歎異抄に聞く

                第2回

以前、いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録です。
現在は、年2回、寺報「プラサーダ」に掲載しております。
 
≪歎異抄の作者≫

 
次に、歎異抄の作者についてふれてみたいと思います。
実は、これだけの書物であるにもかかわらず、著者の名前が記されていないのです。そのため、概ね三人ほどの人が著者として上げられています。それは、親鸞聖人の孫に当たる如信、曾孫の覚如、そして親鸞聖人の弟子の唯円です。それぞれに、それなりの理由があります。
 しかし、いまでは、ほぼ、弟子の唯円によるものであろうということが定説になっています。「門侶交名帳」という親鸞聖人の有力な弟子を記した古文書には、唯円の記載は二人いますが、河和田の唯円とみられます。唯円については、よくわからないところがありますが、親鸞聖人より50才くらい年下です。親鸞聖人は、60才あまりで関東から京都に戻られますので、関東で聖人の教えを受けられたとすると10才位の歳にすぎませんので、いささか無理ということになります。そうなりますと、歎異抄の第2章にありますように、関東から上京した弟子の一人で、そのまま京都に止まって、聖人から教えを聞き続けられたと思われます。そののち関東に戻り、水戸河和田に報仏寺を開いたとおもわれます。


≪著者が記されていないということ≫

 ここでは、著者自身のなのりが無いというそのことについて見てみましょう。
 歎異抄に著者名がないというところに、実はこの書物の性格がよく著されていると言えます。ふつう何かを書こうとするとき、今までに書かれたことがないことであったり、問題にされることがなかった事柄について、あるいは問題にされていながら充分論究されていないことについて、自分の見解なり、研究成果を世に問うためになされることが多いと言えましょう。つまり、書くということは、自分自身の考えを主張する事に他ならないといえます。
 ところが、歎異抄に著者名が記されていないと言うことは、著者が自分の主張を述べるために書いたのではないということを示していると言えます。それは、親鸞聖人の教えが曖昧になることを恐れ、念仏の教えをつまびらかにする為に書くのであって、個人的な考えを述べるために記すのでないということなのでしょう。
 親鸞聖人の教えを明確に次の世代に残す為とは言いましたが、親鸞聖人の教えというより、弥陀の本願の教えというべきではあります。親鸞聖人は、弥陀の本願を我々に明らかに説き開いて下さったのであって、決して親鸞聖人の独創であったり、オリジナルということではありません。
 表現を変えれば、浄土真宗の救済は、お釈迦様や親鸞聖人に救われるのではなく弥陀の本願に救われるのです。違った角度から申せば、阿弥陀さまと、お釈迦さま、親鸞聖人の関係をいえば、お釈迦さまが弥陀の本願を経典に説き明かしてくださり、親鸞聖人が我々にわかるようにそれを説き開いて下さったといえます。
 親鸞聖人以前に、そのように説く人がいなかったということで言えば(親鸞聖人自身の了解でいえば、法然上人によってすべて説ききられている)、弥陀の本願をはじめて明解に説き明かした人といえるでしょう。
 著者は、弥陀の本願の教えをつまびらかにし確認し直すことが目的であり、自分の考えを披瀝することがねらいではないのですから、名前を記す必要がなかったということです。
 

 
≪佛のお仕事を「ぬすむ」≫


 さらに、著者名を省いている今ひとつの理由が、歎異抄の書き出しの言葉からうかがうことが出来ます。歎異抄は、「竊かに愚案をめぐらして……」という言葉から始まります。
 この、「竊」という語は、ひそかにと読み、窃の旧字で、「ぬすむ」という意味です。
弥陀の本願について語ろうとするとき、それはもはや我々の問題としえない事柄を問題にすることでありますから、ぬすむしかないということなのでしょう。人間の努力なり、精神活動で構築できる事柄を問題にするなら、ぬすむ必要はありません。人間を超えた事をテーマとする時、ぬすむという事でないと問題にしえないということなのでしょう。弥陀の本願は人間の上に展開されますが、人間を超えています。人間を超えているから、また人間を超えさせることが出来るのです。我々の分限を超えているこ
について言及しようとするから、ぬすむというのです。


 

≪聞こえてくるまで、聞きぬく≫

 しかも、ぬすむことを可能にするのは、人間を超えた「はたらき」に出遇い得たということがなければなりません。出遇いがなければ、ぬすむことなどできようがありません。
 ところが、我々は、やっかいでして、我々を超えていようが、我々の認識の対象として把握しないと落ち着かないというものをもっています。超え出ている「はたらき」を、知識や経験を総動員して認識し理解しようとします。ところが、そのようにして理解された「はたらき」は、もはや人間内事柄に過ぎません。つまり、出遇いなしに理解しようとするとき、人間を超え出た「はたらき」であるにも関わらず、それを対象化し人間的諸関心の一つとしてしまう過ちをおかします。異義の生まれ出る大本であります。
 では、どのようにして出遇いは成立するのでしょうか。それを先輩たちは、聞こえてくるというかたちで表現しようとしてきました。浄土真宗は、聞法に尽きるのですが、聞いてつかみ取るのではなくて、聞こえてくるというかたちで出遇いが成り立つ。聞こえてくるまで、聞き続けなさいと教えられています。