歎異抄に聞く

第14回

いわき市社会福祉センターで行われた歎異抄に聞く会の講義録を掲載いたします
      
            
第5章について


      歎異抄第5章・・・その2

 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に佛になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々


  前回に続き、5章をたずねたいと思います。前回は、浄土真宗においての供養の意味と生命の歩みについて確かめましたが、今回は父母の供養のために念仏を申したことは一度もないとおっしゃる、その理由についてお話ししたいと思います。

 本文では、「そのゆえは」と、その理由を、「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」と、全ての命あるものは、長い時間のスパンで見れば、みな親であり、兄弟であるからというのです。つまり、自分の父母だけに対する供養という狭いものではなく、全ての命あるものを父母と同じ重い存在として見出し、そして、あらゆる命あるものをたすけ遂げたいというのです。
 さらに、あらゆる命あるものとはいえ、まず縁のあるものからたすけるべきであるという。
 このように見ると、あたかも自分の父母の供養のための念仏はしたことはないが、命あるものに対しての供養の念仏はしているというように聞こえるかと思いますが、そうではなく、ここには2つのことが錯綜して課題にされているといえます。
 一つは、最も関係の深い父母を通して、父母に止まることなく、多くの命あるものに想いを致し、その救済を願う者となるのが念仏者であり、それには自身が念仏申し、縁のある人を念仏申す身に改変するということ。
 いま一つは、念仏をもって亡き人の供養は出来ないということ。この2つのことが、課題とされていると思われます。


  《 あらゆる命あるものを父母と同じ重さとしてみる 》

 人と人との関係を繋ぐはたらきを佛教では、慈悲といい、キリスト教では愛というといえるでしょう。慈悲は、前の4章での課題でもありました。そこでは、浄土の慈悲がすえ通ることが明かされました(前々号21号参照)。
 また、佛教では3種類の慈悲が説かれています。慈悲が発動される縁によって、衆生縁、法縁、無縁とし、それぞれ小悲、中悲、そして大悲といいます。
 衆生縁による小悲とは、私たちの起こす慈悲のことです。私たちは、自分に関係の深い家族、友人、仲間や地域の人たちに対して、その関係性の度合いによって、それに相応しい関心を持っています。場合によっては、自分を犠牲にしてでも、関わろうとさえします。あるいは、また戦争や天災による難民や飢餓に苦しむ人々に対して、それが見ず知らずの人であっても、人間として放っておけないと憐れみの情を起こしたり、寄付や援助をしようと思います。そのように、私たちが、憐憫の情をもって起こす慈悲を、衆生縁によるものといい小悲といいます。
 法縁は、間違ったものの考え方をしている人に、道理に引き戻すことによって間違いを糺すことで、その人を利益しようとしてはたらく慈悲といえるでしょうか。いわば道理によって起こされる慈悲のことです。たとえば、私たちがこの世は自分の力で生きており、ひとさまのお世話になどなっていないと思っていたとして、ところが病気になったり、挫折をしたり、事故に遭うこと等でさまざまな人たちに助けられることで、多くの人に支えられて生きているという事に気付くことが出来たとすれば、現実を通して道理にうなづくものとなり得たわけです。このように、道理を見失っていた私を道理に立たしめることを、法縁により中悲が開いた世界といえるのではないでしょうか。
 大悲は、無縁とありますように、私たちの感覚では文字通り、全く縁もゆかりもないとしか思えない人々、あるいは命あるもの全てに対して深く関わりを持とうという関心が起こることであり、それは佛の慈悲と言われるものであります。
 ここでは、父母という、私たちにとって最も近くて最も重い存在であり、生前には深い愛着を持ちつつ、時には強く反発することもあったでしょうが、亡き後は最も気に掛かる存在であります。その父母を通して、情的な恩愛を超えて、あらゆる命あるものへの深い関わりを生むものとして念仏が語られています。つまり、念仏を生きる者というのは、自己関心を超えて、多くの人に関心が及ぶものとなることであり、佛にあらずして佛の大悲を生きるはたらきを賜るとも、あるいは、あらゆる命あるものを父母と同じ重さの存在として見ることの出来る眼を賜るともいえるでしょう。
 

