月夜の宴〜漣丸の章

久志様

  手応えのない奴等だ。
 振りぬいた薙刀をもう一振、鬼の血に染まった刀身から赤い糸が引いた。後にはもう全身が崩れ、消え去ってゆく鬼の屍があるだけだった。
 戦いは早々に終り、戦利品をまとめそれぞれの傷を癒している母と叔父の姿が視界に映った。女だてらに薙刀を振るい当主として一族を率いている母、自分の目標であり戦いの何たるかを師事してくれたのも母だ。肉親としての情よりも敬うべき師と思ってきた。最もそれを表に出すことはないが。
 秋の相翼院。既に暑さは遠のき、心なしか肌寒さを覚える。
 水面はひたりと静まりかえり物の怪の気配も今は絶たれている。夏はあれほど騒がしかった虫や鳥達も息を潜めていて、夏の生き生きとした派手やかさとは一変して、物悲しいような侘しさを感じる。

「漣丸、お前怪我はないか?」
「このとおり、それより母上の方こそお先にお若くないのですから」
「そうはいかないよ、見せてみな」
 冗談めかした言葉を気にもとめず、袖を引いた。左二の腕に負ったわずかな手傷を見てとり、すぐさま治癒の術を術を施す。
「これでいい、まだ相翼院は奥深い。無駄な戦いをするもんじゃないよ」
「これほどの怪我、術を使うまでもないでしょうに。それよりも戦術のためにもっと温存すべきでしょう」
 俺の言葉に、母が眉を釣り上げた。
「馬鹿をお言いでないよ、お前は手傷の恐ろしさを知らないね。手傷を負えば命の源の血が流れる、わずかな痛みでもそれが戦での集中を欠くのさ。戦いの為に術を温存したところでどうなる、戦いとは常に万全の体制で赴かなくちゃいけないんだ、手傷を放って戦に負けたらそれこそ無駄だよ」
 またはじまった。母上のこれがはじまるといつも長い。
「母上、わかっております。俺だって無理を押して戦おうとは思いませんし、何より戦いでの集中の大切さは身に染みてわかっているつもりです」
「わかっちゃいないさ、態度だけわかった振りをしていても、お前は本質をちゃんと理解していないよ」
 かなわんな、そうでなくても厳しい母がこうなってしまうともうお手上げだ。一時間はこれが続くのを覚悟しなくてはいけない。俺に次期当主としての心構えを説いてくれるのはありがたいことなのだが、毎回こうだとさすがに嫌気がさしてくる。
「…忍、今は出撃の任の途中だ、これはまたの折に」
 さすがに思い余ったのか、叔父にあたる鞍馬殿が助け船を出してくれた。
「ああ、すまないね鞍馬。あたしもちょっと頭に血が上っちまって」
 取り直して、改めて薙刀を握り直す。
「漣丸…あたしの言葉忘れるんじゃないよ。鞍馬、沙夜梨、行くよ」
 振り向いて一同に喝をいれるその顔は当主としての威厳と力強さに溢れていた。

 当主として…戦に勝ち、一族を率い、そのまとめを行う。
 それは、何よりも一族を…仲間を思う事。

 改めて、その言葉を噛み締める事になったのは、すぐだった。
 あの時、振り向いた母。その顔だけが記憶に鮮明に焼き付いている。

 大勢の敵を蹴散らし、鬼の返り血に身を濡らし、武神のごとく薙刀を繰りながら相翼院を駆け抜けていった母。しかしその身体はとうに盛りを過ぎ、わずかな時間を残すのみだったということに気付いたのは、母が儚くなった後のことだった…

 糸を引くように流れる雲が月を横切ってゆく。
 あたりは月以外照らすものなく、薄青い景色の中、庭先に並べられた敷石がやけに白く光って見えた。縁側に一人座り、傍らにはイツ花の目をかすめて持ち出した徳利がぽつんと置かれている。お世辞にも広いとは言えない庭、昼間は洗濯物であふれて、よく晴れた日などはイツ花は大喜びで布団干しを
しているのが微笑ましかった。庭の隅に生い茂った草むらから切れ切れに虫
の鳴く声が聞こえてくる。
 ひとひら、酒を口に運ぶ。飲みなれない酒が喉をやく。
「送り酒…か」
 母の最後の言葉を反芻させる。

『あの世で…神様と一杯やってるよ、お前達の祝杯をね』

 まったく気丈だった母上らしい。
 猪口の中の酒はちっとも減っていない。母は大の酒好きで、出撃から戻った日にはよく鞍馬殿を相手に縁側で静かに酒を飲んでいたのを覚えている。
  この酒は母への送り酒であり、当主としての誓いの杯…他の誰でもなく俺自身に誓うために。
 ひとひら、酒を口に運ぶ。中身はちっとも減っていない。
 猪口にまだ半分以上残っている酒、ぼんやりと半欠けの月が写っている。

 俺は当主に足るべき者だろうか?

