あゆみ(20年史)一部抜粋
おひさま保育園の建設運動はじまる

@無認可時代  まず、飯塚で

 高崎では、電通に勤めていた岡田勉、岡田信子夫妻、それに保母の上原敦子さんらが

新日本婦人の会の山田恒子さんや労働組合の青年婦人部などの応援を得て盛んに時の

住谷市長と交渉を持ち、産休あけから長時間預けられる保育園の建設を要求しておりま

したが、成果を得られず、やむなく岡田さんの私宅を解放して、高崎市から若干の、補助


金をもらって無認可で、おひさま飯塚保育園を開園したのでした。

A無認可、おひさま倉賀野保育園生まれる

 1970年になって倉賀野で、大井利夫さんと大井靖子さんの家庭に長男・次男として双子

の赤ちゃんが産まれました。この二人こそ、倉賀野町におひさま保育園をつくる切掛となっ


た健ちゃんと康ちゃんです。

 
お姉さんと3年間に突然3人の子宝に恵まれた大井夫妻は大いに喜ぶと共に果たと困っ

てしまいました。「どのようにして3人の子どもを育てればよいのか、勤めをやめるべきか

続けるべきか」大井さんは、この子たちのためにも勤めを続けよう、子どもを立派に育て

がら勤めも立派にやっていける方法はないかと考えはじめたのでした。

 
その当時、大井靖子さんの勤めていた専売公社には、すでに1年保育の託児所があり

したが、労働組合が中心になって、婦人の要求を聞き、託児年数を伸ばす運動を進め

ていました。山田千鶴子さん・原迪子さん・中林綾子さんらも、大井靖子さんと共に、労組

婦人部の一員として、この運動に参加し、活発に活動を進めていました。一方大井夫妻

は、おひさま飯塚保育園と連絡を取り、その結果、自宅を解放して無認可の「おひさま倉

賀野保育園」を開設することにしました。専売公社労組婦人部の中でも山田・原・中林さ

んらを中心にして沢山の婦人たちが、この動きに期待し協力しはじめました。このような

中で、おひさま保育園の開設で経験を積んでいた野村喜代子さんが保母として、おひさ

ま倉賀野保育園に就任する事になったのです。 野村喜代子さんは自分の娘、あっちゃ

んを連れての就任でした。そして、すぐに津金沢ひゆきくんが入園してきました。無認

可の「おひさま倉賀野保育園」は、まず、大井さん宅で保母の野村喜代子さんと数人の

子どもたちで出発したのでしたところが大井さんの家に専門の保母さんがいて「産休

あけから子どもを長時間預かってくれるそうだ」という噂がたつと、それは忽ちのうちに

広がり、子どもを持った母親たちがつぎつぎに訪ねてくるようになり、1970年の6月に

は8畳と6畳の二間に24人の子どもと3人の保母さんという状況となり、国鉄の夜勤の

仕事が終わっても大井利夫さんが帰ってきても休むところもない。どうにもならない。と

いう嬉しい悲鳴が大井家から聞かれるようになってきたのでした。

B認可保育園を目指して

 「始まったばかりの保育園だけど、この保育園をどうしたらよいのか、存続させるのか、

解散するのか」 「存続させるとすればどうすればよいのか」 思いあまった大井靖子さん

は、専売公社の同僚でもあり、小学校時代からの同級生でもあった山田千鶴子さんや

同僚の原さんと相談した結果、他の親たちと一緒になって市役所に出かけると「保育に

欠ける子どもがあれば、保育園はこれを保育しなければならない、という規則あるか

ら、近所の公立保育園に行って頼んでみてくれ」という指導があり、それぞれの母親が

市役所の指導に従って子どもを背負って、それぞれの自宅近くの公立保育園に足を運

んだのですが、「あなた方はテレビやピアノやダイヤを買いたいため、共働きをしている

んでしょうから、子どが大切なら、すぐ勤めをやめたらどうですか」

 
「ゼロ歳児は預かれません」

 「長時間保育は出来ません」

などと言って、ことごとく断られ、多くの苦い経験を味わったのでした。


そこで、「私たちで保育園をつくれないものか」と言う話がもちあがり飯塚保育園で保母

をしていた上原敦子さんに来てもらい、飯塚や埼玉県の「さくらんぼ保育園」の実状など

を話してもらました。その結果、翌週には「さくらんぼ保育園」の園長でもある、斎藤公

子先生にも来てもらい、大井宅で保育園づくりについて、本格的な相談が行われました。

斎藤先生は、「保育園をつくる仕事は、その気になれば必ず成功します。この仕事は大

事な、やりがいのある仕事です。専売公社を辞めて貴女が園長をやるぐらいの意気を

示しなさい」「土地は、厚生省の認可を取るに必要なだけの面積を必ず確保しなさい」と

言われました。

 数日後、保育園作りについて話し合いがもたれました。その席には、山田さんの同級

