夏闇の香 2



その日も、ミッターマイヤーは一人で散歩に出た。野苺を摘んで帰ったら必ず一緒に行くから、というフェリックスを待たずに。
「閣下」
声を掛けられて、ミッターマイヤーは立ち止まる。彼に近付くのに気配を殺していたのか、それとも隠れて待っていたのか、声を掛けた男はびっくりするほど近くにいた。
「ミッターマイヤー元帥閣下ですね」
「そうだ。…俺は、ここに誰も招待した覚えはない」
「それはそうだ。我々は招かれざる客なのだから」
我々と名乗ってはいたが、相手の気配は一人だった。どこかで囮が動いているのかどうかは定かではなかったが、厳重な警備の中、ここまで複数の人間が忍び込めるとは思わない。だが、今のミッターマイヤーは、素手の子供を相手にしても勝つことが叶わない。
「ご一緒に来ていただきましょうか。湖が貴方を待っている」
「何故飛び道具を使わない?その方が手っとり早いだろうに」
「飛び道具など持っていたらここまで来れやしない。それにそうなったら犯人が必要になる。貴方は目を患った挙げ句、哀れ足を滑らせて湖で溺死する。これは殺人ではなく事故なんですよ」
男に促され、ミッターマイヤーは歩きだした。
今、ミッターマイヤーの目の前にいる男は、そう名乗らずとも新帝国内部の人間であることを告げている。招かれざる客がここにいることが、すなわち情報漏洩以外の何ものでもないのだ。幼い皇帝に代わり権力の座に付くこと、ミッターマイヤーの地位を狙い、新帝国の土台を揺るがしかねない権力闘争が既に始まっていることを示唆している。
「すでに足元から腐り始めているというのか…」
ミッターマイヤーの言葉に、男は笑った。
「腐っているのは、そっちだろう。貴方さえいなくなれば、まだ帝国は再生できる」
葉ずれの音が止み、吹き渡る風に湿った匂いを感じ、湖を見おろす小高い丘の上まで来たことを知る。
「この辺でいいだろう」
言葉の終わらぬうちに男は動いていた。
軽くその背を押しさえすれば事は済む。宙に投げ出されながらも、辛うじてミッターマイヤーの手は崖っぷちを捉えた。
「そうだ、冥土の土産に教えてやろう。おまえの大切な奥方が死んだのはどう調べても自動車事故だった筈だ」
「……まさか」
「そうだ。事故にするために随分工夫したがな。さあ、死ね、ミッターマイヤー。奥方が待っているぞ」
男の言葉に、怒りの炎がミッターマイヤーの全身に駆け抜けた。だが、宙づりのままでは反撃のしようもない。その上、男は靴の踵でミッターマイヤーの手を激しく踏み潰そうとする。
「く、そ…っ、貴様ら…」
なかなか落ちないミッターマイヤーに業を煮やした男が蹴りを入れると、激痛とともに爪が剥がれる。それでも、ミッターマイヤーは手を離そうとしなかった。
「この、人殺しっ!」
叫び声がして男は振り向いた。その瞬間、弾丸のように駆けてきたフェリックスが、男に猛然とタックルをかけてごろごろと草の上を転がった。
「チビめ!邪魔をするなら貴様も一緒に湖に放り込んでやる」
男がフェリックスを押さえ込もうとしたとき、幾つもの銃口が己れに向けられていることを知った。見晴らしのいい湖畔に立ったとき、気付いた警備陣が忍び寄って来ていたのだ。
フェリックスは、素早く立ち上がると、ミッターマイヤーに駆け寄った。
「ウォルフ、父さん、大丈夫だった?」
「殺せっ、その男を殺してしまえ!」
ミッターマイヤーの叫び声に、一瞬辺りは静まり返る。だが、捕らわれた男は狂ったように笑いながら奥歯にしこんだ毒薬を噛み砕いた。
「危険な目にお合わせして申し訳ありませんでした」
ミッターマイヤーを助け上げた警備兵が、血の滲む手に白いハンカチを当てる。
「いや、気にしなくていい。俺も油断していたが、随分ヤキが回ってしまったようだ。フェリックス、おまえのおかげで助かったよ。ありがとう」
フェリックスは興奮して紅潮した顔で、えへへと照れ笑いした。
ミッターマイヤーの激昂ぶりにたじろいでいたフェリックスだったが、その顔に微笑みが戻るとほっとしたように側へ寄り添った。
ミッターマイヤーは、ようやく落ちついて辺りの気配を窺うと、風に乗っていつもより強くあの香りを感じた。
「フェリックス、おまえ、コロンか何か使っているのか?」
「コロン?ああ、この匂い」
フェリックスは、くんくんと鼻を鳴らした。
「僕さ、この崖に通じる下の道を歩いて帰るところだったの。そうしたら、ちょうどこの先の別れ道のところで、このいい匂いがして、何が何だかわからなけど、ついふらふらと付いて来ちゃったんだよ。そしたら、ウォルフがその男に突き落とされそうになってたって訳さ」
──フェリックスを連れて来てくれたのか。
結局、刺客は死んだ。首謀者は判明しなかったが、ミッターマイヤーは帝国内部に新たな火種が燻りはじめたのを自覚せざるをえなかった。

