―氷の華―
case2





 八戒は湯気を立てる皿を載せた盆を片手に、扉をそっと開いた。
「悟浄、起きてますか?」
 覗いた部屋の中は明るい。
 蛍光灯の白々しいまでの明るさが、その部屋を支配していた。
 厚く閉められたカーテンは、日中だと言うのに外界の光を拒絶する。その変わらぬ光量の中に、悟浄はいた。
 ベッドの上で壁に背を預け、膝を抱えて身体を縮込ませた姿勢で、日がな一日扉を見詰めている。
 まるでそこから現われるものを、畏れる様に。
 いや、事実悟浄は畏れていた。
「悟浄・・・・・・」
 八戒の言葉に、悟浄の肩がぴくりと震える。
 そしてその瞳が自分を捕らえたことに安堵の息を吐きながら、八戒はサイドテーブルへと盆を置いた。
「ポタージュと林檎を持って来たんですよ。少しで良いから、食べましょう?」
 なるべく穏やかに、はっきりとした発音で八戒は悟浄に語りかける。
 それがこの十数時間で得た、悟浄の恐怖を呼び起こさぬ唯一の方法であった。
 自分は彼が恐れる人ではない。
 それを認識させる為の光であり、声であった。
「母さん・・・は?」
 ぽつりと、呟く様に悟浄が訊く。
「出掛けていますよ」
 八戒は何度繰り返したか知れない言葉を、慎重に告げる。
「そう・・・」
 そうしてやっと、悟浄は肩の力を抜き、抱えた膝から手を離すのだった。


 あの日。
 悟浄が突如恐慌状態に陥った、あの夜。
 ただ、何も出来ずに見守る八戒の前で、悟浄は気を失う様にして倒れた。
 そして見守る八戒の前で再びその目を開いた時、悟浄は知らぬ者を見るような目で、八戒に問うたのだ。
『アンタ、誰?』と。
 愕然とする心の外で、八戒はこの状況を彼なりに位置付けようとした。
 まずは悟浄が畏れるもの。
 それは彼が口にした通り、彼の兄が殺したという義母のことであろう。いくら悟浄のことを知らぬとは言え、それくらいの事は聞き及んでいた。
 彼の言葉を類推するに、どうやら悟浄の中でその人物は“生きて”いるらしい。
 そして悟浄を“殺しに”くる。
 その義母に対し、悟浄はただ、許しを乞う。
 涙に濡れながら『コロサナイデ』と呟き願う。
 抵抗も何も出来ない・・・ただの子供の様に。
(あぁ・・・)
 そこまで考えて、八戒は漸く思い当たる。
(≪幼児退行≫だ)
 記憶の混乱などという生易しいものでもなく、悟浄の精神は彼の義母が殺される寸前まで完全に遡っている。
 それは僅かながらも悟浄の言動に発現していた。
 彼の彼らしからぬ言動・・・拙い言葉や、持て余し気味にしながらも身体を小さく丸めて怯えている。そんな悟浄の姿をこれまで八戒は見た事がなかった。
 既視感はある。
 その昔身を寄せていた孤児院で、同じ目をした子供を見たことがあった。
 そう、今の悟浄の行動は、幼い子供のそれと似通っているのだ。
 何が引き金となったのかは判らない。
 元々悟浄の精神が揺らいでいたのは事実だし、認めたくはないが昨夜自分が触れたことが決定打になったのかもしれない。
 認めたくはないが・・・この現実から目を逸らす事は許されなかった。


