ところが少し行ったとき、嘉十はさっきのやすんだところに、手拭を忘れて来たのに気がつきましたので、急いでまた引っ返しました。あのはんのきの黒い木立がじき近くに見えていて、そこまで戻るぐらい、なんの事でもないようでした。 けれども嘉十はぴたりとたちどまってしまいました。 それはたしかに鹿のけはいがしたのです。 鹿が少くても五六疋、湿っぽいはなづらをずうっと延ばして、しずかに歩いているらしいのでした。
 嘉十はすすきに触れないように気を付けながら、爪立てをして、そっと苔を踏んでそっちの方へ行きました。 たしかに鹿はさっきの栃の団子にやってきたのでした。


「はあ、鹿等ぁ、すぐに来たもな。」と嘉十は咽喉の中で、笑いながらつぶやきました。そしてからだをかがめて、そろりそろりと、そっちに近よって行きました。

一むらのすすきの陰から、嘉十はちょっと顔をだして、びっくりしてまたひっ込めました。六疋ばかりの鹿が、さっきの芝原を、ぐるぐるぐるぐる環になって廻っているのでした。嘉十はすすきの隙間から、息をこらしてのぞきました。 太陽が、ちょうど一本のはんのきの頂にかかっていましたので、その梢はあやしく青くひかり、まるで鹿の群を見おろしてじっと立っている青いいきもののようにおもわれました。すすきの穂も、一本ずつ銀いろにかがやき、鹿の毛並がことにその日はりっぱでした。

嘉十はよろこんで、そっと片膝をついてそれに見とれました。


                       



鹿は大きな環をつくって、ぐるくるぐるくる廻っていましたが、よく見るとどの鹿も環のまんなかの方に気がとられているようでした。その証拠には、頭も耳も眼もみんなそっちへ向いて、おまけにたびたび、いかにも引っぱられるように、よろよろと二足三足、環からはなれてそっちへ寄って行きそうにするのでした。

もちろん、その環のまんなかには、さっきの嘉十の栃の団子がひとかけ置いてあったのでしたが、鹿どものしきりに気にかけているのは決して団子ではなくて、そのとなりの草の上にくの字になって落ちている、嘉十の白い手拭らしいのでした。嘉十は痛い足をそっと手で曲げて、苔の上にきちんと座りました。

其の三  

**鹿踊り(ししおどり)のはじまり**
 其の二