「連丸、まだ寝ていなかったのか?」
 廊下の奥より声がする。程なくざんばらな青髪に夜着姿の鞍馬殿が呆れたようにこちらに歩いてくる。
「はは、さすが鞍馬殿。酒の香には敏感でいらっしゃる」
 いつもの軽口にわずかに鞍馬殿が苦笑し、傍らに腰を下ろした。
「やれやれ、お前にも俺と静花と同じく、呑み助の血が流れてるようだな」
「ご冗談を、俺は猪口一杯も干せない下戸ですよ」
「俺も飲みはじめた頃は、ろくに猪口一杯も飲みきれなかったさ」
「玖珂のうわばみともあるまじきお言葉で」
「……静花を送る酒か?」
 静花、当主として名を継ぐ前の母の名だという。俺が生まれた時には既に母は当主であり、代々当主の名である『忍』と呼ばれていた。鞍馬殿のいう名になんとなく違和感を感じずにはいられなかった。母は己のものでない名をどう思っていたのだろう?
「手のかかる息子でしたから…せめて送る時ぐらいはちゃんと送り出してやろうと思いまして。鞍馬殿も一杯いかがです?」
「もらおうか」
 余分に持ってきておいて丁度良かった、もう一つの猪口を渡し静かに酒を注ぐ。
「おっと、と」
 少しまわっているのだろうか?少々手元が危なくなっている。危うくあふれそうになった猪口を慌てて口で出迎えている。
「おいおい、もうまわっているのか?」
 鞍馬殿はおかしそうに忍び笑いを浮かべながら手元の杯を傾ける。くいっと一息で飲み干している。こんな焼けるようなものをよく水のように飲めるものだ。
「……鞍馬殿」
「なんだ」
 こちらを振り向かず、静かな答えが返ってくる。
「鞍馬殿、正直に答えてもらえないか。俺は……鞍馬殿の目から見て、一族の当主たるべき人間として相応しいだろうか?」
「なぜ、そんな事を聞く?」
 視線はこちらへ向かないまま、徳利を取り上げ手酌で二杯目をあおる。
「俺のように、戦いの何たるかを知らない若輩者が当主になって、他の皆はついてきてくれるだろうか?俺が当主となったのは、ただ母の優れた血を引いているだけなのではなかろうか…と」
 手にした杯をあおろうとして、やめる。飲めば逃げる、何故かそう思った。
俺が当主として選ばれることは、俺が生まれる前から既に決まっていたことだということを聞いた事がある。
「お前はそう思っているのか?」
「……いや」
 そんな風に思いたくはなかった。
「静花もそうだったよ…」
 溜息まじりかか苦笑まじりか、鞍馬殿そうつぶやくと、猪口をおき庭に下り立った。
「漣丸、信頼とはな…己で掴むものだ」
 背を向け、空を見上げたままで静かに口を開いた。
「己を、仲間を信じて動くのだ、己の力を見せることだ、信頼はそこから生まれる。何よりも行動し仲間の道標となることが当主の証だ。それさえ忘れなければ皆お前についてきてくれるさ、でなければたとえ決められたこととはいえ、誰もお前を当主になどと言わないさ」
「鞍馬殿…」
 視線を落とす、手にした猪口はあいかわらず月を映し出している。そのまま静かに傍らに杯を置いた。
 もう迷いはなかった。
「ありがとうございます、鞍馬殿」
「礼にはおよばんさ。それよりもう寝たほうがいい、明日は新当主の初の仕事だろう。二日酔いでは様にならんぞ」
「はい」
 当主として…それはみは時に重かろう、しかし…
 信頼は己で掴め、仲間の道標となれ。鞍馬殿の言葉が反芻する。
「この玖珂漣丸……当主として、みごと一族を率いてみせますよ。若さが売りですからね」
「口の減らないガキだ」
 二つの笑い声か重なった。

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