歎異抄に聞く

第18回

いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします
        
         第7章について
             その1



 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとなれば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々


 《 束縛と支配からの解放 》

 今回から7章に入ります。
 はじめに、「念仏者は無碍の一道なり」という最初の文章をどのように読めばいいのでしょうか。文字通り「ねんぶつしゃは」という読み方と、「者」は置字で、読まずに「ねんぶつは」と見る二通りの解釈があります。ここでは、「念仏は」と読みたいと思います。
 無碍とは、障りがないとか妨げられないという意味になりますが、何の障りとならないのか、あるいは何にとって妨げとならないのかということについては言及されていません。
そこで、言葉を足しますと、念仏は、この世の中の様々な障害や妨げを障りとせず自由にして自在な人生を、私たちの上に開いてくださるはたらきであると読むことができます。
 そして、自由にして自在な人生の障害や妨げとは、具体的には、私たちを束縛し、支配するというかたちで作用するといえるでしょう。その時、無碍とは、解放と表現してもいいかもしれません。念仏は、さまざまな束縛と支配から私たちを解放するはたらきであると。
そして、ここでは、私たちを束縛し支配するものとして、天神地祇、魔界外道、罪悪、諸善が挙げられています。これらのものからの解放こそが念仏によって開かれる利益であるというのです。
 ところで問題は、私たちにとって、健康になるとか、長寿が約束されるとか、経済的に裕福になるというご利益は、まことに分かり易くありがたいのですが、束縛や支配からの解放がご利益であると言われてもピンとこないということはないでしょうか。解放が利益と思えないところには、その前に、束縛されたり支配されているという感覚がまずないからでしょう。さらには、自由にして自在な人生というのは、魅力的ではあるが、イメージ出来ないということもあるでしょう。自由自在なる人生とは、自らが主となり、独立者として生きることに他ならないのですが、このことはのちほど触れることとしましょう。
ではここで、親鸞聖人が当時、私たちの障りとなるものとして挙げられたものについて確かめてみましょう。

 《 八百万の神 》

 まず初めに、私たちを束縛・支配しているものとして天神地祇が問題にされています。天神地祇とは、世界に遍在すると、当時考えられていた神々のことです。そして、その神々は、私たちの幸不幸を左右する力を有するものと見られていました。
 たとえば、自然は、降雨、日照、風量等のどれ一つとっても、適当という形容詞が必要であります。今年の夏は、毎日のように一時間雨量が100ミリを超えるような豪雨が各地で大きな被害をもたらしました。適当な降雨は私たちが生きていくうえに必要欠くべからざるものですが、いったん集中豪雨になれば、命を奪われることさえあります。また、降らないとなると水不足で深刻な事態を引き起こします。自然は、私たちを育みいつくしむと同時に、いつでも牙をむいたときには、命を奪い大災害をもたらします。そこで、自然をコントロールして、穏やかで恩恵に満ちた慈雨を降らせるか、荒れ狂う暴風雨となって大災害をもたらすかを左右する力を有する神様に一生懸命お願いをして、出来るだけ恩恵を引き出し、同時に災いを封じ込めることを実現しようとするのです。その神様に対して一生懸命お願いする行為を、祭祀というのです。その祭祀を熱心に勤めることでわが想いを実現しようとする、そういう人を信仰心の篤い人と、世間では言います。
 想いの内容はさまざまで、五穀豊穣、商売繁盛、病気平癒、学業成就、交通安全等々。私たちの想いに応えてくださる形で神様が立ち現れてくださる。私たちの想いがあまりにも多岐多様にわたりますので、その想いに応えるには、多種多様の神々が必要となり、それは八百万の神といわれるようになります。
 その八百万の神々は、私たちの想いが創り出したものといえるでしょう。たとえば、交通安全の神様のことを考えていただけばどうでしょうか。車が普及するまでは、交通事故で死亡する人はまれであったのでしょうが、万博のあった1970年には、一万六千人を越える交通事故による死者がでました。死亡事故では、被害者遺族と加害者共に、どん底に突き落とされる苦しみを味わうこととなります。とはいえ、車社会を放棄するわけにいかないとなると、車の持つ危険性と共存する中で何とか事故に遭いたくないと多くの人が想うとき、それに応えて神様が立ち現れます。八百万の神々とは、私たちの想いの無底性に他なりません。
 ここで言う想いとは、私たちの欲望のことです。病気平癒や安産や交通安全を欲望というには、少し厳しいように聞こえるかもしれませんが、丈夫で元気で何事もなく暮らしていきたいという欲望に違いありません。神様は私たちの欲望が創り出すものともいえるでしょう。
 それぞれの欲望に応える専門の神様を考え出したわけです。たとえば、縁結びには出雲大社、五穀豊穣の稲荷神社、海上安全は金毘羅さん、合格祈願は天満宮、武運長久は八幡さんというように、であります。

