ロスマリーン2 by DEDI



「ウォルフ、またお屋敷へ行くのか?」
「ベンヤミン兄さん」ウォルフガングは、戸口を振り返り、そこに年上の従兄弟を認め笑った。「ああ、行くよ。伯爵に課題を貰ったんだ。今日中に届けなくちゃ。明日には遠征に行かれてしまうからね」答えて再びファイルを揃え始める。
「おまえ、まだ夢みたいな事考えているんじゃないだろうな」
庭園の図面入れやら、挿し木のプランターやらが所狭しと置かれた作業場に入ってきて、黒髪の青年は机の上から落ちた一枚を拾い上げた。
「ありがとう」
ウォルフガングが受け取ろうとすると、ベンヤミンは土で汚れた作業着の袖をさっと頭上にかざした。
「答えろよ」
「何が」ウォルフガングは蜂蜜色の髪を揺すって、明るく従兄弟を見上げる。
「いくら叔父さんの腕が良くたって、庭師は庭師だ。その息子が士官学校など行けるわけないだろう。それに、時期が来れば嫌でも徴兵にとられるんだ」
「そんなこと…判っているよ。おれだってもうそんな子供じゃない」
確かに、将軍の語る様々な戦の話を喜んで聞いていた頃は、ウォルフガングも同じように宇宙を馳せる夢を持っていた。しかし、学校へ通うようになってすぐに彼は悟ったのである。士官学校などという所へ行けるのは、金持ちや貴族という一部特権階級の子弟のみである事を。
「じゃあ、なんで行く」
「いいじゃないか、好きなんだから。だからといって、父さんの手伝いを怠けたりしてないよ。学校を出たら後を継ぐ。今勉強してどこがいけない」
自分よりひとまわりもふたまわりも大きい躰に立ち向かう。灰色の瞳に強い意志をこめて。
ベンヤミンは、一瞬気押されたようにたじろいだが、気を取り直して続ける。
「おまえは、知っているか?ミッターマイヤーは、ひとり息子を貴族に差し出して仕事を貰ってい…」
「止めろッ!」ウォルフガングは従兄弟の襟元に飛びつき、先を言わせなかった。
「それ以上言ったらただじゃおかないからな」その小さな躰のどこにそんな力が秘められているのだろうか、灰色の瞳に怒りを滾らせ従兄弟の襟を締め上げる。
「父さんや、伯爵を侮辱するな」
ベンヤミンは、息を詰まらせて顔を歪める。だが、ひるまない。
「おれが言ってるんじゃない」
「黙れ」
襟元を掴んだ手を払おうともせずに、睨み合ったまま、ベンヤミンはなおも話を続ける。
「聞けよッ。おれは、おまえや叔父さんを良く知ってるからな、それが本当のことじゃないことぐらい判ってる。だが、みんなが噂しているのも本当だ。誰だって不思議に思うさ。わざわざ庭師の家まで迎えの車を寄越して子供を連れに来るなんて、到底普通じゃない。おまえは、それが当たり前だと思ってるのか?」
ウォルフガングは、反論できない悔しさと恥ずかしさに言葉を失う。
「叔父さんの口から、伯爵に直接断る事は出来ない。だから、おまえが言うんだ、もう迎えを寄越さないでくれと。勉強は、今の学校で充分だろう。俺達には、それ以上は必要ないんだよ」
「どうして…だよ。おれは、知りたいよ、もっともっと色々な事。どおして、必要ないんだよ。どおして、そんな事いうんだよ。金持ちの子とおれたちと何が違うっていうんだ」悔しくて悔しくて堪らないという風に、唇を震わせてウォルフガングは行き場のない怒りに拳を握る。
「ウォルフ…おまえは賢い。判ってるよな。ちゃんと言えるだろ。あいつらとは、生まれた時から持っている権利が違うんだ。貴族は、生きている。だが、おれたちは、生かされているんだ」
「そんなのクソくらえッ!」
ウォルフガングは、作業場を飛び出した。
彼は走った。何処という当てがある訳でもなかったが。走らずには居られなかった。
『おまえは、きっと良い軍人になる。そうしたら、儂の補佐をしてくれるな』ハーナウ伯爵は目を細めて言った。
『…自分で確かめるといい。もっと大きくなって士官学校へ行って』いつも困った時に助けてくれた、名も知らぬ人。
「おれはそんな風になれない…。伯爵と同じ艦に乗るのも、士官学校も全部夢なんだ。わかっていた筈だろう…ウォルフガング。そうだ、判ってた。いつか夢から覚める日がくるって。だけど……もう少し、見ていたかったんだ」
ウォルフガングは、いつもお守りのように首から下げている小さな袋をぎゅっと握り締める。いつのまにか、街外れの森まで来ている。足許には、いつ追いかけてきたのだろう、老犬が心配そうに彼を窺っている。
「ニコラ」
