クリスマス休暇を故郷で過ごし、年も改まってからヴォルフガング・ミッターマイヤーは住まいと職場のあるつくば市へ帰ってきた。
昨年は人生の一大事がやたらめったら起きまくり、驚天動地の結婚まで決まってしまった彼は(まさか「男」と結婚すると報告しなければならないとは男に生まれて23年、全く考えていなかった訳だし)、どうにかそれを両親や一部の友人達に報告し、ささやかなクリスマスパーティを心ゆくまで楽しみ、例の如く冬山トラッキングを多分二人で一緒に行くのは最後になるかもしれない幼なじみのバイエルラインと行ってきた。
どうしても一緒に、とごねる問題の結婚相手、オスカー・フォン・ロイエンタールとはクリスマスパーティまでは同席したが、なにやら彼の家の方も慌ただしかったらしく結局呼び出されてミュンヘンへ行ってしまったきり、来日する今日まで顔を見ていない。
実のところミッターマイヤーは、少々ほっとしていた。
それでなくてもロイエンタールは彼の世話を焼きたがるし、必要以上にべたべたしたがるのに困惑してしまう。
ことに人前だと、もうどうして良いか判らないから、つい邪険な態度をしてしまったりもする。
その初々しさが稀代のプレイボーイ(だった)ロイエンタールを凄く喜ばせていることに全く気付かない、まだまだ男同士の「恋人」関係に慣れないミッターマイヤーなのだった。
ほう、とため息をひとつつき、バックパックを背中にしっかり背負い直してミッターマイヤーは歩き出した。
暫く歩いて3階建てのこぢんまりとした、アパートに毛が生えた程度の自宅マンションに辿り着き、自分の部屋の前で鍵をポケットから取り出して鍵穴に差し込む。
「あれ?」
鍵が開かない。
カチャカチャと回してみてもダメなようだ。
マンションの廊下は人気もなく、小さな所だからもちろん管理人もいない。
ミッターマイヤーは眉間に皺を寄せ自分を拒む扉を睨み付け、仕方なく回れ右をする。
とりあえず職場に行こう。
職場の仲間に挨拶して、何か暖かい飲み物でも口にしてから、管理会社に電話してみよう。
そう思い付くと、ミッターマイヤーは足早に階段を駆け下り、自転車置き場の奥に厳重に鎖で縛り付けておいた愛車に跨りペダルを漕ぎ出した。
ミッターマイヤーの悪い癖は、ひとつのことに集中すると他のことを綺麗に忘れ果ててしまうことだが、研究所に着くと仲間とわいわいとクリスマスや故郷の話をし(もちろんまだこっちで結婚する話はしていないから内緒にして)、中断していた研究テーマについてあれこれ資料を弄っているうちに、当然のことながら管理会社に電話することなど欠片も思い出すことはなかった。
その日もとっぷりと暮れ、空腹でへろへろになってからようやく鍵の開かない自分の部屋のことを思い出す始末。
「あああああっ、しまった」
だが、時既に遅し。
管理会社の電話は留守電テープが虚しく応えるだけ。
ミッターマイヤーはがっくりと肩を落とし、これからどうしようか途方に暮れた。
とぼとぼと自転車を押しながら研究所の門を出る。
吐く息の白さに思わずダウンジャケットの襟元を掻き合わせながら顔を上げると、ぶつかりそうな程の目の前に背の高い見慣れた姿…。
「ロイエンタール…」
「まったく。今まで何してたんだ?」
「何って仕事だよ。それよりロイエンタール、どうしよう、俺家に入れないんだ」
「当然だ」
「え?」
「おまえの部屋は引き払って引っ越したからな」
ロイエンタールは平然として呆然と佇むミッターマイヤーの手から自転車を取り上げると、さっさと畳んで車のトランクに突っ込んだ。
「引っ越しって、どういう意味だよ。俺、なんにも知らないぞ」
「説明は後だ。乗りなさい」
ロイエンタールは助手席のドアを開け、ミッターマイヤーが動くのをじっと待つ。
ミッターマイヤーは唇を尖らせ、促されるままに車に乗り込む。
車は滑るように宵闇に包まれた街中を走り出した。
