風がさやさやと吹いていた。
幾度目かの試合に優勝した折、拡張した屋敷の庭に庭園を作らせたのは先々代だ。外の庭は日本庭園風に整えられており、たまにイツ花が手入れをしているようだ。何本か植えられている木々の葉を揺らして、4月の風が通り過ぎていく。
外を通る風が音を立てるのを、10代目当主「秋津島 要」は正座してただ静かに聞いていた。
そのすぐ側には1人の男が横たわっている。蒼白な顔色はもともと血の気が多くない顔をますます人形のように見せている。
「榛名」
名を呼ばれてはっとしたように顔を上げた。初代当主の芳名を継いだ時から、誰も呼ばなくなった名を男は当たり前のように呼ぶ。
「なに? 天王」
「過分な名をいただいたがばかりにこうなったのかな」
天の王、だなどととふざけた名だと男?天王は苦笑する。
「そんなことない。そんなことないよ」
そう言ってみても、それが気安めに過ぎないことは榛名にもよく分かっている。
天王は寿命が近いのだ。日に日に痩せ衰えていく姿を見ているのはつらい。いつかたどる道なのだと、頭で理解していても感情はそう簡単に納得してくれないのだ。
「なぁ、榛名」
「どうしたの?」
少しぼーっとしてしまって目の端に涙がにじみそうになったが、榛名は慌てて着物の裾でそれを拭うと天王に微笑みかけた。
天王は蒼い目を見開いて天井を見つめている。
「外、桜は咲いているか?」
「ああ……咲いてるよ。もう、満開だね。散り始めてる」
「桜が見たいな。外に、連れていってくれないか」
その言葉に榛名は躊躇した。今、ここで天王を動かすことは得策と思えない。
「ちょっと待ってて。神栖に聞いてみるから」
「大丈夫。俺が駄々をこねたと知れば、あいつも怒らんさ」
神栖は天王の娘だ。太照天昼子様より授かった次期当主候補でもある。
「でも…」
「少しは俺を信用しろよな。ほら、見てみろ」
上体を起こして首をこきこきと鳴らすと榛名に笑いかける。
「まだ、大丈夫さ」
天王の意志が固いことを知った榛名は小さく溜め息をついた。
「しょうのない人ね。夜の外は冷えるのよ。上着を着てちょうだい」
自分も上着を着ると、榛名は天王に肩を貸すようにして外に出るために玄関へとむかうのだった。
榛名が物心ついた時には天王はすでに側にいた。
元々、3代目の当主の息子が双子でそこから枝別れした血縁者だったのだ。歳も近いし、なんとなく兄と妹のような関係だった。血はほとんど繋がっていない。
ずっと、ずっと憧れていた。
その憧れはいつか別の形を取って心の中に存在していた。
(これが恋ってやつなのかな?)
気付いた時にはもう遅かった。元々時間は少ない。だからこそ、どうにかして伝えたいと何度も何度も考えた。
しかし、それと同様に伝えてどうするのか、という不安もあった。
そうして結局、今にいたっているのだ。
「どうかしたか?」
ぼんやりしていた榛名に天王が声をかける。元々小柄な榛名の体に覆い被さるような形で、天王はやっと歩いているような状態だった。
「ううん、なんでも」
途中まで言いかけて言葉を失った。家の真ん前に立てられた神社の桜が思いのほか満開に咲き誇っていたからだ。
「綺麗だな」
天王は嬉しそうに言った。榛名も知らず顔がほころぶ。
「……やっと、笑ったな」
頭の上から聞こえた言葉に榛名は見上げていた。天王が満面の笑みを浮かべてそこにいる。
「少し、そこで休んでいこうか」
息が上がりかけている天王を気遣って榛名は境内の社の縁側に腰を下ろした。
桜に見とれながら並んで座っていると昔のことが思い起こされる。昔、と言っても1年ほど前になるが、仲良く一緒に祭りに行ったものだ。
「さっき」
「ん?」
「さっき、やっと笑ったって言ったわよね」
榛名は真面目な眼差しで天王を見つめていた。彼はただ降り注ぐ桜の花を見ている。
「ああ。言った」
天王が榛名を見た。その瞳には哀しみがありありと存在していた。
「慣れない当主業務で疲れてたのかな? 最近のお前には笑顔がなかった」
病状の身であって尚、他人を気遣う彼が榛名は好きだった。いつだって、自分より他人を優先する。戦闘の時だってそうだ。自分も傷ついているのに、必ず他の人間から癒しの術をかけていった。
