宗政報告No.29(2012年7月14日)
 被災されたご寺院・ご門徒の皆さんの復興はお進みでしょうか。

7月5日、大飯原発3号機は、発電・送電を開始しました。福島原発の事故の原因究明もなされず、大飯町の人たちの避難計画も立てられていないなか、野田首相が、再稼働を認める会見の席上、「国民の生活を守るため」という、理念も哲学も、国を託されているという気概もない、ご都合主義の理由を挙げた時には、憤りを通り越して気分が悪くなりました。
 ところで、これまで、宗派の原発に対する明確な見解を総長名でお出し願いたいと強く要望してきたにも関わらず、なかなか適わないことが続きましたが、今議会の最終日の12日、「大飯原子力発電所再稼働に関する声明」を、安原総長が読み上げられると議場は大きな拍手に包まれました。しかし、予想されたこととは言え、当然の如く原発が再稼働している今となっては、それも虚しいことのようにも思われるかしれませんが、宗門として明確な姿勢を社会に発信することは、大きな意義があると思います。
 これで、議会決議と総長の名告りによる宗派声明が整ったことになります。しかし、ただ、決議や声明を出すことだけでは、宗門としての責任を果たしたことにはならないのは言うまでもありません。これから、原発を日本から、そして地球から無くすには、具体的に宗門としてどのような運動を展開して行かねばならないかが、いよいよ問われています。


◎同朋会運動51年の方向、全く提示されず


 5月31日から6月12日の会期で、第56回宗議会が開かれました。1962年に真宗同朋会運動が提唱され、今年度は51年になります。つまり、新たな50年の出発の年度であります。そこで、誰もが新たな一歩に向けての何らかの方向が示されるものと期待していました。
 しかし、「同朋会運動推進に関する委員会」の報告書の紹介はありましたが、当局として、51年にあたって、今後の方向を提示するようなものは何一つ示されることはありませんでした。
 そこで、我々野党議員だけではなく、与党議員からも51年に向けての方向を提示するようにという質問が多く出されていました。いままでの与党の人たちの質問とはやや質の違うものを感じるほど、与党の人たちもかなりのフラストレーションを抱えているようでありました。
 ところで、51年に向けての方向を明らかにする前にやらねばならないことがあります。
 それは、いうまでもないことですが、この運動50年を総括することです。総括は、運動の歩みを確かめ直し、現状を把握することです。
 現状を把握することなく、今後の方向を求めようとする時、それは思いつきか、小手先の対策にならざるを得ないでしょう。


◎今こそ、時間を掛けて、教団あげて総括作業を

 同朋会運動が始動し、主に寺院・組・教区、そして宗務所を場として様々な取り組みがなされてきました。それぞれの場での運動を総括することの必要性を強く感じます。
 これまで、50年の運動の中で宗門的レベルで総括をしたのは、運動15年に実施したことだけではないでしょうか。そしてそこから、「古い宗門体質の克服」「現代社会との接点」「真宗門徒としての自覚と実践」という三つの課題が確認されました。
 15年には、仙台教区においても、講座を開設して、そこでアンケート調査をさせて頂くという、総括それ自体が運動の質を持ったものであったと思います。そしてそこから、「祖霊信仰のはざまで本尊を明らかにする」という教区テーマが見出されてきたように思います。総括は、歩みを確かめ、現状を把握するという作業に止まらず、それに関わる者を運動を歩む者として生み出していくということがあります。

 40年にも、宗務所から各教務所に総括の指示が出されましたが、仙台では、教化委員会の幹事さんがまとめられたと記憶しています。宗務所では、30教区の提出資料をもとに中央同朋会議を開催、その報告をもって40年の総括としましたが、到底、40年の総括とはいえるものではなかったと思います。ただ、形を整えたとしか見えませんでした。中でも、各教務所に指示はしても、宗務所自体の総括が全くありませんでした。