生の方たちも参加してくれ、惜しみない協力を願い出てくれました。

 
建設委員会結成準備会を発足、その話し合いの中でも「お金はないが、溶接工事が

あれば料で奉仕する」とか「大井さんの兄の大工さんは「特別価格でつくらせてくれ」

また、国鉄職員の父母からは「国鉄線路工事の廃土が無料でもらえる」とか、具体的な

提案が出され、倉賀野民擁連代表の清塚さんからは、「どうしても足りなければ、300

万程度なら出資しても良い」との強力な発言もありました。

C土地購入に成功 

 準備会の決定に基づき60名定員の保育所建設事前協議書を市役所に提出、「倉賀

野地区は人口急増地でもあり、基準にあった保育園がつくられるなら恐らく認可されるだ

ろう」との反応がられました。ついで土地購入ですが、「将来認可保育園になるために

必要な面積であること」「安値であること」を条件に探していたところ、永泉寺の西に259

坪の土地が売りにでている事がわかりました。しかし、この土地は周囲の水田より更に

30センチ程低く、相当の土盛りが必要であること。この水田に通じる道が狭くて自動車が

通れず、埋め立てが不可能なこと、水道管が遠いことなどの悪条件があったが、坪160

00円と格安のものであった。

 
「道路、水道など不安はあるが、認可に必要な200坪以上の土地を私たちが確保する

には、この土地を買う以外に方法はないのではないか。このチャンスを逃してはならない。

土地さえあれば後は何とかなる」

 「埋め立てようの自動車がなければ、リヤカーだって土は運べる」

ということで、労金からの借り入れ金で購入しました。埋め立てよう道路については、永泉

寺の前畑を借りて、そこへ国鉄の廃材となった枕木を払い下げてもらい、準備委員が中

心となり畑に敷き詰め、国鉄の線路工事の廃土をもらい埋め立て工事をはじめました。し

かし、廃土だけではらず、地元業者と契約し埋め立てを完了しました。埋め立て工事に

は、306.500円を必要としました。父母の協力がなければ、これの3倍はかかったに違

いありません。

D事前協議書正式に承認される

 いよいよ本格的行動に入ろうとしたとき、幸運にも、保育所設置に関する事前協議書に

対し県衛生民生部長名をもって正式回答が寄せられました。それは、「地域的に見て、お

ひさま倉賀野育園を設置することが必要と認められるので承認する」と言うことであり、

すみやかに、「保育園の建設主体である社会福祉法人の設立認可を得ること」 「提出さ

れた園舎建築図によると、児のほふく室が規定より1.65平方メートル不足しているか

ら改善すること」が、条件として明記されていました。

E社会福祉法人おひさま福祉会の設立へ

 これも、簡単なことではありませんでした。理事の人数が多い、理事と監事の親族のも

のがある、理事会の中に園長以外の職員がいるのは理事会と労働組合の権限を侵害す

ることになり、運営上不都合が生じるなどの指導があったり、法人運営のための定款、保

育園運営のための職員の獲得と名簿の提出、保育園運営のためのオルガン・机・すべり

台・ブランコ・ストーブ・鉄・放送設備・黒板・食器戸棚・下駄箱等36項目にわたる備品類

の完備とその目録提出などがありました。目録に書かれた備品のほとんどは、当時、移転

工事をしていた高崎商業高校と労使館からの寄付によるものでした。柵・ブランコ・すべ

り台は格安で斎藤鉄鋼場とこれに勤務していた、宮下さんにつくっていただいたり、97頁に

わたる申請書や定款の印刷については、高崎商業高校女子タイプライター部のみなさんが

無料でタイプし、印刷してくださいました。

F園舎建築はじまる

 
園設立案が承認された7月13日、大井利雄氏の兄、邦雄氏に合い特別価格で協力する

という約束を得て契約を結びました。なお、工事については建設委員会・保護者会が勤労

奉仕を行いベランダ分程度の費用の節約を行うこととしました。ベランダの廊下は斎藤氏

の斡旋で加増中のウリング場のフロアーをもらい保護者の協力で搬入されました。もっ

と資金を節約する方法はないものかと考えているとき、専売公社の北村さんから電話が入

、「台風で家の周囲のブロック壁とフェンスが隣の田に倒れて困っているとのこと。それっ

とばかりに翌日曜日、事務局を中心に保護者10数名が手に手にハンマー・スコップなど

を持ち、小型トラック数台で20数メートルのフェンスとトラック数台のブロックを半日ががり

で集めてきました。フェンスは保護者の手で園庭を取り巻く柵の一部になりブロックはベラ

ンダ用の砂利として使用されることになったのです。