ウォルフガングは、膝をつきニコラの首を抱いた。
「ごめんよ…ニコラ。さぁ、帰ろう」
裏庭の花壇に、黯い蝶が飛んでいる。その片隅で、ウォルフガングは小さな穴を掘る。シャベルも使わず、指先を土まみれにさせながら。傍らには、老犬が付き添うように寝そべっている。
掌を拭い、その上にそっと小袋の中の徽章を取り出す。その輝きをしばし眺め、ウォルフガングはそっと窪みの底へそれを置く。
それは、葬儀だった。
告別の言葉も、墓標もなかったが、確かに彼は、夢見ていた自分をそこに埋葬しているのだ。
辛く、悲しい事ではあったが、不思議と涙はない。いつかこの日が来る事を、彼は知っていたのかもしれない。ただ、それが早いか遅いかだけの事。
美しい徽章は、あっと言う間に土に埋もれてしまうだろう。
ウォルフガングが握った土を窪みへと落とそうとしたその時、さっと手が延びて輝く徽章を拾い上げた。
なんの変哲もない小さな庭を、瞬時に秘密の花園へと変えてその人がいた。
「いくら丹精込めても、これは花なぞ咲かせぬよ…」その冷たいほど整った容貌を心持ち緩めて、諭すような視線を彼に向けて。
「あなたは、一番いて欲しくなくて…とてもいて欲しい時に現れるんですね」
「嫌か?」
どこか心を揺さぶる低い声に、ウォルフガングは不覚にも目頭が熱くなってたまらず俯く。
「どうした?」
蜂蜜色の頭髪を揺らして、彼はかぶりをする。
「いいえ……何でもありません」
しばしの沈黙の後、憧れの人物は言った。
「諦めることはない」
ウォルフガングは、思わず顔を上げた。
「おまえは、必ず私と共に立つ。これは…地に花を咲かせるものではない」
まるで魔法にかかっように見つめるウォルフガングの手に、徽章を戻す。
「おまえの胸を飾るものだ。私を…いや、己を信じろ」
その美しい声、稀なる眼差しには、抗えぬ何かがあって彼を捕らえて放さない。
「何事も諦めない…どんな時にも希望を失わない。それが、おまえだ」
長い指が、懐かしむように乱れた蜜色の髪を掻き回す。「おまえは士官学校へ行く。そして、私の許へとやって来るんだ」手にした金髪に口付け、男は「待っている」と囁く。それは、まるで深い溜め息のようで、ウォルフガングは肩を震わせた。
「なぜなんだろう。貴方が言うと不可能な事などない気がする。僕にも出来るだろうか…」
「出来る、出来ない、ではない。これは定められた事なのだ」
「どうして、そうはっきりと言えるんですか?」
「おまえを愛しているから…おまえの事なら何でも知っている。おまえは、士官学校を優秀な成績で卒業する。『疾風ウォルフ』…用兵の早さでは誰にも負けない、それがおまえの仇名だ」
「まるで、未来をご存じのようだ。貴方は…誰?……僕は貴方の名前すら知らないというのに…」
ウォルフガングの真摯な瞳を受け止め、男はうたかたの如き笑みを口許に浮かべた。
「今の私には、おまえに語れる名もないが……」小さな庭を見回し、そして、一本の灌木を指さす。「…私だ」
「迷迭香…ヘル・ロスマリーン?」
男は、首を振る。
「敬称も何も要らない。ただロスマリーンと、それだけで良い」
「ロスマリーン…」
「そうだ」
「ロスマリーン…貴方を、いえ、貴方の仰ったように自分を信じてみます。ああ、急がなきゃ、もうすぐ迎えが来てしまう。…きっとまた、訪ねて来て下さいね」
ウォルフガングは、返された徽章を首から下げた小袋へと納めて、にっこりと微笑んだ。

伯爵の書斎で、父はその間幾度か傍らの息子に視線を走らせ、口を開きかけては止めた。そして、最後に深々と頭を下げた。
「よろしくお願い致します」
夢ではないかと、ウォルフガングは思っていた。こんな事が現実に起こるなんて。
「士官学校へ行きたくはないかね」伯爵がそう切り出した時、ウォルフガングは我が耳を疑った。
「士官学校へ行きなさい」頬を緩めて伯爵は彼を見た。「おまえの才能をこのままにしておくのは忍びない。おまえさえ良ければ、今度ミッターマイヤーを呼んで話をしよう」
「良いのですか?…本当に…行けるのですか?」
伯爵は、ゆっくりと頷いた。
ウォルフガングは、喜びに顔を輝かせるのも束の間、不安に表情を曇らせる。
「どうした?何故そんな顔をする?」
「…あ…ありがたいと思います。でも…」
「学費の事を考えておるのだな」伯爵は声をたてて笑う。
「そんなつまらん事で頭を悩ませてはいかん。金はこの儂にまかせなさい。いいかね、これは一種の投資だ。儂が有能な自分の副官を育てるのに金を使ってどこに不備があるかね。おまえは、しっかりと勉強して一日も早く立派な軍人になる事だけを考えていれば良いのだよ」