 少し時期的にはずれ込んだ感はありますが、これまでやってないのですからしかたないとして、時間とエネルギーをかけて、是非、全宗門的レベルで運動50年の総括作業を実施すべきであると思います。中でも、宗務所全体と言うより、各部署の総括が必要でしょう。それぞれの部署では、同朋会運動推進のために宗務に励んできたのでありましょうから、如何なる施策を講じ、どのように展開し、如何なる変化をなし得たのか、あるいは、何も実現できなっかたとすれば、どこに問題があったのか、等を検証する作業が必要でしょう。内部的には、そのような作業はやられてきたのでしょうが、内部資料とせず、宗門の課題とすることが重要でしょう。
 それはまた、教区・組においても同様の作業が求められるでしょう。
 そして、その作業が如何なる視座でなされるべきかといえば、同朋社会の顕現を推し進める運動を展開しえたのかどうかということになるのではないでしょうか。
 これらの作業抜きに50年以降の運動の方向は見いだせないと思います。
ればならないという重いものです。


◎12年度の仙台教区に対する支援内容

 仙台教区に対して、今年度も手厚い配慮が施されたと感謝しています。
 宗派経常費ご依頼につきましては、先んじて、諏訪・永井正副議長両氏が、所長・主計と共に減免のための陳情をしていただいていたことが功を奏したことでもあるのでしょうが、4000万円の減免が認められました。
 とは申せ、被災されたご寺院におかれましては、自坊復興の中、ご協力を頂くわけでして、厳しいことには変わりないかと存じます。

 復興支援としましては、教務所に併設されています、現地復興支援センターに一般会計より、2500万円が計上されました。全国から送って頂いた支援物資を有効活用するために、郡山に保管所を確保し、支援活動をより行いやすくすることもその活動の一環です。
 また、福島に対する支援として、宗派が保管している救援金より4000万円の拠出を決めています。その内訳は本山の青少幼年センターが主宰する北海道での福島の子どもたちを一時保養・避難させる事業に1800万円、全国の教区で、福島の子どもたちを受け容れてくれる支援を展開してくれていますが、一事業に付き上限50万円の助成として1500万円が予算だてされています。そして、原発で避難されている3ヶ寺への活動支援等であります。
 6月21日には、仙台教務所で、全国から子どもたちを一時保養のために受け容れ事業を実施あるいは計画している教区の担当者が連絡を取り合うために一堂に会しました。29教区の内26教区の担当者が集まってくれました。放射能の不安に悩みながら生活している福島の人たちを支援しようという全国からの多くの声には、大いに励まされます。


◎本山の御遠忌決算報告の1,2 

2011年11月のご正当報恩講を除いた本山での御遠忌事業の決算が出されました。その1,2についてご報告致します。
 1.大震災の影響
 3月に予定されていました御遠忌第1期法要が中止され、支援のつどいとして執行されました。
そのため法要経費等の軽減により、1億1,280万円が削減されました。
 ところで、震災翌日に予定されていましたオープニング行事は中止されましたが、すでに準備等が整えられていて経費削減にはならなかったということです。ただ適正であったのかどうか気になったのは、芸能関係の出演者に対して、中止になったにも関わらず、全額出演料を支払ったということです。震災という不可抗力によるものでありますから、いささか大盤振る舞いではなかったかと思われます。
 2.広報にかかった経費は、総額で15億5千万円ということです。その中には、同朋新聞の増ページ等による宗門内への広報費3億円がふくまれているということです。
 御遠忌を厳修する願いの一つに、大谷派という宗門を社会に向かって発信をし、その存在意義を鮮明にならしむるということがあったと思います。果たして、どれほど大谷派宗門を世の中に伝ええたのか。また、今後の宗門における広報のあり方が明らかになるような試みがどの程度なされたのか、これからの検証が必要と思われます。
 3.「カフェあいあう」ののべ参加者は8,110名でした。オープンスペースとして、総会所にあらゆる人が語り、出会える場を提供したことは本山を地域に開き、社会に開くうえから、大変大事な試みであったと思われます。今後とも、継続して頂きたい取り組みであります。


