ここ数日、明らかにミッターマイヤーはオーバーワーク気味だった。
どんなに忙しくしていても、今までなら土日を強制的にロイエンタールに休まされていたが、今回ばかりはそれすら拒否し、土曜も日曜も出勤していった。
なんとしても年内に論文をまとめたいと意気込んではいたが、さしものロイエンタールもこれでは不安になるのも無理はない。
もちろん「仕事と私とどっちが大事か」などとくだらないことを聞くほど大人げない行動を取れる訳もないのだが…。
「ミッターマイヤー、いい加減にしないと身体を壊してしまうぞ」
ばたばたと着替えをしながらバナナをもぐもぐさせているミッターマイヤーに、朝から恒例のしたくもない説教を試みる。
ミッターマイヤーはテーブルの上のミルクを一気飲みすると立ち止まり、弁当の包みを持って後ろを付いてくるロイエンタールを振り仰いだ。
しばしの沈黙の後「なあ、ロイエンタール?」となにやら逆に問い掛けてくる。
珍しい反応にロイエンタールは少し戸惑った。
「??」
「んー…」
なにやら言葉を探しあぐねているミッターマイヤーは、いきなり唇を奪われて目を見張った。
「おいっ」
「行ってらっしゃいのキス。ちゃんと食事を摂らないとダメだぞ、ヴォルフガング。こっちは温かいカフェオレだ」
キスと弁当とポットを渡される一連の動作に怒りの矛先をやんわりかわされ、ミッターマイヤーは拍子抜けしたように玄関へと向かう。
「…行ってくる。えと…」
ドアに手を掛けつつもくるりと振り向き、ミッターマイヤーは素早くロイエンタールの唇に唇を合わせた。
「愛してる。じゃ」
真っ赤になってミッターマイヤーは出掛けて行く。
ふんわりと幸せな気持ちになって、ロイエンタールは憮然としていた無表情を緩めた。
10月も終わりになれば日の暮れが早い。
数日来の荒れた天気も回復して、抜けるような青空の一日も終わり、西に傾いた太陽が眩しい。
定時に仕事を終えたロイエンタールが家路に就く為に駐車場への道を歩き始めると、鳩尾に響く気持ちの良いバイクのエンジン音が近付いてきた。
瞬く間に彼の前に止まったBMWから降り立ったのは、バイクスーツに身を固めたミッターマイヤーだった。
「ミッターマイヤー?」
「ロイエンタール。仕事終わったか?」
「あ、ああ」
「じゃ、行こう」
西日を遮る蜜色の髪がきらきらと踊っている。
いつもなら嫌がって後ろに乗せてくれないバイクに乗れと言う。
ロイエンタールは手渡された革のジャンパーに袖を通し、ヘルメットを被った。
「何処へ行くんだ?」
「内緒」
ウオォォンと一声嘶くと、バイクは勢い良く走り出した。
バイクは夕日を追い掛けながら高速道を駆け抜ける。
ミッターマイヤーはつくばから都内へ向かい、そこをも掠めてなおも走り続ける。
YOKOHAMAという文字が見えてくる頃には辺りはすっかり夜になり、高速から見渡せる夜景が美しかった。
そして、横浜港を一望できる高層ホテルの駐車場にバイクは吸い込まれて行く。
バイクを預け、エレベーターのドアの前で、うっすらと紅潮した顔でミッターマイヤーが振り向く。
「腹減ったな、ロイエンタール」
ロイエンタールは無言のまま説明を促した。
「今日は10月26日だろ」
「ああ」
「だから。誕生日おめでと、ロイエンタール。一緒にメシ食おう」
満面の笑顔を浮かべたミッターマイヤーの顔を、ロイエンタールはただただ見つめ続ける。
「もしかして、ミッターマイヤー。その為に…」
「今日のために頑張った。土日に出勤する言い訳ができなくて辛かった」
「そうか」
思わず抱き締めてしまいたくなった瞬間、エレベーターのドアが開く。
ミッターマイヤーが指定した階を目にしてロイエンタールは思わず聞いてみる。
「その階以上はクラブフロアだろう」
「うん。ベルゲングリューンに教えて貰ったんだ」
「なるほど」
まさかミッターマイヤーがこのような段取りに慣れているとは思えなかったのでやはりと言ったところでロイエンタールは納得した。
上層階のプライベートフロントでチェックインをして案内された部屋は最上階の、横浜港を一望できるスイートルーム。
広々としたリビングとベッドルーム、それにバスルームの落ち着いた部屋だった。
「ええと…」
「お荷物は届いております」と案内係に教えて貰った先には、きちんと着替えが置かれている。
「ありがとう」
派手だの何だのとロイエンタールが見立てた服にはなかなか袖を通そうとしないミッターマイヤーだったが、今夜はちゃんと用意をしてあった。
柔らかなパールホワイトのシャツブラウスの襟元には、ロイエンタールから誕生日に贈られた真珠とエメラルドをあしらったチョーカーが輝いている。
その鮮やかな緑色は、ミッターマイヤーの蜜色の髪によく映えて美しかった。
「お、おかしいか?」
「いや、よく似合う」
ロイエンタールは微笑んだ。
繊細な絹の襞と貴石の位置を直してやりながら、ロイエンタールは思わずミッターマイヤーを抱き締める。
「ヴォルフガング」
「こら、ロイエンタール。飯がまだだ」
「そんなもの要らない」
「おれは腹ぺこで死にそうなんだから」
ぐいぐいと締め付けてくるロイエンタールの腕を振り解き、ミッターマイヤーは慌てて上着を手にする。
「さ、行こう」
ロイエンタールはやれやれ、という仕草をしながらもここは大人しくミッターマイヤーに従うことにした。
その時点でこんな誕生日も悪くないと思いながら。