闇の向こうに、待っている人がいた。
もう、生きて会えることが叶わないことは判っていた。
それでも、その人はただひたすら、願いを抱き待っていた。
「……は、ずっと待っておいででした」
少年の涙声が、赤ん坊の鳴き声が、幾重にも谺する。
会いたかったのに。
何故、あの手を放してしまったのだろう。
何故、あんなに遠く離れてしまったのだろう。
無限の闇が嘲笑う。
放したのはおまえ。
離れていったのはおまえ。
──裏切り者はおまえ。
否定の言葉はない。
そして、また、繰り返し同じ夢が始まる。
悪夢の輪廻が途切れると、息苦しさに目が覚める。
深い夏の夜は、まだ夜明けには遠く、汗ばんだ躰に重苦しい。
ふと気付けば、闇の向こうに、誰かがいる。
息づかいが感じられる訳ではない。
漆黒の闇の中だというのにこちらを窺う気配がするのだ。
かといって、恐ろしい訳でも怪しい訳でもない。
ただ、そこにいる。
まるで見守っているかのようなその気配は何故だかとても懐かしかった。
いつしか誘われて眠りにつく瞬間、鼻孔を掠めた香りは哀しいほどの安らぎを与えてくれた。
その夜の悪夢はそこで途切れた。
それは誰にでも起こりうるような、ほんのささいな自動車事故だった。
だが、ハンドルを握っていた女性は即死し、最愛の妻を失った男と、母を失った子供が残された。
悲嘆にくれる家族の姿は、あまねく銀河帝国全土に知れ渡った。死んだ妻の夫は、現時点で銀河帝国最高の権力を持つ男、首席元帥ウォルフガング・ミッターマイヤーだった。
平民宰相の妻は、夫と同じく厳重な警備を嫌い、何時も自らハンドルを握り気軽に何処へでも出掛けていた。あってはならない、地上車の整備不良、が事故の原因とされた。
それでもしばらくミッターマイヤーは、激務に身を置き崩れそうになる精神のバランスを保とうと努力してきた。だが、その肉体的精神的なストレスを内から癒してくれていたエヴァンゼリンの存在を失ったことはあまりにも大きく、夏を迎えようとするある日、鋼鉄の色に比されたグレイの瞳は光を失った。
「静かで良いところですね、閣下。それに、素晴らしい建物ですし」
ミッターマイヤーの忠実な部下、カール・エドワルド・バイエルラインは努めて明るい声で話しかけた。
ミッターマイヤーは、療養中ということもあって、白い麻の開襟シャツと揃いのパンツ姿で窓辺に佇んでいた。眩しい夏の光は蜂蜜色の髪に乱反射して、その面差しや小柄な肢体を少年のように見せている。
旧首都星オーディンの市街から数時間、森と湖に囲まれた静かな場所にある古い石造りのホテル。昔、貴族の別荘だった城を買い取ってホテルに作り替えたのは、ロイエンタールの父親だった。彼はそこを城の雰囲気はそのままに、豪奢ではあったが華美にならない程度の内装と最新の設備と格式のあるもてなしとで、一流のホテルに仕立てあげていた。
本館から少し歩いたところに、森の木々に抱かれるようにしてひっそりと離れが建っている。世話をする者もごく一部の限られた従業員と、選りすぐりの警備の人間が出入りするだけの場所で、今、ミッターマイヤーは療養生活を送っていた。
「このホテルの実質的な名義はフェリックスのものになっている。もともとロイエンタール家が所有しているものだから。オーディンには俺の実家もあるし、こっちへ来たときはよく利用しているよ」
「閣下がご養生なさるのにはちょうどいいですね。…それで、目の具合はいかがですか」
「同じだよ。何も見えない」
「…そうですか……」
もう何度同じ質問をし、何度落胆しているというのだろう。そんなバイエルラインの表情が手に取るように判るような気がして、ミッターマイヤーは可笑しかった。
「見えるようになったら、卿に一番に知らせるからと言っているだろう」
「え、あ、申し訳ありません、つい。…でも、閣下、目のご病気ではないのですから、きっとすぐにも良くなりますよ」
「心配かけて済まない。皆にも謝っておいてくれ」
──治さなくては、治らなくてはならないのだ。
これは精神的なものだと医者も言った。
「閣下のお気持ち次第」だと。
──理解っている。自分は逃げているのだ。
過去からも、未来からも、現在からも。
──置いて行ってくれればいい。
時に置き去りにされ、誰からも忘れられ、このままひっそりとここに埋もれてしまいたい。
闇は、滓のように積み重なって彼の瞳を覆いつくしている。
今のミッターマイヤーには、その滓を取り除き立ち直る意思もなく、その理由も持てなかった。
それほど、彼は疲れていた。
「閣下、それと、例のテロリストの件ですが」
バイエルラインの声に緊張が走る。ミッターマイヤーも思わず表情を引き締めた。
