about : これは否定してもいいだろ

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浜崎あゆみとかがアーティスト気取るのって、ムカつくよね。
あんな顔だけで売れてて喉で音作って歌ってる程度なのがさ。
でも、売れてるし仕方ないか、なんて諦めざるを得ないのか?
いや、きっと否定できるハズだ。
この文は、それを実践するためのものです。


まず、artist とは何かについて考えてみるしかないか。
art とは日本語では芸術を指す。
なんだかこの時点ではまさきなんか否定できそうだ。
いやしかし抽象的であってはならない。理論的に否定しなければ。

そこでいま少し art について掘り下げてみよう。
art には芸術以外に人工物という意味があり、nature の反義語となっている。
(この辺はテストでよくでるので、お利巧ちゃんはよっく知っているだろう)
つまるところ、芸術とは人が作ったものを指す。
だがしかし、人が作ったもの全てが art にはならない。
マニュファクチャされたもの、製品といえるものは art とは呼ばない。
どちらも人が作ったものであるのに、二者は何が違うのだろうか?

これには付加価値というものの有無が関係していると思う。
マニュファクチャされたものは、同じものが複数存在し、それらの品質は均一である。
それに対し、art と呼ばれるものは 1つしかなく、品質は不均一である。
言い換えれば、真似が出来ない。

これらを整理すると、art とは人が作ったもので、作者が作る事で
付加価値を創出するもの、と言える。そして artist とは、付加価値を創出
できる者、となる。例えば絵は誰でも描けるが、画家と呼ばれる人たちが
書く事によってそこに付加価値が生まれる。歌なんぞカラオケに行けば
イヤという程聞く事ができるが、特定の人が歌う事によって、
その歌は付加価値を伴う。単なる工芸品であっても、匠と呼ばれる様な
卓越した技術を持った人が作れば、それには付加価値が付く。
これらは全て art であり、これらを作った人は artist である。

そして付加価値の有無は、その観測者が決めるものだ。
つまり、例え自称 artist の者が居たとしても、観測者がそれを
否定する事は可能なのだ。それは、生前没後のゴッホの評価をみればわかる。
それに自称すれば成立すると言うのなら、私だって即日 artist になれてしまう。
しかしそんな事は誰も "認めない" だろう。つまり、そういう事だ。

この理論ではまさきを否定するなら、次の事を私が判断すれば良いと考える。
第一に、その曲をはまさき自身が作っているかどうか
そしてまさきが作る事でその曲に付加価値が生まれているかどうか
第二に、まさきがその曲をは歌う事によって付加価値が生まれているかどうか

第一の問題、はまさきは作詞はするが作曲はしないようだ。なので
その詩について検討してみた。ありきたりの言葉、よくある言葉、
かりものの言葉を並べ連ねたものばかり。せめて自分で作った
言葉なり世界なり表現して欲しい。つーかこのレベルなら誰でも作れるだろ。
私はこの作曲に付加価値があるとは思えない。

第二の問題、声は特徴があるものの、声量があるでもなく音域が高くも
低くも広くもない。単なるチョーキングヴォイス。線が細く、音の豊かさもない。
さらに技術的に優れているとは認められない。表現力があるとも私には
認められない。歌う事で付加価値を創出できるのはホイットニー・ヒューストン
あたりの歌い手でなければ無理なのではないかと私は思う。


え〜、長々と誰もが分っていて気にしない事について考えてきましたが、
結論としては理論的に否定して良さそうです。
つーか日本人は容姿で判断し過ぎ。その人のやってる事を見ようよ。
artist なんだから外見でなくその作ったもので評価しようよ。



蛇足
art の語源を辿った結果、ラテン語の ars (アルスと読むらしい) に行き着いた。
これは腕・技術という意味だそうだ。そしてこれは technique の語源のギリシャ語の
techne (テクネーと読むらしい) と同系列の言葉らしい。やはり、artist を
名乗るからには卓越した技術が必要であるらしい。そして、芸術という言葉は
art を訳すために作られた言葉なのだそうだ。
ひょっとして芸術って "芸能 + 技術" ?
−以上−

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