目を閉じれば見える、アナタの姿は・・・ホンモノですか?


―氷の華―
case3





 甘やかな吐息と濡れた感触。
 素肌を這う、冷ややかな手と舌に背筋が粟立つ。
 眼下に揺れるは血色の髪。
 それをぼんやりと眺めながら、八戒はふと思う。
 僕が愛しいと思っていた彼の髪は、こんな色をしていただろうか。
 目に映る、指先や背筋。
 姿形は確かに彼のものなのに、不可思議なまでに彼だという認識が出来ない。
 その所以は判っている。
 仕種。
 ただそれだけが、目の前の人物を悟浄と違うものにしていた。
 僅かな指の運びや、筋肉の動き。
 紡ぎ出される声やそのスタンス。
 そんな些細なものが八戒の知る悟浄とは違っている。
 そして何よりも、今の彼に宿る精神が・・・
「悟浄、どうしたの?」
 彼ではありえなかった。


 解離性同一性障害。俗に多重人格障害と言われているそれが、今の悟浄には一番当て嵌まる言葉だった。
 一般的には12歳以前、多くは5歳以前の虐待体験によって発症することが多く、2つ又はそれ以上の同一性或いは人格状態が確認される。
 医学的に定義されたその言葉を知っていても、八戒も実際に見るのは初めてだった。
 ただ、何かが引っ掛かる。
 八戒の知る、主人格の悟浄。
 幼児退行の結果かと思われた、幼年期の悟浄。
 そして目の前にいる・・・彼の義母と名乗る女性人格。
 八戒の目に曝されたカードはその3枚。
 しかし、幼い悟浄が畏れていたのはその義母ではなかったか。
 彼女は悟浄を愛していると言う。
 ならば何故、幼い悟浄は救われない?
 愛されることに飢えた子供なら、彼女の存在は安寧と・・・幼年人格の消失に繋がる筈だ。
 しかし子供は依然として、怯えたまま扉を見詰める。
 そして何故彼女は、自分を『悟浄』と呼ぶのか。
 愛する子供の名を呼びながら、肉欲に溺れる女。それは本当に義母なのか。
 或いは・・・悟浄の作り出した人格ではなく、本当の義母なのかもしれない。
 彼女は悟浄を男として愛している。今もこの身体を貪る様に。
 そう、何もかもが足りない。
 バラバラのピースを寄せ集めたような現実に、八戒は眩暈を覚える。
 絶対的に判断材料が足りないのだ。
 八戒は悟浄のことを知らない。
 その事実を突き付けられたような、この状況。
 それでも八戒は、専門家を頼ることを拒んだ。
 三蔵にでも打ち明けてしまえば、彼は長安でも屈指の医者を紹介してくれるだろう。
 それだけの人脈と権威が、彼にはある。
 だが、医者に見せたからといってどうなる?
 悟浄は禁忌の子だ。
 一般には広く知られていないとはいえ、知識階級の人間には一目で判ってしまう。
 禁忌の子の絶対数自体は少ない。そして禁忌であるが故に、生き延びている個体も然り。
 珍しい成人個体である悟浄を、彼等が実験材料として扱わない保証がどこにある。
 最高僧である玄奘三蔵法師の厳命だとて、人間はそう簡単に割り切れるものではない。
 表向きには丁重に扱われようとも、彼を好奇の目に曝すことだけはしたくない。ましてや今の悟浄の状態では、更なる精神崩壊を招く危険性もある。最悪の場合、死に至るだろう。
 死・・・それすらも悟浄の意志の元には行われないかもしれない。
 彼等は都合のいい言葉で周囲を丸め込み、悟浄を始めからなかったものとして処理する事すら出来る。
 名前すら取り上げられた禁忌の子は、膨大な実験データの為のモルモットとして死ぬことすら許されない世界に閉じ込められる。
 そういう吐き気がするほどの人間共の狡猾さを、八戒はよく知っていた。
 だからこそ、悟浄をこの手から離す事は出来なかった・・・。


「悟浄?さっきからどうしたの?」
 赤い瞳が見上げて来る。
 淫らに濡れた口唇から、八戒の名が紡がれる事はない。
 彼女にとって、彼女以外の存在は全て“悟浄”なのだから。
「・・・悟浄?」
 無邪気姫のように微笑む悟浄の顔を見て、八戒は眉根を寄せる。
 彼がこんな笑い方をしたことがあっただろうか。
 八戒が知っていると思っていた悟浄の表情でさえ、今は朧気にしか思い出せない。
 それが辛くて、辛いと思う自分が滑稽で、八戒は悟浄の身体を抱き寄せた。
 その肩に顔を埋めれば、包む様に悟浄の両腕が背に回される。
 自分には記憶のない、母の腕とはこんなものだろうかと思いながら、八戒はきつく目を閉じる。
「ねぇ、どうして・・・」
「ん?」
「どうして、小さな悟浄は救われないんでしょうねぇ」
 アナタに愛されているはずなのに。
 呟くような声音で、胸の蟠りを吐き出す。
 なぜこのことがそんなに気に掛かるのか、実際のところ八戒にも判っていなかった。
 だが、それが判れば何か糸口が掴めそうな気がして、八戒は堂々巡りを繰り返す。
「さぁ?」
 女は微笑みながら、その腕の力を強くした。
「ワタシはあの子を愛しているけど、あの子はワタシのことにすら気が付かないんだもの。気付く事すら出来ないのに、愛されないと嘆くなんて、馬鹿馬鹿しいと思わない?」
 謡うような女の声が、八戒の脳裏に警鐘を鳴らす。
「でもワタシは、悟浄を愛しているわ。あの子も、アナタも。だって、ワタシはオカァサンですもの」
 “母だから”悟浄を愛する?
 ならば、やはり、アナタは・・・・・・。
「ねぇ悟浄?アナタはワタシを愛してくれるでしょう?」
 掴みかけた思考を乱す様に、彼女は上体を引いて八戒の顔を覗き込んだ。
 その瞳に宿る奔放な色は、何故だか八戒のよく知る悟浄を思い起こさせて・・・。
「えぇ、アイシテいますよ」
 それ以上の言葉を聞きたくなくて、悟浄の口唇を己のそれで塞いだ。
 肉体はただの獣に成り果てても、冷めた思考の片隅で八戒は繰り返し思う。

 アナタを取り戻す為に手段を選ばない自分を、アナタは許してくれるだろうか。

 月光すら届かぬ人工の森に、女の嘲笑いと獣の慟哭が響き渡った・・・・・・。




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