込める。
「じゃぁ、さ。マジに頼むわ。でないと・・・」
 アイツらも可哀想だからさ。
 それだけ告げて、唯一全てを知る彼は深淵での眠りについた。
 後に残された八戒は、ただ悟浄の体を抱き締めて、緩やかに微笑んでいた。
 それは彼の人生の中で、一番穏やかな笑みだった。




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