 最後に困ったのは、飲料水でした。水道管ははるか遠く、そこから水を引いてくるため

には、何人かの家の敷地と田畑を通らなければなりませんでした。その土地が誰のもの

かも解らないので、水道をあきらめ、井戸を掘ることにしました。ところが、周囲が水田

のため水位が高く井戸掘りは難工事になりました。やっと完成してみると、亜硝酸性窒

素の痕跡が見られ、大腸菌群推定試験陽性となり飲料不適となってしまいました。更に

深く掘ってみましたが陽性は変わらず、モーターをフル回転させて何度か井戸を空にし

てみましたがだめでした。結局地元業者に依頼し永泉寺前の川底に水道管を埋設しよ

うやく飲料水を確保する事が出来ました。

Gカンパ・出資金・補助金を求めて

 
さて、園舎建設は着実に進んできましたが、なんとしても先立つもの、建設資金を集め

なければりませんでした。工事が進み支払期日が近づいて来ます。どうすれば大金が

集まるのか、考えられることは、高崎市からの補助金・大企業、商店、労働組合からの

寄付・労働者、市民からの小口カンパ・一口2千円以上の建設債権の募集・物品販売

バザーの実施、これらを全部やってみようと言うことになりました。まずは市長からと言

うことで、住谷市長を訪れましたが「市として補助金を出す事など、出来る限りの援助は

したいが市長個人として一保育園にお金を出すのは問題がある」ということで、私たちも

市長の立場を理解して去ることにしました。ついで、各企業を訪問するのですが。まず、

商工会議所へと言うことで3回訪問しましたが、見事に断られました。ついで、婦人会館

を訪れ、吉田文子先生から初めてのカンパをいただき激励を受けることが出来ました。

更に、地協傘下の労働組合を訪問し、カンパ帳を廻してもらうことにしました。多くの労

働組合より組織カンパ・小口カンパ・建設債の取り扱い等を趣旨に賛同して積極的に協

力してくれました。

 
しかし、すべてのところで順調にいったわけではなく、ある労働組合ではカンパ帳の申

し入れを役員会を開いて否決したばかりか、青年婦人部のカンパ活動を禁じたり、保護

者が職場の仲間から集めたカンパまで協力者一人一人に返還させたところもありました。

子どもの幸せを願う大事な仕事であるだけに、残念なことであり私たちの説明不足を恥

じる次第であります。

 
物品販売による資金集めについては、保護者の方々から多くの物品が売られました。

建設委員会としては、静岡の生産者からお茶を直接買い入れこれを販売してきました。

このお茶は、当時労働金庫で争議があり、争議団が資金獲得のため販売していたもの

を、争議が終了したため販売権と販路とも引き継がせていただいたものでした。

 
カンパ・建設債・物品販売による収入は、4.485.900円になりました。

H園舎完成

 11月初め、予定通り敷地258坪・建坪56坪の園舎が完成し、11月14日めでたく引

っ越しすることが出来ました。完成した保育園は、白いなめこの壁に赤瓦ををいただいた

平屋建てでしたが、それは、内容的にも全く新しい保育の殿堂の完成を意味したものでし

た。婦人の働く権利と子どもの幸せを守るセンターとしても大きな役割と任務を持つもの

の誕生でした。1971年1月には、県市より検査を受け厚生省の規準が必要とする全て

のものをそろえていることが確認され、合格をいただき、1月30日には、正式におひさま

倉賀野保育園設置についての申請を提出することが出来ました。2月14日、児童福祉

法第35条3項の規定に基づき認可を受けることが出来ました。

I高崎市から補助金2.654.000円

 
さて、とにかく、私たちは知事の認可を得たので、高崎市に対して建設補助金を申請す

る権利を初めて得ることが出来ました。そこで、3月2日高崎市長あて、建設資金

5754200円の半分2654000円の補助金を申請し3月30日に目標通りの金額をい

ただくことが出来ました。

 建設委員会・保母職員・保護者・理解ある有志が一体となって、明確な目標をかかげこ

れを実行したこと、これに対して高崎市民のみなさんが絶大な信頼を寄せてくださったこ

と。正しい目標と団結誠実・信頼こそがわがおひさま保育園の身上・財産であり、誠実と

信頼が失われれば、おひさま保育園は一夜にして崩壊する物である事を肝に銘じておか

なければなりません。掲げた目標を誠実に実行し子どもの幸せを守ることが、市民のみ

なさんの信頼に応える私たちの最後の任務であると考えます。      文頭に戻る

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