新帝国の混乱を狙ったテロ行為は、けして少なくない。首席元帥たる自分、ミッターマイヤーを狙った計画もかなりの頻度で発覚している。もちろん、その躰に掠り傷ひとつ付けることも出来ずに計画は潰されていたが、ミッターマイヤーが視力を失い療養生活の為に首都フェザーンからこのオーディンへ移っていることも、そういう訳でトップシークレットだった。
「メンバーと思われる人間が、このオーディンに入り込んでいることが確認されました。やはり内通している人間がいますね。申し訳ありませんがこの地域にも厳戒体制を敷かせていただきます。もちろん、私がすべて手配しますので」
バイエルラインの言葉は、子飼いの者以外信用できないという意味だ。帝国内部に内通者がいる。ミッターマイヤーは、背中にぞくりと寒けが走るのを覚えるとともに、沢山の同胞や人々の血を流して手に入れ、己れの何もかもを犠牲にして守ってきた、守ることを強いられてきた巨大な帝国の平和が、虚ろな砂上の楼閣に思えてくる。
さりとてこんな自分の命でも、手に入れた平和と引換えに再び戦火の最中に何億もの人間を放り込む道に繋がる卑劣なテロ行為に易々とくれてやる気は露ほどもない。
心の内に抱える矛盾が、益々ミッターマイヤーを疲労に追い込む。そして、そんな疲れている自分がたまらなく疎ましいミッターマイヤーだった。
「…下、ミッターマイヤー閣下。如何なされましたか?」
物思いの深い泥沼にはまり込もうとしていたミッターマイヤーを、バイエルラインの声が引き止める。
「あ、ああ。すまん、バイエルライン。少し疲れたみたいだ」
「困るな、バイエルライン提督。父さんはここに療養に来ているのに」
申し訳ありません、と身を竦めようとしたバイエルラインとミッターマイヤーの間に子供の姿が割り込んだ。
いったい何時からここにいたのだろう。確かに広い部屋ではあったが、何の物音も気配もなく入ってきた少年は、当然のように窓辺に佇むミッターマイヤーの脇に寄り添い、指先を絡ませるような仕種をした。
「フェリックス。バイエルラインは父さんの身を案じてくれているんだよ」
「父さんは僕が守るよ」
フェリックス・ミッターマイヤー。
オスカー・フォン・ロイエンタールの忘れ形見は、真夏の空色をした大きな瞳から挑むような視線をバイエルラインに向けている。横の成長が縦の成長にに追いつかず、手足ばかりがひょろりと長く感じられ、陽に晒されて淡い茶色に輝いている乱れた癖のない髪や、健康そうに日焼けしているその姿は、どうみても今年でちょうど十歳になる少年だった。だが、その整った顔立ちは、多分もう何年かすれば間違いなくかの人そっくりになると思われた。
バイエルラインは、その昔よくこうしてミッターマイヤーとの時間を、ロイエンタールにからかわれ邪魔されたことをほろ苦く思い出した。フェリックスの存在は、それほど印象的だった。
「では、閣下のことをよろしくお願いいたします。閣下、お大事になさってください。自分はこれで失礼いたします」
バイエルラインは、ミッターマイヤーに向き直り姿勢を正して敬礼した。何年経とうとも、彼がミッターマイヤーを敬愛する気持ちに少しも変わりはない。虚空を見つめるミッターマイヤーのガラスの瞳に一日も早く視力が戻り、視力とともに失われてしまった内なる輝きを取り戻して欲しいと願わずにいられないバイエルラインだった。
「ウォルフ、出掛けるの?」
フェリックスは、庭に面した硝子の扉の把手を探っているミッターマイヤーの手を握りしめた。
「ああ、ちょっと散歩してくるよ」
「僕も一緒に行く」
「大丈夫だ。もう一人でもだいぶ慣れたし…。フェリックス、あまり父さんを甘やかさないでくれないか」
笑顔の中にそれ以上の申し出を厳しく拒む表情を見つけ、もっと甘えてくれていいのに、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。その小柄な躰に背負いこんだ物はあまりに重すぎて今にも崩れそうになっているというのに、彼は誰の手も取ろうとせず、頑に一人でいることを望んでいる。フェリックスは、こんな子供でしかない、彼の杖にさえなれない自分が悔しかった。
「…待ってて、今杖を取ってくるから」
フェリックスは、小走りに部屋を横切り杖を手にすると、それをそっとミッターマイヤーの手に握らせた。
「何かあったら大きな声で呼んでね、ウォルフ」
「ありがとう。すぐ戻るよ」
さくりと夏草を踏む足音と、白い背中が遠ざかる。
誰が呼んだのだろう、あの痩せた小さな人のことを『怪物』などと。フェリックスは、開け放たれた扉の前に立ち、木漏れ日に濃い蜜色の髪がきらきらと光りながら視界の外へ消えてゆくのをただ黙って見つめていた。
目は見えなくても、山から湖へ吹き下ろす風や、緑のアーチをくぐり抜けて届く陽光を肌に感じることは出来る。
木々のざわめきや、鳥の囀りや、虫の音が謳う、生命の歓喜を聞くことが出来る。
ミッターマイヤーは、樫の大木に凭れて深く息を吐いた。
──闇の中にいるのは恐ろしい。