「伯爵…」
「ウォルフガング、もう、儂のことをじじとは呼んではくれんのかね」
「ファーターシャン…ありがとう」
ウォルフガングは、幼い日そのままにハーナウの頬に接吻をした。

老犬ニコラが死んだ翌日、ウォルフガングは士官学校へと旅立った。



「残念だったな、ウォルフガング」
理事用の応接室に入るなり、ハーナウ伯爵は立ち上がって親しげに彼を招き寄せた。
「おまえの出る試合を楽しみにしていたのだが。それにしても、怪我の具合はどうなんだね」
ウォルフガングは、敬礼姿も初々しく伯爵に挨拶する。
「お久し振りです。腕は、もう痛みません。それより、申し訳ありませんでした。己の不注意で閣下に日頃の成果をお見せ出来ないのが、悔やまれます」
「まあ、良い。おまえの成績が期待以上のものである事は、知っとる。それだけでも、儂は満足だよ。そんなに畏まらずとも良いから、もっと近くで顔を見せておくれ」
白い夏用の制帽を手に姿勢を崩さないウォルフガングに歩み寄り、肩に手をやって、伯爵は嬉しそうに眼を細めた。

浅い夏の日、士官学校は開校記念の行事の為、朝早くから来客で賑わう。
開校記念日には、日頃の鍛練の成果を知らしめる為に模擬戦や武術トーナメント、最新鋭の戦闘機によるデモンストレーション飛行などが行われることになっており、軍関係者はもとより子弟を送りだしている貴族達が、己の自尊心を満足させるが為に大挙して学校を訪れる。卒業式典の次に華やかな日。学校内外の教練場や離着陸用カタパルト脇に作られた観覧席には、着飾った紳士淑女が我が子の勇姿を見んと集まり、自慢話に花を咲かせる。
しかし、ウォルフガングにはそのいずれもが関係の無い事柄だった。
彼には、理事として臨席する伯爵に挨拶した後は何もする事が無い。せめて家族でも招待できれば良かったのだが、彼の両親は、自分達はそのような華やかな場に出席出来るような身分ではないとかたくなに言い張って、面会に来ることすらなかった。
本当は今頃、体育館で彼は武術トーナメントに出ている筈だった。ハーナウ伯の面前で、自分がどんなに成長したかお見せできる筈だった。そう、骨折さえしなければ。
二週間前に武術トーナメントの組み合わせが発表され、そこに自分の名前を見付けた時の彼の喜び。新入生で選手に選ばれる事はまれであったので、誇らしくすら思った。でもそれはほんの束の間で、その晩には彼の右手は使い物にならなくなっていた。折れた手首で一晩眠れぬ夜を過ごした後、訪れた医務室で医師は腫れ上がった彼の腕を診ても原因を尋ねようとはしなかった。
──わざと手を抜いて負けるなど、死んでも出来ない。
呼び出しに応じた彼の目の前に、貴族は無造作に金を置いた。それを見て、ウォルフガングは余りの屈辱に言葉を失う。
──紙幣の枚数、金額だけ侮辱の言葉を投げつけているのだと、何故判らないのだろう。
そして彼等は、金で問題が解決しないと知ると数人で押さえつけ、無情にも彼の利き腕を折ったのだ。
腕を折られた事よりも、試合に出られない事の方が何より辛い。
怪我をしている事で総ての分担から外されているウォルフガングは、する事もなく校内の喧騒から逃れるように宿舎へと足を向けた。
寮の裏庭に、一本のユリノキがある。
甘い芳香が静寂に漂うその根元のベンチに腰を下ろし、ウォルフガングは、持っていた本を開く。
時折、高い木の梢からぱさりと音をたてて緑黄色の花が落ちる。凪いだ風を震わせて、香りが散る。
続けざまにふたつ、花のたてた音を聞いてウォルフガングは、ふと頁に落としていた視線を上げた。
「ロスマリーン…」
呟き、慌てて立ち上がり姿勢を正す。
ウォルフガングは、その人が元帥である事を、自分のような者が一生かかっても親しく口をきけるような人物でない事を、此処へ入って程なく知った。
「どうした…ウォルフガング」
急に畏まり、ぎこちなく敬礼する彼を見咎めるように、ロスマリーンは眉を顰める。
「元帥閣下には、お見苦しい所をお見せしました」
「ウォルフガング」
「はっ」
すっと彼に歩み寄り、ロスマリーンは掲げられた手を労るように握った。
「敬礼など必要ない。元帥も閣下も止めろ。ロスマリーンと呼んでくれ。おまえの前では、ただの無力な男なのだから」
言いざま、痛々しく包帯の施された手にその人が唇を寄せるのを、ウォルフガングは信じられない思いで眺めた。
