「また、ここで会おう」
そうとだけ言い、あの御方は振り向かずに行かれました。
そしてその後ろ姿が、私が見た、あの御方の最後の御姿でした。
花散りて、また咲きて
TRA様
あの御方と初めて御会いしたのは……そう、まだ都の桜が咲き誇る季節だとおぼえています。私は使いを済ませ帰る途中で、お店に戻るために川の近くを歩いている時でした。
川面には日差しがきらきらと瞬き、川べりには美しい緑がどこまでも長く続く……この都が朱点に脅かされていることがまるで嘘のように想える風景が私の足を止め、暫しそこにいることを強いられたかの様でした。
そんな私の眼に、ふと飛び込んで来たものがありました。遥かに続く緑の上に、ぽっかりと浮かんだ白い影。私はそちらへと目線をうつします。
人だ、と理解するのに少し時間がかかったのではないかと思います。神主様がお着になられるような白の着物を身に纏ったその御方は、緑の上に手足を投げ出し、横たわっておられました。
何故そう思ったのかは知りませんが、その時私はどなたかが亡くなられているのかと思い、私は慌ててそちらへと駆けていきました……今思い出しても滑稽な思い出です。
その御方の近くまで駆け寄り、恐る恐るもし、と声をかけます。されど返事はありません。
やはり……等と思ってしまう私でしたが、眼の端に映ったその御方の胸がしっかりと上下しているのを見てホっとしました。それと同時に早とちりをした自分の馬鹿さ加減が可笑しく思えてしまいます。その照れを隠すように、私はもう一度と、その御方に声をかけます。
「もし、風邪を引かれますよ……」
「ん……ああ……」
僅かに身じろぎをし、その御方はうっすらと瞼を上げられました。微かに微笑みながら私の顔をみやり、何事かを口にされたようでした。
「何か?」
「いや……なんでもない」
そう言いながら体を起こされるその御方は、私の方に振り向き、今度ははっきりと分かる笑みを返しながらこう言われました。
「悪いな、起こしてもらって」
「いっ、いえっ!私こそ邪魔をしてしまったようで……」
ごく自然に、そう声をかけられただけなのに、思わず声がうわずってしまいます。思えばあの頃の私は若い娘、お店のお客様以外の殿方と言葉を交わすなど、滅多になかったはずです。顔が赤く染まるのを感じながらも、私はその御方から眼を外せずにいました。
透明な笑みをする方でした。お歳はその頃の私とあまり変わりは無いように見えます。御方のお髪は秋の稲穂のような黄金で、その瞳も同じような黄金色でした。
「ああ、これ?」
自らを指さし、そう言われる御方、さりげなくだったつもりが凝視してしまっていたようです。
「珍しいか?」
「あのっ!いえ……その」
「構わないさ……変だものな」
「そんなことありません!」
そう言いながら、寂しげに笑われる御方を見て……何故でしょう、私は思わず立ち上がりながらそう声を上げていました。
「そんなことはありません!ちっとも変ではありません!凛々しくて素敵ですよ!」
突然の私の行動に眼を点にしていた御方ですが、しばらくするとくっくと堪えるように笑いになられました。私は私で何を口走ったのかとますます赤くなります。
「申し訳ありません!過ぎたことを……」
「い、いや、いいんだ……ははははっ」
慌ててそう付け加えたのがいけなかったのか、御方はとうとう堪えきれなくなったかのように笑い出しました。先程までの透明な……どこか老成したかのような笑みとは違い、無邪気な……本当に幼子のような笑い方でした。
あまりに楽しそうで、気が付けば私もつられて笑っていました。とても気持ちのよい風が吹いてきたことをおぼえています。
ひとしきり笑ったあと、御方はふと元の微笑みを浮かべながら言われました。
「そう言う風に言われるとは思っていなかった。ありがとう」
「ありがとうだなんてそんな……私はただ、本当のこと言ったまでです」