「あれ、ロイエンタール、おまえの家、通り過ぎたぞ」
ミッターマイヤーは、曲がるはずの通りから見えるロイエンタールのマンションを見送った。
「うむ。市内で丁度良い物件を探すのに苦労した。おかげでベルゲングリューンはクリスマスに戻ってこられなかった」
「は?」
「着いたぞ」
市内でも賑やかな通りに面した高級マンションのエントランスから、車は地下の駐車場に入る。
「ここは…?」
「うむ。出来れば一緒に探しに来たかったが、どうしても新年は新居で迎えたかった」
ロイエンタールは、訳のわからないままのミッターマイヤーをまたもや促して車から降り、眩いくらい豪華なエントランスホールへと歩いて行く。
厳重なオートロックを暗唱ナンバーを打ち込んで解除して、ロイエンタールはぶ厚いガラスの扉を開き、ミッターマイヤーを招き入れる。
「合い鍵がまだ間に合わない…至急作らせているのだが」
エレベーターで押したボタンは最上階。
リン、と軽い音がして静かな廊下に出る。
ひとつ角を曲がり、アーチになったアルコーブの奥に扉。
ロイエンタールは、カチリ、と鍵を開け、まるで戸建て住宅のような真鍮色のバーを掴んで重厚な扉を引いた。
「どうぞ」
明るい、白い大理石風タイルの玄関、扉が鏡張りになっているウォークインクローゼット、上品な色合いのフローリングの廊下が奥に向かって続いている。
「ここって…」
ミッターマイヤーはようやくその質問を口にした…なんとなく、聞くのが怖かった。
「俺達の新居だ」
こともなげにロイエンタールは答え、さっさと中に入っていく。
「ミッターマイヤー、部屋にあった荷物はここに置いてある」
ロイエンタールは、入って直ぐの部屋を指さした。
ミッターマイヤーがそっと扉を開くと、薄暗い部屋の中にきっちり自分の家にあった荷物が積み上げられている…とは言え、小さな部屋に収まるくらいしか持っていなかったのだが。
とりあえず荷物の無事を確認し、ほっとしてミッターマイヤーはロイエンタールの後を追った。
「おい、ロイエンタール、俺達の、ってなんだよ」
ひとつの疑問を乗り越えて、俄然ミッターマイヤーの脳みそは活動を始めている。
駆け込むように磨りガラスの填った扉を開くと、そこは広くて明るいリビングルームだった。
「ようこそ」
扉の横に待ち伏せるようにロイエンタールは立っていて、さりげなくミッターマイヤーの手を取ると、そっとその甲に唇を寄せた。
間近に伏せられた長い睫毛がゆっくりと開き、希なる美しい二色の瞳の視線が彼を捉える。
一瞬、かちん、と固まり、だが次の瞬間、はっ、と我に返り、ミッターマイヤーはその手を振り解くと真っ赤になって声を上げる。
「聞いてないぞ、そんなこと!」
「言ってないからな」
珍しいくらい相好を崩してロイエンタールが微笑む。
キスとにっこりという不意打ち二連発で、もうミッターマイヤーに反撃の余裕はない。
咄嗟に出て来る言葉がどうしても見つからず、徒に瞬きを繰り返し、金魚のように口をぱくぱくとしたまま、ここ数十分の間に起きた出来事を反芻するだけだ。
「とにかく、食事にしよう。腹が減っただろう。細かい説明は食事しながらするから」
「うー」
「手を洗っておいで。サラダの仕上げを手伝ってくれるとありがたい」
「…うん」
実はロイエンタールは、今日一日かけて二人の愛の巣を整え、家がないのに連絡を寄越しもしないミッターマイヤーが、何もかも忘れて仕事にかまけていて滅茶苦茶お腹を減らしているだろうと予想して、せっせと食事の支度を整えていた。
あまりにも予想通りの展開に、微笑みたくもなるというもの。
それでも。
美味しそうに整えられたテーブルの上のご馳走に、とりあえず気持ちを切り替えると、表情が緩んでしまうミッターマイヤーなのだった。
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