歎異抄に聞く

第16回

いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします
           
        
   第6章について(その3)


 専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどということ、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、佛恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

    
 《 法蔵菩薩 》

 前回は、私たちにとって聞法が何より肝要であると申し、それは、「法を聞く」と読み下すより、「法に聞く」と読むことが意に適っていると。しかし、そこには、何を法に聞くのかという、直接目的語に当たるものを補う必要があり、一つには、私自身を聞き開くことであると申しました。
 そしてその私自身というのは、同時に具体的な時代・社会を生きる私でありますから、私自身を仏法に聞くということは、必然的に時代・社会が抱える諸問題を仏法に問い続けることと別事ではありません。

 いまひとつ聞き開くことが求められるのは、如来のお心であると申して前回は終わりました。如来のお心、つまり如来の本心を本願ともいいます。如来の本願を聞き開くことが求められるということです。親鸞聖人は、「聞というは、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と、本願についての疑いようのない了解こそが聞くことによって開かれるべき世界であるとおっしゃる。
 そこで、今回は阿弥陀如来の本願について確認してみたいと思います。はじめに、本願がどのように説かれているのかを確かめてみましょう。「正信偈」では、

 法蔵菩薩因位時  在世自在王佛所  覩見(とけん)諸仏浄土因
 国土人天之善悪  建立無上殊勝願 
 (阿弥陀如来が、法蔵という菩薩であられた時、世自在王佛のみもとで、諸仏がたの国のいわれと成り立ちをよくよくご覧になり、この上なき願を建立されました)

と、説かれています。この部分は、無量寿経に説かれている阿弥陀如来が阿弥陀如来となられた因縁を明らかにする最初のところであります。すこし、確かめてみますと、昔々、ある国の国王が、世自在王佛という佛の説法をお聞きになり、私もこの方のようになりたいという願いを発(お)こし、国王であることを棄て、出家して法蔵と名のられた。そして、世自在王佛に、どうすれば貴方様のように苦しみ悩む人々を救うことが出来るでしょうかと、教えを請います。それに対して、世自在王佛は、それはあなた自身の問題である。自分自身で考えなさいと退けられます。そこで法蔵菩薩は、確かに私のなかに()こった願ではありますが、その願の大きさは私を遙かに超えていて、私がどうこう出来るものではありませんと、再度、教えを請います。それに応えて、世自在王佛は、これまでの多くの諸仏がたの国と、その国の衆生を救済された行と、その衆生のありのままを解き明かして下さいました。そこで、法蔵菩薩は、多くの諸仏の国々をつぶさにご覧になり、苦悩の中に沈む衆生を速やかにすくい取るこの上なき願を()こされました。そして、長きにわたる思惟を重ねられて、日々の生活の中に埋没し、何の行も実践できずにいる人をも念仏申すことで救われる本願を選び取られました。そしてその本願が成就して、阿弥陀如来となられたと説かれています。

 ところで、如来である限り、すべからく菩薩であられる時に本願を()こし、その本願を成就して如来となられたといわれます。例えば、薬師如来は、菩薩の時に12の本願を()こされ、分けても病いやケガによって苦しんでいる人々を癒したいという願が成就して、東方に浄瑠璃世界(瑠璃光浄土)を建立されたといわれます。

 
《 如来とはなにか 》

 さて、如来とは何かという時、さまざまな表現が可能ですが、我々から言えば、我々をたすけて下さるはたらきを如来といって間違いではないと思います。そしてその理解は、我々が普通、如来に対して抱く、苦しみ悩みのなかにある時、誠心誠意をもって如来にお願いすれば、その願いを聞き届けてたすけて下さるに違いないという我々の如来に対する了解と通じるものがあります。そしてその如来に対する信頼が佛教を支えてきたともいえるでしょう。
 もちろん、我々をたすけて下さるはたらきを如来という了解は間違っていないと思いますが、ただ、どのようにたすけて下さるのかということになると、お願いを聞き届けて下さることでたすけるて下さるのではなく、目覚めさせる事によってたすけて下さるのです。
 例に挙げた薬師如来も、一生懸命お願いをすれば、病いを治して下さるということではなく、仏性(その人に中にある如来になることの出来る種)に目覚めさせて覚りに導き、そのことで病苦から解き放ち、それによってたすけて下さるのでしょう。
 如来は、我々を目覚めさせてくださることでたすけて下さるはたらきなのです。
 ところで、先程、法蔵菩薩が本願を成就されて阿弥陀佛となられたと申しましたが、こういう言い方をすると、昔々に法蔵菩薩という方がおられて、阿弥陀佛となられ、どこかにおられるようなイメージを持って頂く事かと思いますが、それは、どこまでもはたらきを擬人化して語ろうとしていることに他なりません。

 
《 弥陀の本願 》

 つまり、阿弥陀佛という方がどこかにおられて、私が念仏申せばたすけて下さるのではなく、念仏申す私をたすけて下さるはたらきを阿弥陀佛というのです。このように申すと、少し言い回しが違うだけで、同じ事を言っているのではないかと思われるかも知れませんが、ここでは、阿弥陀佛という方がどこかにおられるわけではないが、我々をたすけて下さるはたらきはまちがいなくあるということを申したいのです。阿弥陀佛は、我々をたすけて下さるはたらきであり、そのはたらきそのものを、弥陀の本願というのです。はたらきは、たすけられた者が揺るぎなき実感をもって感得するものであり、言葉やかたちで表現できるものではありませんが、それでは我々に手掛かりがありませんので、我々のために、そのはたらきを言葉として表現しようとしたのが本願といえるでしょう。
 阿弥陀佛の本願は48願として説かれます。そういうと、48のはたらきがあるように思われかもしれませんが、1つのはたらきを48通りの表現で言い当てようとしたといえます。そしてその1つとは、たとえいかなる行も出来なくても、そのうえ迷いの真っ只中にあるものでも、念仏申すものを浄土に往生させて救うというものです。
 そしてその本願にふれることで、たすけられるとき、あたかもそこに、苦悩する我々を捨て置けず、佛があわれみ慈しんで、はたらいて下さったように了解出来ることから、その本願を大悲の願、あるいは悲願というのでしょう。

 ところで、薬師如来のことを先程ふれましたが、薬師如来のご覧になっていた世界は、病いやケガに苦しみ悩む人々が多くいたのでしょう。同様に、阿弥陀如来は、なぜ、何の実践行も出来ず、深い迷いの中にあるものを念仏申さしめてたすけるという本願をおたてになったのか。それは、この私が、煩悩が熾(さか)んで、罪深い存在そのものであるからに他ならないことに起因するのでしょう。
 このようにみてくると、私自身を聞き開くことと、本願を聞くこととは、実は、罪悪深重なる私自身に気付かされるということにおいて重なってくることに思い至ります。つまり、あたかも二つのことを聞き開くと申していましたが、一つのことであったということです。信心とは、実はこの私自身に対する深い認識とたすけて下さる本願に対する明瞭な了解をいうのです。
 そしてその信心は、聞法によって贈与されるかたちで私の上に至り届くことから、「如来よりたまわりたる信心」といわれ、そうであるからこそ、弟子ではなく同行であるというのが6章の眼目であります。

 
念仏申すものをたすけて下さるということについては、いずれ確かめたいと思います。


                                            (つづく)