―氷の華― final case 日差しは明るく、開け放した窓からは澄んだ風が入り込む。 八戒は来訪者の気配に気が付くと茶器をテーブルに置き、玄関先へと向かった。そして扉を開け、彼等の姿を確認すると懐かしそうに目を細め、穏やかな口調で言った。 「いらっしゃい。三蔵、悟空」 三蔵と悟空がこの家を訪れるのは、随分と久し振りだった。そのせいか、悟空は居心地悪げに幾度も椅子の上で身動ぎしている。 三蔵は相変わらずで、不機嫌そうな顔をしながら煙草を咥えている。その灰が随分と長くて、零れ落ちそうになっているのに苦笑しながら僕はテーブルの上に置いてあった綺麗な――まるで暫くの間使われた事のなかったような――灰皿を三蔵の前に押しやった。 「灰、落とさないで下さいね」 「あぁ・・・」 三蔵の眉間の皺が僅かに深くなったけど、僕は気付かないフリをして席を立った。 「悟空、お腹空いてませんか?悟空が来ると思って、今日は朝から点心を沢山作っておいたんですよ」 「あ、うん。さんきゅ、八戒」 「ちょっと待っていて下さいね」 言葉少なに返す悟空に少々の違和感を感じながらも、それは暫く会っていなかったせいだと結論付ける。 僕らの中で一番変わったのは、彼だろう。 いつも前を見る強い瞳が、羨ましいくらいだった。 そして僕らは・・・滑稽なほどに変わることを恐れていた・・・。 「っ!・・・・・・どうしました?」 不意に台所へ向かう足を止められたかと思えば、悟空が服の裾を掴んでいた。 悟空は僅かに俯き、何かを堪える表情をしている。いつだったか、これと同じ顔を見たことがあったなと、頭の片隅で思った。 「あの・・・さ。悟浄は・・・」 注意しなければ聞き取れないような、彼らしくない小さな声で問われた内容に微かな笑いが零れる。 そうか。そういえばここには悟浄がいない。 そのせいで彼も違和感を感じていたのだろう。 貴方と彼は仲の良い兄弟のように、いつも騒いでいたから・・・。 「ごめんなさい。悟浄、疲れているみたいで起きて来ないんですよ。お腹空いたら起きて来るかもしれませんけど」 僕は寝室の扉を見て、そう告げる。 悟浄はあの奥で寝ている。起きて来ればイイのに。今日彼が悟空や三蔵に会うコトは出来なさそうだ。 「無理に起こすのも可哀想ですしねぇ」 そう言って笑えば、悟空も笑い返してくれた。 あの頃には見た事が無かった、どこか困った風な笑い方。悟空もこんな笑い方をするようになったのかと、不思議な感慨が訪れる。 いや、僕らが変わらなさ過ぎるのか。 妖怪の血が、人間とは違う時の流れを作っているのか・・・そう考えたところで、もっと変わらない人がいることに気が付いた。 三蔵――彼は言動はおろか、外見まで出会った頃とたいして変わっていない気がする。あそこまでくると人間離れしているとしか思えない。でも、本人に言ったら確実に発砲されそうだから、一生口にするのは止めておこう。悟空や悟浄にも言わない方がいいだろう。彼らはついうっかり口を滑らせそうだから。 「八戒?」 考え込んでしまった僕に、悟空が訝しげな顔を向けている。 折角遊びに来てくれたのに、こんなことじゃいけないですよね。 僕は気を取り直して、にっこりと笑う。 「丁度席を立ってくれたことですし、料理運ぶの、手伝ってくださいね」 「うん!」 悟空の元気な返事が、なんだか懐かしくなって・・・僕はまた、寝室の扉を見詰めた。 「それじゃぁ、お元気で」 空が茜色に染まる頃、三蔵と悟空は寺に帰るために席を立った。 八戒はそれを見送る為に外まで出る。 いつも通りの別れの言葉を口にすれば、何故だか悟空が眉を寄せていた。 「悟空?」 その理由を問うように名を呼べば、悟空は顔を上げ、何度か逡巡を繰り返し・・・結局は口を噤んでしまう。 それでも悟空の言いたいことが判るような気がして、八戒は悟空に笑い掛けた。 「悟空。いいことを教えて上げましょう」 まるで教師が幼い生徒に語る口調で、八戒は告げる。 「氷で出来た花はね・・・この世界では存在し続けることは出来ないんですよ」 「・・・っ!」 その言葉に弾かれたように悟空が顔を上げるが、八戒はそれに気が付かなかったように三蔵へと視線を移した。 「三蔵も、吸い過ぎには気を付けて下さいね」 「・・・余計なお世話だ」 こんなやり取りだけは、いつもと変わらない。 八戒は淡く微笑むと、今度は絶対に悟浄を起こしておきますから、と付け足す。 三蔵は何故だか諦めたように溜息を一つ吐くと、徐に悟空の頭を叩いた。 「おら!帰るぞ、猿!!」 「って〜。何すんだよっ!暴力坊主!!」 賑やかに家路を辿る2人を愉しそうに見送り、八戒はその姿が見えなくなったところで家へと入った。 悟浄の待つ、たった2人きりの家へと・・・。 「なぁ、三蔵」 ぽつりと、悟空が名を呼ぶ。 だが三蔵はそれに気付かないフリをして、足を速めた。 「三蔵・・・三蔵ってば!」 「煩せぇ、猿」 焦れた悟空が何度も呼べば、流石に無視も出来ずに三蔵も怒鳴り返す。 しかし振り向いた先の、思いの外強い視線に、足が止まった。 睨み合うこと数瞬。