視界を覆う闇の恐怖にも増して、気が狂うほどの後悔と罪悪感が、彼を闇の世界に捉えて離さない。
大切な人、愛した人、指の間から沢山の命が零れ落ちていった。その幾つかを、自分はその気になれば救うことができた筈だった。人の命を駒のように使い、楯にし、屍を踏み越えて歩いてきた。そして、それをさも正当なことのように振る舞ってきた愚かな男。今の自分には、いっそこの暗闇こそが居心地良い。闇がいつもこんなに近くにあることすら今まで気付かなかった。
流れ落ちる汗が冷たい。
瞼を開いても、そして閉じても、広がるのはただ厚い闇ばかりだ。
ミッターマイヤーは、しばらく喘ぐようにして息をついていた。
「大丈夫ですか?ご気分が悪そうですが…」
静かな低い、耳触りの良い声が優しく尋ねるとともに、肩に暖かな手が触れた。ミッターマイヤーは、ようやく我に返ると顔を上げて引きつるように微笑んだ。
「なんでもありません。大丈夫です」
ふと、鼻先に柔らかな香りがたった。その香りを吸い込むと、重たかった躰が嘘のように軽くなる。
──あれ?これは……。
「そろそろ戻られたほうが良いでしょう。送って差し上げますよ」
男は、ミッターマイヤーの両肩を抱くようにして躰を寄せた。不思議な安堵感に包まれたのは、その男の背が高く、かなり体格も良いと感じたからだろうか。
「足元に気をつけて」
片腕で肩を抱き、もう片方の手がミッターマイヤーの手に添えられる。ミッターマイヤーは、控えめだがしっかりとした介助をしてくれる男の温もりと、鼻孔をくすぐる香りとともにゆっくりと歩きだした。
男の温もりが消え、歩いた距離と気配で離れの庭先に戻ったことを知る。
「ありがとう。お礼と言ってはなんですが、お茶でも召し上がって行きませんか…」
「ウォルフ!どうしたの、大丈夫だった?」
「どうしたんだ?フェリックス、そんなに騒いで」
「どうしたじゃないでしょう。あんまり遅いんで探しに行ったら、大樫の所に杖が転がっているし、ウォルフはいないし、びっくりしちゃったよ」
「すまなかったな。途中で杖が行方不明になって、この人に送ってもらったんだ」
「この人って?」
「え、いない?お礼をしようと思っていたのに…」
ぼんやりとしているミッターマイヤーの青白い顔に、フェリックスはやっぱり付いて行けばよかったと後悔した。
「閣下、ご無事でいらっしゃいましたか」
制服姿のSPが、庭に駆け込んできた。
「なあんだ、SPの人のこと?父さんの護衛の人が連れてきてくれたんだよ。駄目だよ、皆に心配掛けちゃ」
フェリックスの安堵の声に、ミッターマイヤーは曖昧に笑った。
──この声じゃない。じゃ、誰だったのだろう?
「さあ、父さん、お茶が入っているから中に入ろう。顔色が悪いもの」
ミッターマイヤーは、疑念の袋小路を後にした。闇の中に答えはない。あの微かな香りのこともすぐに忘れてしまった。
泣き声が聞こえる。
あれは、女性の泣き声。
知っていた。
ずっと泣いていた君。
ずっと待っていた君。
待つだけで過ごした君の虚しい時間を償う術を俺は知らない。
許してくれなどと口には出来ない。
許して欲しいとも思わない。
ああ、また泣き声が聞こえる。
今度は、赤ん坊の声。
おまえは許してくれるのか?
おまえの父親を殺したこの俺を。
いつか償いを求められたら、この命はくれてやる。
それまできっと、待っているから…。
──だから、すまない。みんな……。
「ミッターマイヤー」
──俺を呼ばないでくれ。
「ミッターマイヤー」
──その声で、俺を呼ぶな!
「ミッターマイヤー」
──止めろ、ロイエンタール!
がばっと身を起こした反動で、ベッドから落ちそうになったミッターマイヤーは、夏用の夜具にしがみついて激しい息を宥めた。全身に汗をかいているというのに、震える指先が冷たい。
頬に汗ではないものが流れ落ちるのに気付き、おぼつかない指先で辿ってみて、ミッターマイヤーは初めて自分が泣いていたことに気付く。
「俺は……」
幾重にも降りているはずの闇の中で、その気配がゆらめいた。
──そこに、……いるのか?
「俺は、まだ夢を見ているらしいな」
「つらい夢ばかり、見ているのか…」
声とともに暖かい手が重ねられた。はっとして引っ込めようとすると、僅かに強く握り締められる。たったそれだけのことなのに、永い間こんなふうに人に手を握ってもらうことなど忘れていたことに思い至る。
「俺のせいだ…」
「判っている。何も言わなくていい」
ポトリ、と涙が零れ落ちて触れ合う二人の手の上で弾けた。
「俺のせいでこんな…」
「そんなふうに自分を追い詰めるものではない」
ふいに、声の主がミッターマイヤーの肩を抱いた。抱き締められた腕の中、ふわりとあの香りが漂ってくる。
──どうして懐かしいんだろう。この香り…。この声は…。
それは、きっと夢だと思った。
だがそれは、優しく儚い夢だった。