事件を聞いてすっ飛んで来たバイエルラインは、ミッターマイヤーの手の白い包帯に目を剥いた。
「本当に、本当に、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、バイエルライン。…俺がいつまでもだらしないばかりに、皆に迷惑をかけて申し訳ない」
自分が側にいれば掠り傷ひとつ負わせなかったのに、と唇を噛みしめながら、バイエルラインは警備担当者を怒鳴り飛ばした。
そして、後の警備を再び綿密に打ち合わせ、再び慌ただしくオーディンを後にした。ミッターマイヤーのいない席を埋めるのは容易なことではなかったが、その帰りを待ちながら、皆必死に働いてくれている。いつまでもこうしていられないことは、ミッターマイヤー自身が一番良く判っていた。
「奥様の件はもう一度良く調べなおすよう命令しておきます」
バイエルラインは、言い辛そうにそう付け加えた。
「ああ、頼む」
──でも、もうエヴァは帰ってこない。
あの軽やかな肢体も、優しい笑顔も、永遠に失われてしまった。
──俺の為に、すまない…、エヴァンゼリン。
残ったものは、虚無の荒野だけだった。

「おやすみ、ウォルフ」
フェリックスは、ベッドに身を起こして枕に背を預けているミッターマイヤーの青白い頬に唇を寄せた。
「おやすみ、フェリックス。今日はありがとう。あ、悪いんだが、スタンドの灯を一番小さくして残しておいてくれないか」
「え、どうして?目、見えるようになったの?」
「いや、そういう訳ではないんだが…、頼むよ」
疲れているようなミッターマイヤーにそれ以上追求することもなく、フェリックスは灯を小さく落として部屋を出た。

