・・・母さん、お願い・・・・・・俺を・・・・・・

コロサナイデ




―氷の華―



 八戒が悟浄の異常に気が付いたのは、本当に偶然だった。
 夜中にふと目を覚ますと、上半身を起こした悟浄が窓の外を眺めている。
 最初はそんなものだった。
 八戒も始めは気にしなかった。
 そんなこともあるのだろうと、ただ彼の邪魔をしないように声も掛けずに再び眠りにつく。
 自分も彼も、触れられたくない場所がある。
 それを侵すような行為は、まだ許されていなかった。


「・・・悟浄?」
 だから、声を掛けたのも偶然。
 いや、それは言い訳だ。
 この数週間、八戒が目を覚ますと必ずと言って良いほど悟浄は窓の外を見ていた。
 基本的に八戒が夜中に目を覚ますこと自体はそう多くない。
 気配には敏感だが、町からも遠く滅多に人の訪れる事のないこの家では2人以外の気配を感じる事は稀だ。
 それなのに。
 偶然がそう重なる事はない。ましてや八戒が目を覚ます時に限って、悟浄が起きているなどと言う事は。
 ならば導き出される推論は、ただ一つ。
 悟浄は深夜必ず窓を見る。
 いや、窓ではなく・・・その先にある、中空に浮かんだ月を。
「悟浄?」
 呼び掛けても悟浄は応えない。
 ただ瞳に月を映し、月が沈むと糸が切れたように眠りにつく。
 八戒がそれを見届けたのは、これが3度目だった。


 朝の爽やかな光の中、コーヒーの香ばしい匂いが胃の腑を刺激する。
 いつしか慣れた光景に、悟浄は落ち掛かる前髪を掻きあげつつ食堂の椅子を引いた。
「朝食はどうします?」
 コーヒーで充たカップを置きながら、八戒はいつものセリフを口にする。
 あと1時間で昼時だ。
 それを判っていながら、あてつけの様に毎朝八戒はこう聞くのだ。
 対する悟浄の言葉も、同じ。
「ん〜。昼まで待つ〜」
 綺麗に洗われた灰皿を引き寄せ、手馴れた仕草でジッポを弾く。
 悟浄の様子に変わりはない。
「昨日はよく、眠れました?」
 何気ない風を装い、八戒は慎重に言葉を選んだ。
 杞憂ならばそれでよい。
「あ?なんで?」
「僕、夜中に目が覚めちゃったものですから。もしかしたら悟浄の安眠妨害しちゃったんじゃないかな〜と、気になりまして」
 口調だけは軽く、しかし探るような言葉に悟浄は気付かない。
「そんなん、気にするなよ。大体一度寝ちまったらそうそう起きねぇって。も〜、昨日も朝までぐっすり」
「それなら良かったです」
 表面上だけは笑顔を作り、八戒の心は暗く陰る。
 やはり悟浄は自覚していない。
 悟浄は自分が月を見ていることを、知らない。
 ならばそれを告げるのは上策でないと、八戒は結論付ける。
 彼の心の均衡を保っているのがあの行為ならば、それを壊すのは彼を失うことに繋がる。
 それを為せるほど、八戒は無知でも傲慢でもなかった。
 そして悟浄のことを・・・知らなかった。



 夜が来る。
 凍てついた月が姿を現し、無慈悲な光を部屋の中まで届かせた。
 そして悟浄は空を見る。
 月が満ちる。
 悟浄の頬を、月光が青白く照らす。
 その横顔を、八戒は黙って見詰めていた。
 何者をも拒絶するその横顔は、時間の流れの外にあるようだった。
 音のない世界。モノクロームの視界。
 凍てついた世界で、ただ1枚の絵の如く、悟浄の瞳は月に支配されていた。
 そして魅入られたように、八戒はその姿から目を離す事が出来なかった。
 しかしてその静寂を破ったのも、悟浄だった。
 月光が凝縮したような、酷く透明な雫がその頬を滑り落ちたのだ。
 そして悟浄の唇が、震える。
 音のない声が、月光に溶ける。
 その様に、囚われたのは、八戒。
 静かに落ちる涙を、止めたいと思った。
 胸の痛くなる光景に、癒したいとさえ思った。
 その心のままに、八戒の身体は悟浄の元へと動こうとした。
キシリ
 僅かな体重移動にベッドが軋んだ音を立てる。
 その音に肩を震わせ、緩慢な動作で悟浄は首を巡らせた。
「悟浄・・・泣かないで下さい・・・」
 誘われるように、八戒は悟浄の頬へ手を伸ばす。
 涙の訳を知りたい。
 彼を苦しめるものを取り除きたい。
 それが叶わなくとも、今はただ彼の涙を拭いたい。
 その思いを込めた指先が、悟浄の頬へ触れた、その時だった。
「ひっ・・・・・・あ、あぁああ・・・」
「悟浄?」
 大仰なまでに身体を竦めた悟浄が、八戒から逃げるようにズリズリと後退する。
 あからさまに怯えた表情で、悟浄は八戒から目を離さずに、壁へと背を押し付けた。
「イヤ・・・あぁぁ・・・イヤ、だ・・・・・・」
 大きく見開かれた目から、とめどなく涙が零れる。
 焦点さえ覚束ないその視線は、八戒の後ろを凝視していた。
「悟浄?!どうしたんですか、悟浄!」
 尋常でない悟浄の様子に、八戒は無意識にその腕を掴んだ。
「ひぃっ!」
 悟浄は総毛立つような悲鳴を上げ、掴まれた腕を振り払えずに全身を硬直させる。
「悟浄・・・」
「ヤだ・・・ごめんなさい・・・許して・・・お願い、だから・・・許して・・・・・・」
 何に対して許しを請うのか。
 唖然として見詰める八戒の前で、悟浄はうわ言のように呟く。
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ユルシテ・・・・・・俺ヲ・・・」
 その瞬間に八戒は悟った。
「母サン、俺ヲ・・・・・・コロサナイデ」
 自分の犯した、過ちを。

 それほどまでに八戒は・・・悟浄のことを、知らなかった。




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