イツカ・・・・・・

TATSUYA様


 影虎の自室に足を踏み入れた途端、イツ花は目を丸くした。部屋の中には丸めて捨てられた半紙が至る所に転がっていたからだ。
「お掃除……いたしましょうか?」
「いや、それはいいんだ……それよりイツ花」
 イツ花の様子に小さな笑みを浮かべながら、影虎は手招きをしてイツ花を呼び寄せる。
 イツ花は影虎に従い、おとなしく影虎の前まで来るとそこに用意されていた座布団にチョコンと腰を下ろした。
 何事かと小首を傾げるイツ花の顔を、影虎は優しい眼差しでじっと見つめる。
「あ、あの……当主、さま?」
「しっ……」
 いきなりのことに狼狽えて頬を染めるイツ花を、影虎は口に指を当てて制した。イツ花もワケも分からないまま、ドギマギした顔でじっと座っている。
「……うん、ありがとう、イツ花」
「えッ、はい」
 そう言ってにっこり笑う影虎につられて、イツ花も微笑みを返した。
「わざわざ呼び立ててすまなかったな。悪いが、席を外してくれないか」
「あッ、はい……」
 結局、イツ花は何が何だかさっぱりのままで影虎の部屋を後にしたのだった。
 そしてその夜。
 夕食の片付けを済ませた後、着物の繕いをしていたイツ花の元に突然影虎が姿を見せた。その手には半紙が一枚握られている。
「当主様……! 何かご用でしたらお呼び下されば……」
「いや、いいんだ。気にしないでくれ」
 いきなりかしこまるイツ花に苦笑しながら、影虎は手にした半紙を静かに差し出す。
 それを手にしたイツ花は、影虎の顔と手にした半紙とを見比べながらおずおずと開いた。
 そこには──、
「当主様、これ……ッ」
 弾かれたようにイツ花が顔を上げる。
「すまんな、どうも上手く描けなくて……随分と時間が掛かってしまった」
 はにかみながらの影虎の言葉に、影虎を見上げるイツ花の瞳から涙がこぼれた。
「お、おい、イツ花……っ」
 そのまま身体を預けるようにして、イツ花は影虎の胸に顔を埋める。
 影虎がイツ花に手渡した一枚の半紙。そこには満面の笑みをたたえるイツ花の姿が描かれていた。墨だけで、しかもお世辞にも上手いとは言えない拙い筆運びで、しかしイツ花の優しさや明るさを感じさせる暖かい姿絵が。
「ありがとうございます……ありがとうございます、当主様……! ありがとうございますッ!」
 その姿絵を大切に抱きしめながら、影虎の胸の中で何度も何度もイツ花が繰り返す。始めは戸惑っていた影虎だったが、やがてその肩を優しく抱きしめてやった。
「なぁ、イツ花……」
 イツ花の細い肩を抱きしめたまま、影虎は静かに話し出した。
「私には、もうあまり時間が残されていないようだ」
 影虎の言葉に、イツ花の肩がビクッと震える。何か言おうと口を開きかけるが、掛ける言葉が見つからずにイツ花は唇を噛んだ。
 そんなイツ花の様子に気付いたのか、影虎はイツ花を抱く腕に少し力を込める。
「だから、せめてお前はいつものように笑っていてくれ」
 そう言うと、ゆっくりとイツ花の身体を自分から引き離す。
「そんなに、悲しそうな顔をしないでくれ」
 イツ花の涙に濡れた瞳を優しく見つめながら、影虎は微笑んだ。その笑みがあまりに儚く、イツ花は胸を掴まれたような気持ちになる。
 もう一度視線を落とした姿絵の中のイツ花は、曇りのない太陽のような笑みを浮かべていた。
「なぁ、イツ花……」
「私……こんなに美人じゃぁないですよ?」
 ようやく浮かんだ涙混じりのイツ花の笑顔は、ここしばらく見せることの無かった胸のすくような暖かい、そして美しい笑顔だった。

 それからのイツ花は、ことある毎に影虎の側に寄り添っていた。
 それまで沈みがちだったイツ花の笑顔は、あの日の夜を境に普段通りの明るいモノに戻っていた。しかしそれとは対照的に、影虎の顔からは日に日に生気が失われていった。
 だが、一人の時はいざ知らず、影虎の前でイツ花が笑顔を絶やすことはなかった。
 一度だけ、影虎はイツ花に尋ねたことがある。「いつも屋敷に一人きりで、寂しくないのか」と。
 イツ花は少し考えてから、笑ってこう答えた。
「私には、何の力もありません……出来ることと言えば、当主様達の留守中、このお屋敷を無事に守っていることぐらい……それに」
 影虎は、この言葉をずっと忘れずにいたいと願う。
「今は、当主様が……影虎さまが、側にいらっしゃいますから」
 それは、影虎が最初で最後に得た、本当の心の安らぎだった。
 そんな二人の上を、時間は優しく、しかし非情に過ぎていく。
 ──やがて、その時は来た。