「本当のこと、か……」
そう言われながら御方は川面に眼をうつされ、言葉を続けます。
「こいつらのせいで、外にでるのは好きではないんだ」
御自分の髪に手をやり、そう呟く御方。私はただ黙って聞きます。
と、御方がこちらを見て笑われました。
「でも、君の様に言ってくれる人がいるなら悪くないな、こういうのも」
「そんな……」
私の顔は恐らく、茹でた蛸のように赤くなっていたでしょう。そんな私を見ながら御方は言葉を続けられました。
「もう少し、話相手になってくれるか?」
「私でよいのならば、喜んで……」
使いの途中だと言うこともすっかり忘れて、どれほどその御方と話していたのでしょうか。気が付けば辺りの風景は夕の朱に彩られていました。
「ああ、すっかり話し込んでしまったな」
遠くの夕日を見ながら、御方はそう言われました。
「美しいな……」
「ええ……」
御方の言葉に無意識に相槌をうつ私。もっとも、私が見ていたのは夕日ではなく、夕日を眩しそうに見つめる御方ではありしたが……。
と、遠くから「当主様ぁ?」と誰かを呼ぶ声が聞こえ、御方がその声に頭を巡らせます。つられて私もそちらを見ます。
見れば向こうから桃色の着物を着た……見覚えのある女性が駆けてくるではありませんか。
「当主様!捜しましたよ?まったく、どこをほっつき歩いてるのかと思えば……」
「イツ花さん……」
「ってあら?あなた確か小物屋の……」
見覚えのあるはずです。彼女……イツ花さんはお店のお得意様なのですから。
その時に私ははっと思い出しました。イツ花さんがお仕えしているご一家のこと……希代の英雄と呼ばれるその一族にかけられた忌まわしい二つの呪いのことも……。
「あの……」
「隠すつもりはなかったんだが……すまない」
一瞬早く、あの御方の言葉が私の言葉を塞いでしまいました。
「謝らないで下さい!私の方こそあなた様の大切な一日を無駄に……」
この御方の御一族は呪いのせいで、たった二年の生しか許されていないのです。そんな方達にとって一日は何事にも変えがたいものの筈なのに……。
「君が気にすることじゃない、それに……」
押し黙ってしまった私に御方は言葉を続けられます。
「無駄な一日じゃないさ、君にああ言ってもらえたのだから」
「えっ……?」
御方の言葉に、一瞬呆気に取られる私。御方はそれ以上は何も言わず、ただ、微笑んでいらっしゃいました。
「当主様、そろそろお戻りにならないと……」
「分かったよ、イツ花。それじゃあ……」
そうイツ花さんに促され、御方は私に背中を向け、ゆっくりと歩き出されます。
「あの……!」
随分と遠くなってしまった御方に思わず声をかけてしまいます。御方がこちらを振り向かれるのがわかりました。
「また……ここでお会いできるでしょうか!」
その私の言葉に、御方は大きく手をふりながら答えられました。
「ああ、必ず!」
と。
それから私達は時間の合間……あの御方は無いと言っても過言ではないほどの時間の合間を縫っては、この川辺で会い、話をしました。
御方は当主としての名ではなく、当主になる前の名で呼ばれることを好まれました。この一瞬だけは当主も一族も、全てを忘れていたいと、そう言われて。
私は、そんな御方にいつからか惹かれていました……いえ、恐らくは出会ったその瞬間から惹かれていたのでしょう。
しかし、それはかなわぬ思い、こうして会ってお話ができるだけでも幸せなのだ、と……私はその思いを決して伝えようとはしませんでした。
四つの季節は正に瞬くように過ぎ、桜の花が僅かにほころび始めたころ、御方はいつもと違う眼差しで、この川辺へとやってまいりました。
「明日、朱点を討ちに立つ……」
決意の炎を黄金色の眼に宿して、御方はそう言いました。
ああ、と私は思いました。いつか必ず、この時がくるのだとはわかっていたのに……。
「これが……俺の最後の戦だろう」