「痛むか?」
「いえ」濃い金茶の睫毛をしきりに瞬かせて、彼はロスマリーンを見る。
「不自由はないか?何故、卿ともっと早く出会えなかったのか不思議に思っていたが、今判った。辛かっただろう」
その言葉の意味を計りかねて、ウォルフガングは開いた口に登らせる言葉を捜す。
「いえ…いいえ。これも、左手を鍛える為の訓練だと思えば何とも…」
「ウォルフ、良い顔をしている」
「貴方は、何故だろう…出会った頃と、ちっとも変わらない。閣…」言い淀み思案するように一旦伏せた灰色の眼を上げる。「ロスマリーン、きっと警護兵が貴方を捜しています」
「私は、読書の邪魔か?」
「そんなことっ」思わず言ってしまって、ウォルフガングは、相手の目の中に軽い揶揄を見つけ羞恥に赤くなる。
「そんな事ありません。本当を言うと、もう貴方は訪ねてくださらないと思ってました」
「何故?」
「自分は、ここで色々なことを学びましたから」
「例えば?」
「例えば…貴方の身につけておられるのが元帥のそれである、とか…ロスマリーンという名の元帥は存在しない…とか」
「一体何を学んだか知らんが、余り有効な知識とは言えんな」
ロスマリーンがクックと笑う。それにウォルフガングは、少し拗ねたような、困ったような曖昧な笑みを返す。
「偽名を使ってまで貴方が会いに来てくださると思うほど、自分は自信家でも愚かでもないつもりです」
「ウォルフガング」ロスマリーンの二色の瞳は、さき程の戯れとは打って変わった真剣さを湛え彼を写している。「己を卑下してはいけない。おまえは、私が愛した唯一の者なのだから」
「ロスマリーン…」
「信じられない、という顔をしている」
ウォルフガングは、強張った笑みを作りかぶりを振った。
「自分は…もう、小さな子供ではありませんから…」
「偽りの言葉などいらない、と…?」
「とんでもありません」
「愛している」
「待ってください」
「おまえが、信じてくれるまで、何度でも言おう…愛している、と」
「ロスマリーン、何故です?何故そんな簡単に…愛…してる…等と仰るのです?」ウォルフガングは、はにかむように俯いて『愛している』という言葉を口にした。
「私はかつて、愛という言葉もその意味も信じていなかった。愛というものに溺れ一喜一憂する輩を、嘲笑いもした。私は、誰も愛さないだろうと思っていたし、また、誰からも愛されなくとも平気だった。所詮、人は孤独のうちに生まれ、孤独のうちに死ぬのだから。…私の人生に、愛は必要ない。なまじ愛などというものがあるから、物事が複雑になるのだ、と。……しかし、それがいかに寂しく愚かしい事であったか。たとえどんなに否定しようとも、欺けない想いというものが誰にでもあるものだ。その事に気づくには、少々時間がかかり過ぎてはいたが…」ロスマリーンの口許には、苦い笑みが張り付いている。
その懺悔にも似た告白を聞いて、ウォルフガングは灰色の瞳を自ら深く傷付いたように曇らせる。
「だから、私は、おまえに幾度愛していると言っても、言い足りる事などないのだ」
ロスマリーンの冷たい指先が、頬に触れた。
「ウォルフガング…許してくれるか」
ウォルフガングは、蜂蜜色の頭髪を揺すった。
「許してくれなどと、仰らないでください」
「おまえはそのままで、何一つ変わる必要は無い。ただ、私を受け入れてくれれば、それで」
「ロスマリーン…」激しい動揺に唇が震える。
「駄目か?」
ウォルフガングは、大きな吐息を漏らした。困惑の色は隠せない。彼は、自分が何を望まれているのか、そして、他ならぬ自分自身の気持ちが判らなくて、どうしたらいいのか返答に窮している。頼り無く開きかけた唇を、幾度となく湿しては、一言もなく閉ざす。
花の香りは、息苦しい程に甘い。
「ロスマリーン…貴方に、逢いたかった」
ようやくそれだけ言葉にして、眼を伏せる。ロスマリーンの瞳は、そのまま見続けるには危険すぎたから。
ふわりと空気が揺らぎ、大きな腕に抱かれるのをウォルフガングは感じた。彼は逃げようともせず、むしろ心地好いそれに、自分がいかに彼を待っていたのかを知る。
「何時もおまえを想っている。だから、早く来て、私を見つけて、私の孤独を癒してくれ…ウォルフ」
ウォルフガングは、言葉もなく、ただただ頷くばかりだった。

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