夕陽
こぶた著

  夕陽が世界を朱に染め上げる。 空を、森を、街を、そして隣りに立つ兄を。
「綺麗だな」
  兄が唐突に呟いた。

  昼間、父親と喧嘩をした。 理由はささいなことだった。 けれど父も自分も互いに一歩も譲らず、あわや殴り合いになりそうなところで、兄が仲裁に入った。
  父親をなだめて、それから兄は自分を連れてこの町外れまでやって来た。 それから今まで、何度話し掛けても答えなかった兄が、ようやく口を開いた。

  夕陽は美しかった。 今日の夕陽は特に。
  けれどそんなこと、今何の関係があるというのだろう。
  もしかして。
「沈むから綺麗だとか、そういうことなら聞きたくない」
  そんな凡百陳腐な台詞なら、聞きたくない。
  兄はこちらにちらとも視線を向けず、ただ微かに笑ったようだった。
「何だよ」
「綺麗なものは綺麗だろう。 わざわざ理由をつけなくても」
  笑って、それから兄は前髪をかきあげた。
「嫌なら、家を出ればいい」
  突き放すように、兄は言った。

  生まれた時から、ずっとこの家が嫌いだった。
  使命だか呪いだか知らないけれど、誕生した瞬間から生き方を決められて。 冗談じゃない。
「家を出たい訳じゃない。 俺だって朱点は倒したい」
  だからって、納得できる訳でもない。
  ただ。
「選びたかったんだ。自分の生き方くらい、自分で」
  自分で自由に選択したかった。 自分の意志で、朱点打倒を決めたかった。 流されるままではなく。
  自分で、自由に。
「自由の定義なんて、人それぞれだろ」
  そう言いきれる兄は、次期当主だからだ。 この一族の全てと奥義を受け継ぐ、ただ一人。
  自分は、そうではない。
  一族の悲願の為に戦い、死んでいくだけの……。
「生まれた時に、か」
  溜め息が聞こえた。
  見上げたが、夕陽が眩しくて、兄の表情がよく見えない。
「生まれた時から、周りの皆が戦っていた。 皆が死んでいった。 どうなんだろうな、こういうの。 皆2年も生きられずに死んでいく。 呪いのせいで、普通の人生なんて望めやしない」
  けれど、と兄は言葉を続けた。
「けれど、呪いを解く為に戦っている訳じゃない。 朱点打倒を決めたのは、一族の宿命だからじゃない。 俺は自分で決めた。 お前が言うところの、自由に、だ」
「自由に、なんて」
  そんなこと、出来やしない。 この家に生まれてしまったことが、全てを決定した。
「人生における選択肢なんて、誰だってそんなに多くはないさ。 侍の子は侍に、商人の子は商人に、農民の子は農民に。 そうだろう?」
「それは、そうだけど」
「その生き方しかないんだと諦めることは出来るさ。 けど、生まれてきたことすら自分で選んだものだと、そうも思えないか?」
  ……そんなこと思えるはずもない。 覚えていない。 そもそも意識なんてあるのだろうか。 この世に誕生する、その前に。
  あるはずもない。 そんなもの。
「兄上は、楽天家だな」
  その呟きは、本当に皮肉足り得たのだろうか。
  兄の表情はやはり変わらなかった。
  夕陽が沈んでいく。 消え去るものは美しく、そして儚い。
「今日の夕陽は見事だな」
  最初の台詞が、また繰り返された。 答えず、ただ頷く。
「昨日の夕陽を、お前は覚えているか?」
「いや。 見ていない」
「おとついは?」
「……見たような気がする。 けど、いちいち覚えていない」
「そうさ。 そんなものだ。 どんな綺麗な夕陽だって、記憶の中でいつまでも留まってはくれない。 俺が、もう祖父の死に顔を覚えていないように」
  弾かれたように、兄を凝視した。 まさか、この兄に限って、そんな薄情ともとれる台詞を口にするなんて思いもしなかった。
  兄は薄く笑ったようだった。 辺りはもう夜の帳が下りかけていて、よく見えない。
「今の際の言葉も、もう忘れた。 多分、父上のも忘れるだろう。 その前に、俺が死ぬかもしれないが」
「兄上……」
「ただ、祖父の目指したものは忘れていない。 祖父の心は、忘れていない。 それだけで、戦う理由は充分だろう?」
  そんなものなのだろうか。 分からない。
「お前も、俺が死んだら俺のことなんか忘れていい。 言葉も、顔も」
「そんなの、俺の勝手だろ」
  忘れやしない。 忘れたくはない。 けれどいつか記憶なんて、風化して美化されて、消えていくものなんだろう。 それはひどく切ない。
「俺は、祖父のことはもうよく覚えていない。 でもな、俺が祖父を尊敬していたことは、忘れないよ」
  兄は微笑んだようだった。 夜の闇に隠された笑顔を、けれど綺麗だと思った。 見えもしないのに。
「祖父を尊敬している。 父上もな。 それが、俺が戦う理由だよ」
  くだらないと笑い飛ばしたい。 できれば、それが多分、家からの開放だ。 けれど、出来ない。
  その気持ちは、少しだけ理解できるから。
「存在そのものが消え去り、記憶からも無くなっても、残るものはあるさ」
「そうだと、いいな」
  この命が無為に失われることになったとしても。
  何の意味も残せなくても。
  子どもたちの心を形作る、何かになれたら。
  それで、いいかもしれない。
  これが、自由か。
  伝えたいと、残したいと。
  架け橋に、踏み台になろうと。
  自分でそう、決意できる。
「帰ろうか、兄上」
「ああ」
  無為に果てる命でも。
  それでいいと思えるなら。
  何かは、伝わっていくのだろう。
  自分で決めた、生き方ならば。

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あとがき
  CMに触発されて書きました。えへへ。
  話に整合性がないぜーとか、こんな設定あるかーとかいうつっこみは、なしね。
  何も知らないから書ける話と言うことで。