<第二幕 : 姑、襲来>

 
 結局、見知らぬ部屋に一人残された緋虎は何をするでもなく、ただぼーっとしたりゴロゴロしたりとかなり無為な時間を過ごすことになってしまった。
 もっとも、彼の人生の中である意味これほど無駄な時間を過ごせた試しはなく、新鮮な感じで一種のカルチャーショックのような感覚を受けていた。
「緋虎さま」
 と、相も変わらず布団で転がっていた緋虎の元にお雫が戻ってくる。
「あっと……」
 慌てて起きあがると、姿勢を正して正座する緋虎。それを見てお雫がまたクスリと笑う。
「お食事の仕度が出来ましたわ」
 そう言ってお雫は緋虎を誘って廊下を進んでいく。廊下を進む内に、おそらくはお雫の料理のにおいであろう、肉やら魚やらを煮たり焼いたりしているような匂いに緋虎はお腹の虫が鳴るのをこらえるのに一苦労だった。
 もっとも、その苦労は報われずまたもやお雫に笑われてしまったのだが。
「さ、どうぞ」
 笑顔のままのお雫が開いたふすまの先には──
「……」
 緋虎は、絶句して立ちつくしていた。
 目の前に広がる光景が、あまりにも想像していたものとかけ離れていたので思わず放心状態に陥っていたのだ。
「緋虎さま? どうかなさいました?」
「えっ、いや……」
 背中のお雫に声を掛けられ、我に返ったように部屋の中に足を踏み入れる緋虎。その膝は、心なしか小刻みに震えているように見える。
「緋虎さまのために、頑張ってお作りしたんですけど……」
「う、うん……そう……みたいだね」
 頑丈そうな、黒塗りの大きな机の上に所狭しと並べられた皿の量に、緋虎は素直に頷いた。
 緋虎のいる板張りの部屋は、どうやら勝手のある土間の方に直接つながっているのであろう、向こうの方に竈や水瓶なんかが見えている。黒塗りの机は、その部屋のど真ん中に鎮座ましましていた。
「たんと……召し上がって下さいねッ」
 お雫が用意してくれた料理の数々……。
 それは、緋虎の想像を遙かに凌駕していた!
 このときの心境を、緋虎は後世の著書でこう記している。
『いや、あん時は死ぬかと思ったよ。もう死んでるけど』
 曰く、分厚く切った肉のようなモノの鉄板焼き、和風ダレ! ただし、肉は紫色。
 曰く、魚のようなモノの塩焼き! どっからどう見ても立派な足が三本(?)生えているけど。
 曰く、緑の野菜がたっぷり盛られた野菜サラダ! おどり食いなのか、皆元気良く動いている。
 曰く、千枚漬けもどき! キテレツなうめき声が聞こえるのは気のせい?
 曰く、………………。
「おっ……お雫、この食材は……」
 猛烈に襲い来るめまいをこらえながら、緋虎は何とかお雫に尋ねてみる。
「はいッ、み〜んな、この辺りでとれた旬のモノばかりです」
「あ、そう……」
 期待通りの答えに、緋虎の口から乾いた笑いが漏れる。
 見ているとクラクラしそうなので視線を逸らすと、竈の上で火に掛けられている大きな鍋が目に入った。緋虎の視線に気付いたお雫はにこやかに笑いながら、
「あ、お味噌汁です。私の得意料理ですから、期待してて下さいね!」
 引きつった笑顔のままで、緋虎はもうどうにでもなれと腹をくくる。
 箸を手にすると、とりあえず食べ慣れたモノに見える千枚漬けもどきに手を伸ばした。ぴらりと一枚引き剥がすと、目の前で観察する。
 やはり、どう見ても千枚漬けだった。
 これなら行けるかと思った緋虎だったが、何となく気になって裏返してみる。
 すると、千枚漬けとばっちり目が合った。しかも、ダンディーな笑みでニヤリと笑い掛けてくる。
 何も言わずに、緋虎は千枚漬けを元に戻した。聞こえてくるうめき声はあえて意識から遮断しておく。
「どうか……なさいましたか、緋虎さま……?」
 背後から聞こえるお雫の不安げな声に、緋虎の額に浮かぶ汗の量が増した。
 振り返って見ずとも、お雫が自分の作った食事が口に合わないのかと悲しげな顔をしているのは分かる。
 分かる、が──今更ながら緋虎も命が惜しかった。
「緋虎さま……」
 いよいよお雫の声が涙声になってくる。
 今までの人生の中で一番悩み抜いた末、緋虎は震える手で箸を掴み、恐る恐る料理に手を伸ばす。料理を見てしまうと気が萎えるので、目をつむって適当に狙いを付けた。
 闇鍋よろしく箸の先に触れたモノを何とか掴むと、持ち上げ、そして口元へ……。
「あ〜らァ、そんなの食べたらお腹壊すわよ、緋虎ァ」
 突如名前を呼ばれ、緋虎は思わず掴んでいたモノを落としてしまう。それは、落ちる途中にどっかに飛んでいって見えなくなってしまった。
 声のした方に視線を巡らせると、大きな紙包みを手にした女性の姿が飛び込んでくる。これまた、かなりの美女だ。
「えっと……」