「当主様……」
 自分を呼ぶ声に、影虎はまどろみの中から抜け出そうと目を開く。
 次代の当主の任命など、最後にしておかねばならない全ての仕事を片付けた影虎は静かに床に就いていた。
 頭を巡らせると、枕元に腰を下ろして自分を見つめているイツ花と視線が合う。
「ああ……イツ花か……」
 横になったままで、影虎は力無い笑みを浮かべた。もはや、影虎には身体を起こすだけの力さえ残ってはいなかった。
 そんな影虎の姿に少し寂しげな表情を見せたイツ花だったが、すぐに笑顔を見せる。
「皆さまとのご挨拶は、お済みになられましたか?」
 影虎はゆっくりと頷く。
「後は……イツ花、お前だけだよ……」
「影虎さま……」
 精一杯の笑顔をイツ花に向けると、影虎は再び瞳を閉じた。
「私は、これから何処に行くのだろう……」
 弱々しく言葉を紡ぐ唇を見つめながら、イツ花はそっと影虎の頬に手を寄せる。
 それを感じたのか、影虎の表情が少し和らいだ。
「人とは違う身……何処に行くとも知れぬが……」
 震える手で、影虎は自分を癒してくれる小さな手に触れた。
「お前が居ないのが、ただ残念だよ……」
 イツ花は、何も言わずに影虎の腕を両手でしっかりと支える。
 影虎も、その手を強く握り返した。
「会えますよ、きっと……」
 小さな声で、イツ花がぽつりと呟く。
「いつか……必ず……ッ」
 そして影虎の手を握るイツ花の手に、徐々に力がこもっていく。
「だって、そうでしょォ? 当主様達はこんなにも早く駆けて行かれるのですから……」
 そこまで言って、イツ花が言葉を詰まらせた。影虎は、何も言わずに黙ってイツ花の叫びに耳を傾けている。
「生まれ変わるのも、すぐですよ……きっと……」
 ポツリ、と熱い滴が影虎の手に落ちて来る。イツ花の言葉の最後の方は、殆ど声になってはいなかった。
「そうか……そうかも知れないな……」
 影虎は、最後の力を振り絞って瞳を開くともう一度しっかりとイツ花を見つめる。だが、その瞳からは既に光が失われていた。
「イツカ……お前と……もう一度……」
 ゆっくりと瞼が落ちていく影虎の顔に、そっとイツ花の顔が覆い被さっていく。涙がひとしずく、影虎の頬へとこぼれ落ちた。
「おやすみなさい……影虎……」
 溢れる涙を拭うことなく、イツ花は影虎の穏やかな寝顔にとびきりの笑顔で微笑む。
 影虎も、そんなイツ花に優しく微笑み返しているようだった。

「当主様、ご出陣ッ!!」
 イツ花は、大きな声で元気良く討伐隊を送り出した。
 また、いつもの日々が戻っていた。時間は留まることなく、しかもより激しく流れていく。過去を振り返っている余裕などありはしない。
「でも……チョットぐらいいいですよね、影虎さま」
 掃除をしていた手を止めると、イツ花は部屋の隅に掛けられた額縁へと目をやった。そこに大切に収められた姿絵を見つめ、懐かしそうに目を細める。
「……さッ! お仕事、お仕事!」
 が、すぐにガッツポーズを決めると、手早く掃除を終わらせて大きく伸びをする。
「ん〜ッ、今日も一日、がんばらなくちゃッ!」
 そう言ってイツ花はパタパタと部屋を出ていった。
 誰も居なくなった部屋の中、かつての影虎の自室に飾られた額縁の中で、モノクロのイツ花だけが微笑んでいた。
 いつまでも、いつまでも。
 きっと訪れる、「イツカ」を信じて。

(終わり)


あとがき
実は個人的には前の「在り方」みたいな殺伐としたヤツよりも、今回のいつかみたいな「あったかいけど、切ない」系の話の方が好きだったりして。
でも、私の作品ではとかく人死にがよく出ます。これも運命か……。
この「イツカ……」というお話しは、イツ花の名前と、「いつか」という言葉との響きが私の中で重なったときに出来ました。
影虎が最後に漏らした「イツカ……」がどちらの意味かは、みなさんが感じとってください。

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