 《 合格祈願 》

 ここで、合格祈願について少したずねてみましょう。ところで、開運厄除、五穀豊穣、商売繁盛,漁業豊漁、無病息災、病気平癒、家内安全等々は、多くのものが同じ方向に向くことの出来る願望ですが、合格祈願や立身出世は、性格を異にします。つまり、神々は、共同体の秩序と繁栄を支えるものとして機能することを期待され、共同体の利益を「おおやけ」といい、個人はおおやけに奉仕することを求められました。
 ところが、合格祈願や立身出世は、極めて個人性の強い欲望です。どうか、うちの孫を合格させてくださいというのは、同時に向かいの孫を落としてくださいという内容を含むわけです。入学試験は定員以上のものを落とすためにあるのですから。そういう個人の欲望達成を望むのは、夜中に鉢巻きにローソクを差しておこなうべきことなのでしょう。ところが、受験生を抱えていると、テレビのボリュームも気にして、みんな大変だということがあり、受験地獄といわれる社会問題はみんなの問題だということとなり、合格祈願が堂々とみんなの願望として認知されていく道を付けたのでしょう。それは、立身出世も同様で、みんなが同じように出世していたのではダメなので、立身出世を成り立たせるのは、出世しない人々を踏み台にするところにあります。
 合格祈願は天満宮の専売特許のようになっていますが、ここで天満宮という神社について確かめてみましょう。ご存知のように菅原道真がご神体です。藤原家が全盛を誇っていた時代に宇多天皇に認められ右大臣にまで上り詰めるのですが、藤原時平に疎まれ、讒訴により、九州大宰府に左遷され、三年余りで亡くなります。それからというもの時平の周辺で異変が続きます。御所に雷が落ち、時平は謎の病死を遂げます。そうなると、これは道真の祟りだと恐れられたわけです。加害者である藤原一族は祟り神となった道真に恐れおののくばかりなのですが、権力を有する藤原家が、祟り神である道真を神として祀ることで、藤原家に祟るものから藤原家を守護するものとなるというのです。権力者にとって誠に都合のいい組み替えです。この仕組みを、御霊信仰といいます。雷となって祟ったから、天の神にしようと、天神として祀ったわけです。菅原道真が学問に秀でていたということが、合格祈願とつながっていきます。

 《 占いとお祀り 》

 さて、親鸞聖人の悲嘆述懐和讃に、

かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 
天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀をつとめとす 
 
という和讃があります。
 道俗というのは、仏道を歩もうとする出家者と在家の仏教者のことです。仏教者でありながら、日を選び、時を気にして、方角にこだわり、占いを専らとすることで神々に仕えている現実を悲嘆されたのです。つとめとすというのは、そればかりに関わり果てているということ。そこには、仏教徒としての自覚も矜持も見失われている現実への厳しい指摘があります。
 ここで親鸞聖人が取り上げておられる卜占・祭祀というところに、神々と私たちの関係が良く浮き彫りにされています。いったん私たちの人生の幸不幸を左右するものとして神をたてると、神が私たちを束縛し、私たちはいつも神の顔色をうかがって生きるようにならざるを得ません。神のお心を推し量り、そのお心に沿い適うように生活し、正真誠意をもってお願いすることで想いに適った人生を神から約束してもらおうとするわけです。
 神々がどのようなお心であられるのかを推し量ろうとするのが卜占であり、出来るだけそのお心に適うように時や日や方角を選び、そして、積極的にお心に働きかけてこちらの要望を叶えようとする行為が祭祀、お祀りであります。この和讃は、念仏申していても、阿弥陀様にわが想いの実現をお願いしているようでは、その念仏はいつでも祭祀に変質してしまう危険性があるということの指摘でもあります。

 《 一寸先は闇? 》

 ところで、私たちが神々を創り出すのは、私たちの側にその理由があります。それは、私たちを受け入れ育む自然がいつ牙をむくかわからないのと同様に、私たちが作り上げ、所属している様々な社会や組織がいつどうなるかがわからず、それにもまして、私たち自身が最も頼りとし、あてにもしているこの体そのものがいつ病気になるか、あるいは事故にあうかわかりません。つまり、どうなるかわからない身と世界を生きているのです。それを、一般的には、一寸先は闇というのでしょう。
 その闇になんとか光を当て、どうなるかわからない未来を、これまで通りの健康で安定した状況として変わらず維持できるようにと、様々な神々を総動員しようとするのです。しかし、それは光にはなりえません。事実に立たせる力とはならないからです。どうなるかわからない世界を、想いに適う世界に改変してくれるのではないかという期待を持ち続けることは、事実に眼をふさぎ、事実から逃避されることとなります。
 ところで、どうなるかわからないこの身と世界を生きることは、闇を生きることになるのでしょうか。どうなるかわからないということの前提に、家族がみな健康で、勤めている会社は順調で、何事もなく円満にくらしているのが当たり前ということがないでしょうか。
想いに適う生き方を前提とする限り、それが否定される事態が惹起することは、まさにこの世は闇となります。実は、想い通りになることを前提とすることが、この世を闇とし、一寸先を闇とするのです。

 《 独立者 》

 この世はどうなるかわからないのではなく、この世はなるようになるという眼を開いてくださるのが仏教であり、念仏の智慧であります。
智慧というのは、他の多くの人が知らないことを知っていることではなく、事実を事実としてありのままに知ることを言います。
 お釈迦様は、この世の一切を成り立たせている道理を縁起と教えてくださいました。縁起とは、この世の一切の存在、事柄、そして出来事等は、原因と諸条件によって形成されているというのです。つまり、すべては、なるようになるということです。
ところが、私たちは、想いに適うような世界を望みますから、なるようになる世界とは、相容れるわけがありません。なるようになる世界が、私たちの想いを全く否定するような
事態となる時、私たちは、この世界をどうなるかわからない世界と見ることとなります。
この世はなるようになる世界であると頷くことが出来るなら、如何なることがこの私の上に起ころうと、それを私の事実としてその事実と真向いになり、それを引き受けて生きていけるものとなります。それをこそ、独立者であり、自在なる生き方というのです。
 なるようになる世界を想い通りに生きようとするところに、神々を創り出し、その神々に束縛され支配されて生きるものとなるのです。
天神地祇が敬伏するという表現で、神々からの解放、神々をたのむ必要のない生き方が、念仏によって明らかにされているということを表そうとしています。


                                            (つづく)