そして沈黙を破ったのは、悟空の方だった。 「あんなんで、いいのかよ」 「何がだ」 聞かずとも解かっている。 それなのに三蔵には、この言葉しか口に出せなかった。 「八戒と悟浄・・・。俺、このままじゃ、ヤだ」 「それで?」 気の無い返事に、悟空の頭に血が上る。 「三蔵っ!」 しかしそれに返されるのは、冷めきった紫xの瞳のみ。 怯む悟空を前に三蔵は深く息を吐き出し、口を開いた。 「それで、俺にどうしろと言うんだ?全ては八戒が決めた事だ。最早俺達に口出しできる事など何もない」 「でもっ!俺はイヤだ!!」 頑ななまでに否定し続ける悟空に、三蔵もキレた。 「いつまでもグダグダ言ってんじゃねぇ!」 「だって、三蔵はそれでイイのかよ!」 「良い訳ゃねぇだろうが!!」 怒りと共に吐き出された強い言葉に、悟空の動きが止まる。 三蔵は片手で顔を隠し、俯いたままで繰り返した。 「良い訳ゃ・・・ねぇんだよ・・・」 「三蔵・・・・・・」 「だからって俺に何が出来る・・・?もう、あいつが望んだ通りにしてやるくらいしか・・・」 「・・・ゴメン、三蔵・・・」 三蔵も悔いていた。何も出来ない、己が無力を。 三蔵の中で、八戒の言葉が甦る。 八戒はこのまま悟浄が目覚めるまで時間をくれと、そう言ったのだ。 三蔵はそれを飲んだ。飲まざるを得なかった。 「おい、そこにいるんだろ?悪趣味ババァ」 低い声で搾り出すように三蔵が問えば、背後から数名の人影が現われる。 「相変わらず可愛げのねぇ口聞きやがるなぁ」 皮肉げに口端を歪めているのは、観世音菩薩。その直ぐ脇には二郎神までもが控えている。 「もう、お別れは済んだのか?」 観世音菩薩はにやりと笑うと、三蔵にそう問うた。 三蔵はそれに答えずに、背筋を伸ばして睨み返す。 「結界を、頼む」 それが八戒の、最期の頼み。 彼らほどの妖力を完全に抑える結界は、人間には布く事ができない。 だからこそ、八戒は三蔵に頼んだのだ。 唐亜玄奘三蔵法師。神に最も近いとされる、人物に。 その願いを受けて、三蔵は三仏神へと奏上した。 観世音菩薩自らが降臨したのは、予想外だったが・・・。いや、ある意味必然だったのかもしれない。 「おい」 観世音菩薩が軽く手を挙げると、目礼した二郎神が配下の者を連れて消える。 ここからは見えずとも、三蔵には彼らがどこに散ったのかが判った。 悟浄と八戒の住むあの家を中心とし、その周囲の森全てを取り囲むように神将達が配置される。その数、十六。 八方位陣を二重に掛ける、異例の結界であった。 一の陣は外部からの侵入を防ぐ為に。二の陣は結界内の時間の流れを変える為に。 2人の妖怪の為に、これほどの神将が動く事も異例であれば、結界の内容自体も異例である。 神将達が光点となり、薄いヴェールを引くように結界が張られていく様を、三蔵と悟空は眺めていた。 森は霧に包まれ、いつしか2人の家が隠れて消えた。 「なぁ、三蔵・・・」 「あぁ?」 「また、悟浄と八戒に・・・会えるかなぁ」 「会えるんじゃねぇのか?」 「・・・そっか」 (お前は会えるだろうさ。悟空・・・) 人間としての寿命しか持たない自分は、あの緩やかな時間の中で生きる奴らに再びまみえる事はないだろうが。 (案外つまんねぇもんだな、人間も・・・) 三蔵は袂に手を入れると、煙草を取り出して咥えた。 紫煙を燻らせれば、霞む視界も煙草のせいにしてしまえる。 「おい、ババァ。あいつの目が覚めたら、この結界は解けるんだろうな」 ぞんざいな言葉遣いに菩薩の眉が跳ね上がるが、それ以上は何も言わずに応えを返す。 「あぁ。アイツが目覚めたらな」 「・・・目覚めなかった場合は、どうなる?」 それだけが、三蔵の気がかりだった。 だが、菩薩の答えも簡単だった。 「緩やかとは言え、あの中でも時間は流れる。結界に守られたまま、いつしか朽ち果てるだろうさ」 それは世界が終るほどに長い時間だろうが。 この世界が無くなるのが先か、あいつらがこの結界を壊すのが先か。 そう言って菩薩は笑った。 最早神でさえ干渉できない世界に閉じ込められた、この世でただ2人の妖怪。 己で望んだ事とはいえ、お前は本当にそれで良かったのか? 身の内で問おうとも、それに答える声はない。 「恩に着る」 三蔵はそれだけ告げると踵を返し、歩き出した。 この身は人の身なれど、“三蔵法師”という称号を持つ以上出来る事がある。 名など何の役にもたたないと思っていたが、無いよりはマシだったことに、三蔵は口角を上げた。 唐の都、長安より八拾里。唐代最高僧・三十一代目唐亜玄奘三蔵法師の名の下に、封印された地があった。 霧に隠され何人たりとも立ち入る事を許されぬその地には、三蔵法師の法力により調伏された大妖怪が封ぜられているとも・・・至宝が護られているともいわれた。その真相を知るものは無く、ただ一帖、当の三蔵法師の手記にのみ残された言葉が手掛かりだった。 そに曰く、封印結界の内には只一輪、氷の華あり。群民、神人と言えどもそに触れる事あたわず。約定なればこそ、何人たりとも侵す事無かれ。 |
† BACK †