  
《 まず、有縁を度すべし 》

 さらに、ここには「まず、有縁を度すべし」と、度すとは彼岸に渡すということで、たすけるということをいいます。縁のある人からたすけるべきであると。しかし、人をたすけるのは佛の仕事であり、私たちが果たせることではありません。佛でもないものが、どうして人をたすけることなど出来るのでしょうか。私たちが、人をたすけるというのは何処で成り立つのでしょうか。
 それは、4章でも申しましたが、この私が念仏申すものとなり、浄土に生まれることを願う者となること以外にはないように思います。つまり、自らが佛にすくわれる者となり得るということを明らかに示すことが、同時に有縁の人たちにとっては、すくわれる道がはっきりしたということに他ならず、そこに有縁の人をすくうことと同じはたらきが展開されるといえます。この私が、念仏申し浄土に生まれることを願う者となることこそが、佛の大悲を行ずることになるのでしょう。


  《 念仏は、誰のものか 》

 さて、今一つの課題であります、念仏をもって亡き人の供養はできないということについてふれてみましょう。
 ところで、歎異抄は、一貫して念仏を明らかにするということをテーマにしているといえます。ここでも、父母の供養という、私たちの関心の大きいことを取り上げ、そのことを通して念仏をはっきりさせようとしているといえます。
 先述しましたように本文では、父母の供養のために一度も念仏したことがない。その理由として「世々生々の父母兄弟なり」ということが挙げられていますが、念仏を明らかにしようとする文脈からは、その理由としては、念仏が「わがちからにてはげむ善」ではないからであると読むべきではないでしょうか。
 「わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ」と、念仏が、もし私たちの努力によって手に入れることの出来る善行であるなら、それを父母の供養のために振り向けることも出来るでありましょうと。
 ところが、念仏を父母の供養のために振り向けられないのは、念仏が私たちの努力による善行ではないからであるというわけです。ひらたく言えば、念仏は私たちのもの(ものと表現するのは全く相応しくありませんが、分かり易くするために敢えて用います)ではないから、私たちのものでもないものを他に振り向けることなどできないという意味です。
 念仏は、私たちの善行ではない。これが、5章の大きな要点の一つです。したがって、自分の善行でもないものを、父母の供養のために振り向けるといっても、それは出来ないことですよというのが、趣旨ということになります。

 私たちが申す念仏なのに、どうして私たちのものではないのでしょうか。念仏が私たちの善行ではないとすれば、念仏をどのように了解すればいいのでしょうか。ここに、「念仏とは何か」が問題になります。
 そこで、念仏が、どのようにして出来上がったのかを尋ねてみることにしましょう。念仏の由来は、阿弥陀仏の本願にあります。そしてその本願とは、「あらゆる世界の無量の仏さまたちに、私をほめ讃えて、私の名前を称えてほしい」と願われた諸仏称名の願です。阿弥陀さまのこの本願によって念仏が出来上がりました。念仏は、いつか知らない時に誰かが勝手に言い出したわけではないのです。阿弥陀さまの本願を根拠として成り立っていたのです。
 無数の仏さまがたにご自分を讃歎し、ご自分の名前を称えてもらいたい。私たちが、こういうことを言うと、勝手に言っていなさいということになるのでしょうが、そこには、深い意味があります。
そもそも、佛さまとは、いかなる用(はたら)きかといえば、迷っている私たちをたすけてくださる用きをいいます。その阿弥陀さまが、あらゆる佛さまがたにほめ讃えられ、お名前を称えて欲しいとおっしゃるのは、ご自分の教えの優れて秀でていることを、あらゆる佛さまがたが証明してくださり、全ての世界に伝え広めてくださることを願われたということです。それは、世界の隅々にいる人も一人残すことなくすくい取りたいがためにであります。
 南無阿弥陀仏の念仏は、あらゆる佛さまがたが、阿弥陀さまの教えが極めて素晴らしい教えであることを私たちに伝えて下さる、諸仏さまのお勧めのお呼びかけであります。
 そして、あらゆる佛さまがたが、阿弥陀さまをほめ讃えられるお呼びかけを通して、迷っている私たちに阿弥陀さまの教えにふれさせ、私たちを浄土に生まれることを願う者とさせてくださるのであります。
 私たちからみれば、念仏は、阿弥陀さまにふれ、阿弥陀さまの教えにに遇い、阿弥陀さまの教化にあずかることです。
 私たちが念仏申すのですが、その念仏は私たちのものではありません。この私を迷いから目覚めよと呼びかけてくださる佛さまのものです。
 念仏は佛さまがおっしゃるところですが、佛さまはお口をお持ちでありませんので、私たちがその代行をするのです。私たちの仕事は、申した念仏を聞き取ることです。佛さまが、目覚めよと呼びかけて下さっている声を聞き取ることが、私たちの仕事であります。

                                           (つづく)