◎御遠忌会計より16億円を新たに計上
 
 御遠忌懇志ご依頼総額198億円に対し、219億2,600万円(12年5月末現在)のご懇志を納めていただきました。率にして、110%を越えます。このご門徒の負託に充分応える御遠忌を務めることが出来たのか、確かめ直すことが求められます。
 現在、阿弥陀堂・御影堂門の修復工事が行われています。また、今後、同朋会館の改修工事も御遠忌事業として施行されますので、現時点でこういう表現は相応しくありませんが、ひらたく言えば、御遠忌の余剰金として16億円をみ、次の4つの経費に充てるというものです。

 1.宗務改革推進資金に4億円。宗務改革の具体的な内容は、教区・組の改編、門徒戸数調査、そして財政改革ということです。そこで必要とされる作業は調査と会議が主なものとなるでしょうが、いつまで、どの程度の規模でやろうとしているのか明確ではありませんが、4億円を計上する事業であるのか大いに疑問です。

 2.御影堂西側整備及び本廟収骨施設整備に4億円。御影堂西側とは、御休息所、式務所渡り廊下、門首出仕廊下等の整備(1億8千万円)と、須弥壇収骨と言ってきた施設の整備費(2億2千万円)です。
 本廟収骨と名称変更を行いましたが、須弥壇収骨につきましては、議会でもその問題性の指摘がなされている中、当局は教学的意味を見いだせないまま、財政上必要だからという事情を優先させるかたちで、「本廟教化の柱」とまでいい、充分な議論もないところで、以前、1億1千万円をかけて拡充を図ったところであるのに、今回、改めて収骨施設の整備をしようというわけです。皆さんは、どのように考えられるでしょうか。 

 3.真宗教化センター建設資金に2億円。蓮師500回御遠忌に青少幼年センター設立準備金として10億円が確保されていましたが、準備室設置等で現在、8億1千万円あります。今回、真宗教化センターを設置するにあたり、同じ建物(教化総合施設)に青少幼年センターを併設することから、その金員を教化総合施設建設資金とし、そこに2億円を加え、10億1千万円を建設資金としようとするものです。

 4.両堂ご修復積立金に6億円。当初、将来の両堂の修復のための資金として10億円を見込んでいましたが、合計16億円を積立金として繰り入れるというものです。


◎教化センターについて

 真宗教化センターは、宗門における同朋会運動推進の本部的機能を果たし、同時に対外的には宗門の窓口として、講演会や法座を開き、教えを発信し、また相談窓口を設けて社会の声を聴き取り、また図書や教化資料を整理保存して資料室としての役割をも果たすものを目指しています。
 同朋会運動推進本部的任務といっても、ここから教区や組に指示を出すのではなく、教区や組において、運動を展開する上で必要とされる情報や資料を提供することで、教区や組をサポートすることが大きな業務となるでしょう。
 また、宗務所内の教化関係の各部署の連携が充分取れていない現状を克服することが、重要な業務になります。
 その、真宗教化センターと解放運動推進本部、青少幼年センター、そして教学研究所が入る建物を、教化総合施設といい、現在の大谷婦人会館の場所に新築することが、ほぼ決まりかけています。大谷婦人会館を耐震補強を施して改修することも検討されたようですが、新築するのと経費的には、それほど差がないということのようです。
 なお、大谷婦人会は、この度の国の法改正による公益法人の見直しを機に、法人を解散し、大谷派の外郭団体となり、組織部が所管します。大谷婦人会としての活動については、勿論これまで通りの聞法活動を中心に展開されることでしょう。


