歎異抄に聞く

第13回

いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします
      
            
第5章について


      歎異抄第5章・・・その1

 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に佛になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々


   《 先祖供養と真宗 》
  孝養というのは、供養と言うことです。つまり、ここでは亡き父母の供養のために念仏を申したことはありませんというのです。
 歎異抄は、どの章も随分とドキッとする表現がありますが、そのなかでもインパクトの強い表現ではないでしょうか。亡き父母の供養に念仏申したことがないと言うのですから。
 しかし、ここで問題にしようとしているのは、供養をしないということではなく、供養のための念仏を申したことがないということです。歎異抄が一貫してそうであるように、ここでもやはり、供養を手がかりとして念仏を明らかにしようとしているといえます。私たちの念仏理解を問い直すのに、父母の供養という私たちの関心が大きい事柄を取り上げているのです。

 さて、私たちが亡き人を供養するというのは、素朴な優れた感情ですが、教えのうえからはどのように了解すればいいのでしょうか。
 供養を、インドの言葉に戻しますとプージャナーといいます。直訳すれば、恭しく仕えるといえます。亡き人を供養するというのは、亡き人のお心を中心に据えて、そのお心に仕えるということになります。お心に仕えるというのは、どうすることなのでしょうか。それは、亡き人と向き合い、亡き人の声にならない声を聞き取ることではないでしょうか。亡き人の本音を、願いを聞き開くことです。
 たとえば、亡き親を供養するという時、それは親の願いと真向かいになることです。しかし、なかなか親の願いを斟酌すること
は難しい事でもあります。ところが、自分が子供に何を願うかと置き換えれば、分からないわけではありません。
 どうでしょうか、生まれてくる時には、どうか無事でと思いますし、這うよう歩くようになると、ケガをしないようにと。幼稚園、学校に上がるようになれば、欲が出てきまして、人より足が速いようにとか、勉強が出来るようにとか。長ずれば、良い配偶者に恵まれて経済的にも安定した家庭を作ってと、子供がいくつになっても、その時その時、その子が幸せであるようにと願わずにはおれないのが親心です。その時その時の状況でさまざまな願いがあるでしょうが、それらの願いを一言で言い当てるとすれば、どういう表現になるでしょうか。それは、いつ如何なる時でも、生まれて良かったと言える者であれということではないでしょうか。そして、それはまた、親がこの私に掛けて下さっている願いでもあるはずです。

 岩手にTさんという方がおられます。この方は、子供の時に養子に出されて、養父母に育てられたのですが、実の親が養子に出す時、養父母に対して一つだけ要望を出されたといいます。それは、仏法を聞くことだけは怠らない人間に育てて欲しいというものだったということをご本人から聞きました。
 それは、仏法を聞き開くことによって、その子供が生まれたことを喜べる人間になってほしいという親心そのものでしょうし、その方の両親自身が仏法に出遇い得たことで気付くことの出来た智慧でもあるのでしょう。
 亡き人を供養することが、亡き人をしのび、亡き人の願いを聞き開くことであるとき、供養することと念仏の教えを聞くこととは一つになるといえます。


    《 世々生々(せせしょうじょう)父母(ぶも)兄弟 》
 話は変わりますが、ここで、私たちの生命の歩みを過去にさかのぼって尋ねてみましょう。私たちには、両親がいます。そしてそれぞれの親にも又、両親がいます。これからクローンということになると必ずとはいえませんが、クローンでない限り必ず両親がいます。
 ところで、地球ができて43億年、生命が誕生して40億年、猿から人間になって500万年といまの科学は明らかにしています。500万年といわれても、ピンときません。そこで、300年位を手がかりに考えてみましょう。一世代の世は、30を表します。300年というと10世代です。親は2人。おじいちゃん、おばあちゃんは4人。ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんは8人です。では、10世代前の親は何人くらいになると思われますか。2の10乗です。なんと1,024人という人数になります。そこに、9世代までの親を加えると10世代前までに2,046人という親がいます。そこには、おじさんやおばさんはいません。全て直接の親です。わずか、300年を振り返っただけで、2千人を超える親がいます。20世代前では、200万人を超えます。鎌倉時代の日本の人口が700万人ほどといわれていますから、単純に2乗していくと日本の人口をオーバーしてしまいます。そこには、縁あるもの同士が錯綜して存在していたのでしょう。世代をさかのぼれば、私たちは、他人としか思っていない人たちと同じ人を親としている兄弟であるということを想像するのは、そんなに困難なことではないでしょう。
 一時、ルーツ探しが盛んな時がありました。寺にも、先祖を捜しに訪ねてこられた方が少なからずありました。それで、自分の系図を作るというわけです。そのことによって自分らしさの確立を計ろうとしたようです。しかし、たとえ10代前の先祖を確定したとしても、それは千分の一人が分かったに過ぎません。間違いの無いのは、私たちには無数の先祖がいて、あらゆる人と深い縁を持つ存在であるということです。そのことをここでは、世々生々の父母兄弟といっているのでしょう。