「悟浄はお母さんが苦手ですか?」
 努めて冷静に、柔らかい言葉を選んで核心に触れる。八戒の話し方はカウンセラーのそれに近い。
 幼児退行の原因は精神的過負荷によるものが多い。ならばそれを軽減することによって元の悟浄に戻すことは可能なはずである。
 本来ならば専門家に任せたほうが良いのだろうが、八戒は敢えてその考えを排除した。その思いは自負であり自尊であり・・・後に思えば傲慢でしかなかった。
 それでも八戒は、悟浄を他人の手に渡したくなかったのだ。
「母さん?苦手・・・じゃ、ないよ」
 カシリと林檎を噛み砕きながら、悟浄が答える。
「母さんは綺麗で優しくて・・・行き場所のない俺をこの家で育ててくれた。俺はこんなで・・・母さんの側じゃないと、生きていけないから」
 だから、母さんには感謝している。
 悟浄は林檎の欠片を飲み下すと、そのまま俯いた。
「なら何故・・・」
「でもさ」
 先を急ぐ八戒を遮る様に、悟浄の言葉が続く。
「母さんは、時々辛そうなんだ。俺を見るときに、すごく痛そうな目をして・・・泣くんだ。この目も、髪の色も・・・罪のカタマリだから。だから、母さんは・・・俺ごと、罪を消そうとして・・・・・・」
 パタリパタリとシーツに大粒の染みが出来、俯く悟浄の肩が震える。
「俺は、母さんと一緒にいたいだけなのに・・・」
 最早掛ける言葉もなく、八戒は悟浄を抱き締めた。
 その腕の中で、漏れる嗚咽を抑えながら、悟浄は呟く。
 ゴメンナサイ、ゴメンナサイ。こんな姿で産まれて来た、俺を許して。母サン、俺ヲ・・・・・・
「悟浄・・・」
「俺ヲ、コロサナイデ・・・・・・」
 ひゅう、と悟浄の咽喉が鳴り、その身体がビクリと弾けた。
(拙い!)
「あ・・・あ・・・・・・母さん、イヤ・・・イヤだ!母さん、母さんっ!ユルシテ、母サンっ!!」
「悟浄っ!」
 突如恐慌状態に陥り、暴れ出す悟浄を八戒は力尽くで抑えこむ。
「悟浄っ!大丈夫だから!貴方のお母さんは、ここにはいないから!!」
 必死に抱き締める八戒の腕の中で悟浄はもがき、その爪が互いの身体に傷を付ける。
 掠めた指先がモノクルを弾き朱の線を頬に引いても、八戒はその腕の力を緩めようともせずに悟浄に言い聞かせた。
「悟浄、悟浄・・・あなたを傷付ける者は、ここにはいないから・・・」
 万感の思いを込めて、八戒は悟浄の名を呼ぶ。
 これほどまでに真摯に願った事はないというくらいに、彼の知る悟浄が戻ってくる事を祈る。
「悟浄・・・・・・」
 そしてその祈りが通じたのか、悟浄の身体は次第に力を失い、八戒の腕の中へ倒れた。
 こうして目を閉じてしまうと今までとまるで変わらない悟浄の肉体に宿る、幼い精神。
 今になって何故、彼がここまで苦しまなければならないのか。
 八戒はきつく眉根を寄せ、その背をゆっくりと撫ぜた。
 少しでも彼が、安らぐ事が出来ればいいと・・・。

 どれだけの時間、そうしていたのだろうか。
 不意に悟浄の肩がぴくりと揺れた。
「バカみたい・・・」
「悟浄?」
 その声に今までとは違う響きを感じ、八戒は驚きと期待を込めて、悟浄の名を呼んだ。
 だが、悟浄はそれに応えるでもなく、もう一度呟く。
「ホント、バカみたい・・・・・・こんなに愛しているのに」
「・・・悟浄?」
(違う)
 八戒が感じたのは、違和感だった。
 悟浄の声はこんなだったろうか。
 僕が好きだと思っていた、悟浄の声は・・・・・
「っ!」
 するりと肩に廻された手の残像に目を奪われた次の瞬間、己の口唇に触れたものに、八戒は目を見開いた。
 それを愉しそうに見遣り、悟浄は目を細めて言った。
「それに、酷い人だわ。私はここにいるのに。こんなにアナタを愛しているのに・・・・・・」
 朱唇が引き攣り、嘲笑いの形をとる。
「ネェ、“悟浄”?」


 総毛立つ八戒を余所に、女の嘲笑いが谺する。
 ノイズしか聞こえなくなった聴覚を不思議にも思わずに、八戒は呆然と悟浄を抱き締めていた。





――― ネェ、コノ悪夢ハ、イツニナッタラ終ルノ? ―――




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