私は、自殺系サイトに真っ向から反対する。絶対反対する。 自殺はとても容易だ。自分に見切りをつけ、適当なところで死ぬ。 しかしそれには、自然の摂理が反抗する。 単純に、死ぬのが怖い、そういった不安だ。 がしかし、自殺系サイトは仲間を集める。 これにより、舞台が整ってしまう。 偶然、勢いで死をほのめかした者に、真に死を選ばせてしまう。 ある意味での庄屋制度、連帯責任的に死を選択させてしまう。 私は言いたい。こんなものは糞だ。 なぜ糞だと言い切れるか? 簡単なことだ。 生きている限り、選択ができる。 がしかし、死んでしまえば選択する事ができなくなる。 死ぬ事はいつでも選択できるが、死んだ後の選択は、全く保障されていないのだ。 全ての選択を放棄する、それが死ぬという事なのだ。 絶対に、そんなものに、自分の選択を、誤らされてはいけない。 単純に、死を恐れる事は、生き物として、正しい。 絶対に、死ぬな。死を選ぶのは、自分の可能性を否定する事だ。 どんな命にも、大なり小なり可能性はある。 一寸の虫にも五分の魂がある。 お前は一体何寸あるんだ? 生きたいと思っても、生を剥ぎ取られる事もある。 それどころか、生を許されないものもある。 生を得る事自体、ある意味の特権なのだ。 その特権を生かせ。簡単にその可能性の終焉を選ぶな。 貴様が思うほど、自分の可能性は狭くもないし、 貴様の低脳が考えられるほど、可能性は単純なものではない。 絶対にない。 生きろ。 その先に何があるかを見極めるのが、 この世に生を受ける事が出来た、 他の生の可能性の代わりにここに現存する者が、 果たすべき義務である。 人の心はもろいものだ。 一瞬の過ちに流されるな。 今の先に、もうちょっとましな何かがあるかもね そんな気持ちで、とりあえず生きろ。 もしこの先に希望が持てないなら、 その希望を、自ら創り出せ。 絶望に満たされているものは、決して自分だけではない。 少なくとも私達は、性を受けた段階で、数億の中から選ばれたエリートなのだ。 もうちょっと胸を張ってもいいんだ。 生きろ。 等と言っても、やはり絶望しているのかも知れない。 そんな時は、これでも見てみると良い。
少なくともコイツは、生きるという事を教えてくれると思う。 |
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