 何故に自分の名を知っているのかと尋ねようとした緋虎の言葉を遮るように、美女は悲しそうにため息を付く。
「あらァ、母親の顔を忘れちゃうなんて、薄情な息子ねェ」
「はは……ッ」
「何のご用ですか、陽炎の由良様?」
 よよっ、と泣き崩れる美女・由良に向かってお雫の硬い声が飛んだ。
 いきなり出てきた由良を見るお雫は、あからさまに不機嫌そうな顔をしている。
「見ての通り、母と子の感動のご対面よ。母親が息子に会いに来て何が悪いっていうのかしら」
 そう言って、由良はニヤリと笑う。
「ねェ、お・よ・め・さん?」
「ぐっ……」
 由良の言葉に、お雫が言葉を詰まらせた。それを見た由良は、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「ほほほっ、お義母さんとお呼びなさいッ!」
 わなわなと拳を震わせるお雫に向かってひとしきり笑うと、由良は思いだしたようにいそいそと持ってきた紙包みを開け始めた。
「そうそう、緋虎に食べさせてあげようと思ってさっき作ってきたのよ」
 しっかりと包んでいる包み紙をべりべりと剥がしながら、由良が笑顔で続ける。
「こ〜んな見てくれだけの料理じゃなくて、美味しいわよォ」
 ぴしっ、と妙に甲高い音がお雫のこめかみの辺りから飛んだ。緋虎は由良の「見てくれ」という単語に微妙に疑問を抱きつつその音の発生源に想いを馳せたが、何となく恐いので途中で考えないことにする。
 包みを広げ終えた由良は、、机の上のお雫の料理を押しやって緋虎の前にその紙包みを「でんっ」と置いた。
 その光景に、さらにぴしぴしと音を響かせながらお雫のこめかみがヒクついている。
「さぁ、食べなさい、緋虎」
 目の前にそびえる豚の丸焼き(のような)モノ。あからさまに鼻が三つもあるけど。
 それを目の前にして再び硬直する緋虎。
 しかし当の由良は、そんな緋虎や背後で異様なオーラを発しているお雫などお構いなしにマイペースに話を進めていく。
「しっかし、以外といい男に育ったわねェ。お父さんもいい男だったけどォ……」
 ちょっと遠い目をしながらの由良をジト目でにらみつけるお雫。
「……あっと、のど乾いちゃったからお水もらうわね、およめさん」
 と、由良の言葉にお雫の目がキラリと光った。口元には妖しげな笑みさえ浮かべている。
「どうぞ……お義母さまッ!!」
 お雫の言葉に反応するかのように、土間に置かれた水瓶から飛び出した水流が由良に直撃した。あっという間に全身水浸しになる由良。何が起こったのか理解できずに呆然となっている。
 同じく、お雫の変貌に愕然としている緋虎。
「あらあら、少し量が多かったですかぁ? でも、さすがはお義母さま、水も滴るいい女でいらっしゃいますわ」
 そう言ってコロコロと笑うお雫。
 呆然と突っ立っていた由良だったが、状況が理解できたのか濡れた髪の毛を左手でばしゃりと掻き上げると、
「ありがとう、お雫さん……でも水浴びにはちょぉっと早いから、乾かせてもらっても良いかしら?」
 パチンと右手の指を打ち鳴らした。
 途端、竈から恐ろしい勢いで炎が立ち上り、上に掛かっていた鍋が黒こげになる。
「あぁ〜っ!? 私のお味噌汁がーっ!!」
 ただよってくる焦げ臭い匂いに顔をしかめる緋虎は、この状況を一体どうしたものかと二人の顔を見比べる。
 しかし、自体は既に緋虎の遙か手の届かないところにまで移行していた。
「ほほッ、これで少しは暖かくなったわねェ?」
 再び勝ち誇ったように口に手を当てて、由良が高笑いする。
「なん……ってことすんのよっ、このオバさんッ!!」
「先に手を出したのは、アンタでしょうが、ジャリッ!!」
 さながら竜虎の如き睨み合いといった風に、お雫と由良の視線が火花をたてて絡み合う。
 結局その火花が起爆剤になったのか、二人はついに大爆発した。
「大体、いきなり出てきて母親面すんじゃないわよッ!」
「だって、母親ですものッ!」
「人より奉納点低いくせに、あつかましいのよッ!」
「ほほほ〜ッ! なんとでもおっしゃいな、お・よ・め・さん!」
「うっ……、そ、それに、別にあなたが緋虎さまを育てたワケじゃないじゃない!」
「あ〜らッ、緋虎の目元なんか私そっくりじゃないの!」
「似てないわよ、そんなの! 緋虎さまはきっとお父様似ですッ!」
「きぃぃぃ〜っ!! 影虎のことは言うなぁ〜〜〜〜ッ!!!」
 怒号と罵声、炎と水、そして様々な料理と皿が飛び交う中で、緋虎は妙に安堵している自分に気付いた。
「あぁ……これで、飯食わないで済むや……」

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