◎「福島差別」という表現について

 議会で確認したことの一つに、解放運動推進本部が配布したリーフレット「もう一つの原発問題」のなかの「福島差別」という表現の妥当性についてがあります。
 このリーフレットは原発被曝によって引きおこされる差別についての指摘であります。その差別を「福島差別」と表現することに大きな違和感を感じました。
 原発事故によって被曝した福島に対してされる差別であるから、「福島差別」と言おうということなのかも知れませんが、その表現をそのまま支持する解推の姿勢に大いに問題を感じます。
 残念ですが、県内でもそのような事例がありました。事故当初、いわき市から、安全と思われた中通りに避難した人たちが、給油や入店を断られたり、駐車中の車にいたずらされるということがありました。より線量の高い地域のものを忌避するということだったのでしょう。皮肉にも、実際は線量的には、いわきより中通りの方が数倍高かったのですが。もっともそのようなことは、中通りだけではなく県内の他の町でもありました。
 しかし、それは初期の混乱と放射能に対する誤解によるものと思われ、落ち着きを取り戻すとともに、県内ではその後、そのような事例は無くなりました。
 同様のことが、全国で起こったことは容易に想像できます。なかでも、会津地方の産品や県内の観光業等が大きなダメージを受けるという風評被害は深刻なものです。
 果たして、一年以上経った今も、避難先で福島の人たちが忌避されているという事象がどれ程あるのでしょうか。たぶん当初に比して、随分と少なくなっていると思われます。しかし、表面的な事例が少なくなったからと、被曝に対する差別がなくなったとは言い切れませんし、将来においての差別の可能性もあります。
 ただ、そのことを「福島差別」という表現する時、流動的で移ろいやすい差別事象を固定化し、実体化することにならないかと恐れます。
 なにより恐れることは、「福島差別」という表現が、もし一般化し、定着する時、福島の子どもたちは、その言葉をどのように受け取るかということです。
 福島は差別されるところなのだ、福島県人は差別されるのだ、と受け取るとすれば、ふるさとを誇ることなど出来るはずがありません。
 実際、「福島差別」という表現をみたものが、「そうか、県外では福島ということを隠さなくてはいかんのか」という反応を示していました。「福島差別」は、福島の子どもたちを勇気づけ、立ち上がる言葉としてはたらくどころか、大きな重しとして作用することにどれ程の配慮がなされたのでしょうか。
 また、「福島差別」という表現は、風評被害を解消する方向ではなく、「福島」というくくりで、被害を拡散させないかと心配です。
 
 誤解を避けるために付け加えますが、言葉を無くせば、差別がなくなるという乱暴なことを申すつもりもありませんし、被曝によって引き起こされる差別問題を軽視するということでも勿論ありません。この問題を、例えば原発被曝差別という言葉ではなく、「福島差別」と表現せねばならない必然性はどこにあるのかということを問いたいのです。原発被曝差別ではなく、「福島差別」と言わなければ、失われるもの、はっきりしないものとは何なのか。もし、そういうものがあるなら、そして、それが、差別の内実を明確にし、その差別を越えていく道筋が示されるのに重要であり、曖昧に出来ない内容であるなら、福島県人がどれ程不快な感情を持ったとしても、「福島差別」ということも大事な言葉として受け止めることが出来るでしょう。
 ただ勘弁に言い当てやすいと言う理由だけで、この表現を用いるとすれば、余りにも福島の人の思いを軽視するものと言えるでしょう。
 差別学習で教えられたことの一つに、相手の身にはなれないが、相手はそのことでどのように思うか、あるいは如何に感じるかを共感することのできる柔軟さ、今風にいえば共感力の大事さがあります。「福島差別」という表現は、どうも、そのことが欠如するところで発想された言葉に思えます。


《 あ と が き 》

宗憲では、議会は本派の最高議決機関であると位置付けられています。しかし、実際はそうはなっていず、行政の追認機関としてしか機能していないことを認めねばなりません。
 議決機関である議会を実現するためになんとかせねばならにと思っているのですが、力と智慧がなくて工夫が整いません。皆さんのお智慧をお借りいたしたいと切に思います。