ミッターマイヤーは、浅い眠りを繰り返し、夜半またあの気配をはっきりと感じて目を覚ました。
「おまえの姿が見たくて、灯を付けておいてもらったんだが、やっぱり何も見えないな」
身を起こしミッターマイヤーの差し延べた手に、暖かい手が触れた。
「俺の手は、暖かいか?」
深く澄んだ低い声。
懐かしい響き。
「ああ……」
顎を、頬を、さらさらと指先が掠めてゆく。
やがて唇に、ほんの一瞬唇が触れ、離れていった。
「ミッターマイヤー…、俺を感じるか?」
「…ああ…」
ベッドに体重がかかり、ミッターマイヤーの両肩が広い胸の中にすっぽりと納まった。
「俺が、ここにいると信じてくれるか?」
胸郭を通じて聞く声はあまりにも懐かしい。
「…信じるよ」
少し伸び気味の髪に、指が絡まる。いつか、こうして髪を弄ばれたことがあった。ミッターマイヤーは、こみ上げてくるものを必死に堪えた。
「どうした?ミッターマイヤー、おまえがこんな所で迷いの淵に沈んでいてどうする?俺は、おまえに全てを委ねたはずではなかったのか」
──知っていた。この声、この腕。ここにいる男のことを、何もかも。
「ロイエンタール…」
その名前とともに、堰を切ったようにミッターマイヤーの頬を涙が伝う。
思い出したのはその香り。何時もほんの微かに身に纏っていたこの香りは、こうして腕の中にでも抱かれない限り感じることの無かったロイエンタールの香りだった。
「もう、いいだろう。ミッターマイヤー」
「ロイエンタール…、ロイエンタール…」
繰り返し名を呼ぶと、ロイエンタールは指先で髪を撫で、そして、頬を濡らす涙を暖かい唇で拭ってくれた。やがて、静かに降りてきた唇が、再びゆっくりと重ねられた。
エヴァの死の真相を聞かされ、一時激情に身を委ねはしたが、あの時ミッターマイヤーは、死にたいとさえ願ったのだ。
「ここから落ちれば楽になれる」と。
一人でいることに疲れていた。
ずっと、誰かの手が欲しかった。
誰かの手に縋りたかった。
誰かの腕に身を委ねたかった。
「俺の手は暖かいか?ミッターマイヤー」
「…あ、あぁ…」
寛げられた襟元に素肌が重ねられる。今も記憶に鮮やかな、ロイエンタールの温もり。
「俺を感じるか?ミッターマイヤー」
「…う……」
目も眩むばかりの安堵感に包まれて、ミッターマイヤーは泣いた。すすり泣きは次第に密やかな喘ぎに変わる。
「ミッターマイヤー、愛している。おまえの為だけにここにいる」
ロイエンタールを深く受入れ、ミッターマイヤーは言葉を紡ぐことすらままならない。
甘い吐息が、闇に吸い込まれては消えてゆく。
永遠にと乞い願う、夏の夜の夢。


ほどなく、ミッターマイヤーは光を取り戻した。
風はもう、夏の終わりを告げている。
「ウォルフ、父さん、いきなり無理しちゃ駄目だよ」
学校の新学期の為、一足先に帰り支度をしていた筈のフェリックスが、芳しいコーヒーの香りと共に、書斎に顔を出した。ミッターマイヤーは開いていた端末の蓋をパタンと閉じる。
ぼつぼつと仕事を再会する為に、FTL回線を引かせたのだった。
「無理はしていないよ。でも、バイエルライン達のことを考えるとじっとしていられないから」
「バイエルライン提督は、それが趣味だもの」
「…何か言ったか、フェリックス?」
ミッターマイヤーの綺麗なグレイの瞳が、真っ直ぐに自分を捉えている。力強く、揺るぎない、澄んだ淡いグレイ。フェリックスは、その輝きが心底好きだった。
まだ強い陽射しは目に悪い為、薄いカーテンのかかったままの部屋は、ぼんやりと闇が降りている。三方を書棚に囲まれた天井の高いその部屋は、とても居心地がいい。
コーヒーの香りと静寂に包まれた部屋の中にパタリと物音がして、二人は同時に振り返った。磨かれた大理石の床の上に、一冊の本が落ちている。
「どうしたんだろ」
拾い上げた本の間から、何かがひらひらと零れ落ちた。
「ウォルフ、これ……」
フェリックスの手には、ラフな洋服姿の青年が微笑みながら写っている古めかしい二次元写真があった。
「これは……」
ミッターマイヤーは、ロイエンタールと二人でこの離れに遊びにきたことを思い出した。
まだ若かったころ、短い休暇を楽しむために、地上車を飛ばしてここまで来たことが何度かあった。城をホテルに改装するときに出てきた骨董品は離れに保管されていて、何にでも興味を示すミッターマイヤーは、その中にあった旧式の二次元カメラをいじるのが好きだった。
たった一枚、気付かれないようにそっとシャッターを切った、若々しく微笑むロイエンタールの顔。
あんまり良く撮れていたので自慢げに見せたら、怒ったように取り上げられてしまった。
「とっくに捨てられちゃったかと思っていたのに」
ふっ、と焚き染めてあったかのように、香りが立った。
──ありがとう、ロイエンタール。
──俺は、もう大丈夫だ。

後悔はすまい。
自らが選んだ道を。
忘れえぬ夏が過ぎてゆく。
ウォルフガング・ミッターマイヤーは、再びひとり、面を上げて歩いてゆく。
その時がくるまで、二度と立ち止まることもなく。

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