    《 生命の願いの歴史と迷いの歴史 》
 ところで、いま、猿から人間になって500万年経っていると申しましたが、猿になるまでにも、何十億年という時間を経過しています。私たちがここに存在しているということは、地球に生命が誕生してから、生命の歩みが一時も途絶えることなく継続し続いてきたことのなによりのあかしであります。私たち一人ひとりには、40億年の生命の全ての歴史が刻み込まれているということでもあります。
 人間は、お母さんのお腹で280日間育てられ生まれ出るといわれていますが、その280日間の間に、無脊椎動物から魚類、そしてほ乳類の進化を果たし人間として生まれて来るともいわれます。いわば、40億年の生命の進化の歩みを280日間で尽くし生まれてくるともいえるでしょう。
 いま何気なく進化といいましたが、生命を表現するうえからは本来相応しい言葉とはいえないのではないでしょうか。進化というところには、優劣という価値が色濃くみてとれます。そこには、人間が最も優れて秀でた生命体であるという見方がその根っこにあるのでしょうが、生命に優劣などあるはずがありません。あるのは、業の違いだけです。
 猿から人間になったのは、アフリカの地殻変動で森が消失し、森から出て木を降りた猿が進化をしていったためだといいます。業は行為のことです。木から降りて人間となるような行為を何世代にもわたって重ねることで人間となり、森に残り樹上生活を通したものは猿としての行為を重ねているわけです。ボウフラはボウフラになるような行為を重ね、ゴキブリはゴキブリとなる行為を尽くしているわけです。生命に優劣はなく、業の違いがあるだけで、進化というのは私たちの価値観に基づくものと言えるのでしょう。

 連綿とした生命の歩みのなかで、人間となるべき業を重ねて私たちはここにいます。そしてその命は、ただ単に続いてきたのではなく、迷い続けて続いてきたとみるべきでしょう。何故なら、生命は、如何なる生命であろうと自己保存と種の保存を第一の関心事としているからです。つまり、自己保存、この生命を維持するためには食べ続けねばなりません。それは、どんなことを差し置いてもこの口に食べ物を入れるということを最優先としなくてはなりません。私たちは、飢餓の恐怖のなかで食べ続けなければこの身を維持できないという行為を幾世代にもわたり重ねてきました。私たちが自己中心的な存在であるのは、そのような生命の歩みによって形成されたものと言えないでしょうか。あるいは、何世代にもわたる種の保存といわれる行為が、いまの私たちの性に対する抜きがたい執着を産み出しているのではないでしょうか。
 私たちの愚かさや迷いの深さを、「罪悪甚深煩悩熾盛(ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう)(煩悩が燃え盛り罪悪を犯さずにはおれない存在)」とみて、それは個人の資質に起因するのではなく、生命が歩んできた歴史そのものにその原因があるとみたものとして、「曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転し出離の縁あることなし(何世代にもわたって迷い続けてたすかる事など不可能な私)」という善導の言葉を見出すことが出来ます。そして、その迷いは私たち自身の修行や努力で克服できることなどあり得ないとみたのが浄土教であったといえます。

 そして、迷いを重ねてきたと同時にまた、生命は願い続けて歩んできたともみる事が出来ます。私たちが、空しさを感じたり、現実を不安に思うのは、空しくない人生を送りたい、確かな生き方をしたいという裏返しです。そういう想いが誰のうえにも起こるのも、生命が生命である限り、生まれたことを喜びたいという生命そのものに備わっている願いによるものではないでしょうか。それは生命が何世代にもわたる歩みの中で願い続けてきた願いに他ならないとはいえないでしょうか。 自己保存ということも、この命を全うしたいという欲求であるとみて取ることも出来ます。表現を換えれば、賜ったこの命を過不足無く生ききりたいということ、あるいは、命は他の命と共にしか生きられないことから、他の命と共に、生まれたことを納得できるような生き方をしたいともいえるでしょう。もっとも、人間以外の生命が自覚的にそのようなことを意識することはないのかもしれませんが、生命そのものには等しく賜った命を十全に生ききりたいという願いが備わっているはずです。
 天親は、その願いを「普共諸衆生 往生安楽国(ふぐしょしゅじょう おうじょうあんらっこく)(あらゆる人々と共に、この人生を意義深いものとして生ききりたい)」と表現して下さったといえるでしょう。そして、その願いを私たち自身の願いとして自覚的に生きる者となることこそが、念仏者といわれるもののあり方です。

 今回は、供養とあらゆる生命が繋がっていること、そして生命の歩みについてみてきました。次回は、どうして念仏で供養をしたことがないとおっしゃるのかを中心に確かめたいと思います。
                                           (つづく)