昔私が歴史を教わった際、アメリカ独立時の 13州はイギリスからの移住者、特にピューリタンがその基礎を築いたと教わったように思う。 キリスト教徒。 キリスト教は報復を禁じているのではなかっただろうか。 右の頬を打たれれば、左の頬を差し出すのではなかったか。 アメリカはテロ以降、1度力を行使した。 アメリカはテロ以降、2度目の力の行使をしようとしている。 これが単なるポーズであればよいのだが、本気だとしたら是非やめて欲しい。 怒りがあるのだろう。 報復をしたいのだろう。 生贄が欲しいのだろう。 阪神大震災と同程度の被害者が出たのだから。 災害ではなく、殺人で。 報復したい感情は生き物の原始的な思考として理解できなくはない。 しかしこれを理性的に正当化する術はないと私は思っている。 少なくとも集団と集団との、相手の見えない戦いに至っては。 こんな時、政治は報復を回避する方向に動かねばならないのではないだろうか。 それが率先して報復へ向けて動いている様に見える。 残念ながら今のアメリカの統治者には、政治能力が足りない様だ。 ここで、こんな文を載せてみよう。 われわれは次の事が自明の真理であると信ずる。すべての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。その中には生命、自由、そして幸福の追求が含まれていること。これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意にもとづかねばならないこと。もしどんな形の政府であってもこれらの目的を破壊するものになった場合には、その政府を改革しあるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすにもっとも適当と思われる原理にもとづき、そのような形で権力を形づくる新しい政府を設けることが人民の権利であること。これは 1776年に発表された、アメリカの独立宣言の一部。 アメリカの人もイギリスの人と平等な権利を持っていると宣言したものだ。 その権利はイラクの人には与えられていないのだろうか。 その幸福の追求には、報復戦争や石油の利権を得るための侵略も含まれるのだろうか。 含まれて良いのだろうか。 次の戦争が真にアメリカ国民に利益をもたらすのだろうか。 ある国の政府に問題があったとして、その国の国民の権利を侵害しても良いのだろうか。 戦費の負担と兵士の心的負担、犠牲者と犠牲者の家族・縁者。 銃と銃声、爆弾と爆発、甲高い音を立てて飛ぶ鉄の塊、低い音を立てて走る鉄の塊。 銃を下げた兵隊が闊歩する街、そんな日常、そんな記憶。 荒廃した土地、瓦礫の山、たちこめる煙、硝煙の匂い。 戦闘の被害者、被害者の家族、悲鳴、嗚咽、喪失感、無力感。 窪んだ目、光の失せた目、悲嘆に暮れた目、ただ何かを訴えかける目。 生き物、生き物であったもの、生き物であったものの一部。 生まれたかもしれない命、失われた可能性、世界の一部。 一体どんな利益が得られるのか。 笑っているのは何処の誰か。 もう一度、きちんと考えて欲しい。 理性的に、得られるものが何で、失われるものは何か。 本当に、これをやらなければならないのか。 |
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