それのもう一つの意味に気づき、私ははっと御方の顔を見上げました。でも、私にはかける言葉が見つからず。口からでたのは
「はい……」
と言う返事だけ、あとは口が言葉を紡ぐのを忘れてしまったかのようでした。
「そんな顔をしないでくれ、まるで今生の別れみたいじゃないか」
困ったように微笑み、御方はまだ僅かにしか咲かない桜の樹を見上げました。
「なあ、俺が戻ってくるとき、この桜は咲いてるだろうか」
「……はい、きっと、満開に……」
涙をこらえながら私は御方に言葉を返します。御方は桜の樹から私に眼をうつされ、言いました。
「俺は必ずここに帰ってこよう、朱点を倒し、全てに決着を付けて」
「だから約束してくれ、必ずここで待っていてくれる……と」
「そして、ゆっくりとまた、下らない話をしよう」
「はい……はい……!」
私の頬に、御方の大きな手が優しく添えられました。私はただ俯き、ぽろぽろと涙を零しながら、そう言葉を繰り返すことしか出来ませんでした。
何事かを言いかねていた様子の御方でしたが、やがて決意したように私にただ一言、こう言いました。
「好きだ」
御方のその言葉に、私は弾かれたように御方を顔をみやります。御方はいつもの微笑み……あの頃の私のように頬は赤く染まっていましたが……私の愛して止まなかったその笑顔で続けられました。
「あの時からずっと……君のことが……」
「私も……私もあの時からお慕い申し上げております……」
止まらない涙とともに私の思いまでもが流れだし、私は御方の胸へ飛び込んでいました。
「いつまでも……お待ちしております……何があろうと、必ず……ここで」
「ああ、帰ったら……一緒になろう……」
私を強く抱きしめながら言った御方の言葉に、私は無言で頷き……私達は唇を重ねました。
「また、ここで会おう」
そうとだけ言い、あの御方は夕日に染められた道を振り向かずに行かれました。
私はその後ろ姿を見えなくなるまで、見えなくなっても尚、見送り続けました。
そしてその後ろ姿が、私が見たあの御方の最後の御姿でした……。
あの御方が、志半ばにして逝かれたことを知ったのは折しも、桜が満開となった季節でした。
それでも私は待ち続けました。もうあの御方はここにはこないのだと分かりながらも、それでも尚、私は待ち続けました。溢れる涙を必死に それでも
やがて一つの年が過ぎ去り、御方の一族が朱点を討ったとの話が都にあふれました。都が眩いばかりの光に溢れたその時も、私は御方を待ち続けました。
意地でもなく、過去の束縛でもなく。私は待ち続けました。私が愛した御方が、ここへと戻られることを……。
両手両足、全ての指で数えても足りぬほどの年を経て……今も私は待ち続けます。もう、私は娘で
はありませんが、それでも、私は待ち続けます。
……その日も、私はあの川辺へと向かう道を歩いていました。桜が見事に咲き誇り、川面には日差しがきらきらと瞬き……川べりには美しい緑がどこまでも長く続く……あの時を水に写したかのような風景……。
私は足を止め、しばしその風景に見とれていました。まるであの時のあの瞬間に戻ったように。
ざあっと、風が吹きつけ、私の前を通り過ぎていきました。
私の眼に、一つの白い影が飛び込んできました。はっとそちらを見やります。
懐かしい風景がそこにありました。
白の着物を身に纏い
その黄金色のお髪を風に遊ばれ
緑の上に手足を投げ出し
穏やかなお顔で眠る御方が……
――もし……風邪を引きますよ――
あの時のように私はそっと、声をかけます。
――ん……ああ……――
僅かに身じろぎをし、その御方はうっすらと瞼をあげられました。微かに微笑みながら私を見やり微かに、でもはっきりと私の耳に聞こえるように御方はおっしゃいました。
――ああ、やっと会えた――
と……。
<了>
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