「あなたが、あたしを置いてくから」
それだけ声を絞り出すのが精一杯だった。俯くと涙が頬を伝うのが分かった。でも、拭うことも出来ない。後から、後からとめどなく熱い涙が零れ落ちていく。
「榛名」
少し距離を置いて座っていたはずなのに、天王はすぐ側に移動していた。
寄り添い、榛名の頭を抱え込むように抱き寄せる。
「すまん」
「あなたが謝ることじゃないでしょ?」
「いや、そうでなくて……」
両手で彼女の頬を包み込むようにして上を向かせた。間近に天王の顔があったので榛名は涙に濡れた瞳を見開く。
「お前の気持ちに、気付かない振りをしていたことだ」
言葉をひとつひとつ噛み締めるように天王は言った。
「ずっと、好きだった」
言われた言葉の意味を理解するまでに僅かな時間があった。榛名は泣き笑いの表情で困ったような顔をする。
「嘘、でしょう?」
「嘘じゃない」
「……嘘よ。天王は優しいから、そんなこと言うんだわ」
「ふぅ。……まったく。うちの姫君は強情だな」
溜め息ともつかない息を後ろを向いて吐き出すと、そっと唇を重ねた。羽毛が触れるような、優しい口付け。
「これでも、嘘だと思うか?」
額をこすり付けられて榛名は今度こそ笑った。けれど涙も同時に頬を伝って流れ落ちていく。
「好き」
かすれた声を出す。その言葉に天王が微笑する。
「うん」
肯定の返事を返されて、榛名は目を閉じた。涙はまだ、止まらない。
「好きよ。ずっと、ずっと前から、好きだったの」
「俺も、そうだったよ」
嬉しさと悲しさで榛名の顔はぐちゃぐちゃになった。それを天王が優しく撫でて涙を拭っていく。
「言いたかったが、言えなかった。俺達には大事な使命があったから」
ぎゅっと天王の着物の裾をつかむ。
「すまない。言ってしまったら、お前を傷つけてしまいそうで恐かったんだ」
「ばかね」
泣き笑いのままで榛名が言った。
「あたし達、二人ともばかみたい」
ずっと両思いだったのに、何も言えなかったのだ。今までの心の不安が消されていく。幸せな気持ちだけが心に満ちていく。
「謝らなくていいの。だって、すごく、嬉しいから」
愛する人に愛していると告げられることが、嬉しい。
嬉し泣きだかなんだか分からない涙は次々に零れ落ちていく。
「今、こうしていられるのが、すごくすごく嬉しいの」
頬に添えられた手に自分の指先を重ねる。
「大丈夫。もう、大丈夫だ」
根拠も無くそう言うのは天王の口癖だ。けれど今はその言葉もなんだか妙な説得力を持っていて、榛名はなんとなく安心感を覚える。
満天の星の下で、二人はただそうして互いの存在を確かめ合っていた。
肌を重ねることもなく、手にある温もりだけが全てだった。
それから、二ヶ月が過ぎた。
あれから数日の後、天王は大往生を果たした。安らかに息を引き取る間際、神栖に「好きな女が居る」と言っていたらしい。
その言葉に榛名は苦笑した。
そして、今。六月の雨の降る日。
彼女も今際の際というのに立たされている。側には心配そうなイツ花と次期当主を頼んだ神栖がいた。
「ごめんね」
ただ、なんとなくそう言ってしまった。神栖のその冷たい美貌が一瞬くずれて不思議そうな表情をする。
「何か、謝ることしたんですか?」
「ふふ。そういう訳ではないの」
そして、目を瞑った。外からは雨の音が響くように聞こえる。
「今朝は冷えるね。あたしが逝くまで抱いていてちょうだいな」
神栖が膝枕をするように、そっと榛名の頭を抱いた。そのまま、十代目当主榛名は眠るように帰らぬ人となったのだった。
「榛名」
名を呼ばれて瞼を開く。そこには、天王がいた。霞がかかった風景は以前に桜を見た時と酷似している。一面の春の野原だ。
「もう、大丈夫」
それがどんな意味を持っているのか、榛名にはすぐ理解できた。
ここにはもう、自分と彼の間を邪魔するものは何一つないのだ。
「ずぅっと、一緒にいられるね」
そこは満天の星の下。
微笑みあう男女の仲を妨げるものなど、何一つ無い場所。
夢のように日々が過ぎ行く、
そこは彼らの『無何有の郷』……。
おわり
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