ロスマリーン3 by DEDI



美しく口髭をたくわえた大佐は、執務室の机の向こうで書類に眼を遣ったきり、彼を待たせているそぶりも見せず、しばらくウォルフガングを起立させたままでいた。
ウォルフガングは、頭ひとつ揺るがす事なく灰色の瞳を真っ直ぐ前に向けて、彫像のように動かない。室内は、ファンの微かな音がするだけで、まるで基地内の総ての静寂を集めているようだった。
突然、ジグマリンゲン大佐は傍らのファイルを腹立たしげにペンで弾いた。
「ミッターマイヤー少尉…失礼、中尉」手入れの行き届いた髭が、あからさまな皮肉を湛え微かに歪む。
「先の作戦では、ホーエンツォレルン子爵のご子息を助け勝利に導いたそうだが、ご苦労だった」
「ありがとうございます」
ジグマリンゲンは、手に持ったファイルに視線を走らせながら席を離れ、机を回って彼に近付いた。
「トマホークの扱いも、銃器の扱いも文句ない。戦術論から航空力学まで、他の者を寄せつけない優秀さ。卿は、士官学校を首席で卒業したそうだが、総代を辞退したそうじゃないか。何故だね?」
「恐れながら、小官は、それに意味を見いだせませんでしたので。小官は、総代になる為に頑張った訳でなく、軍人になる為に日々過ごしてまいりましたから」
「実に、優等生らしい返答だ」大佐はファイルを置き、ひとつ拍手をして机に腰掛けるように長身をもたせかけた。
「卿の同期で、既に中尉となっている者が何人いるか知っているかな?」榛色の瞳を眇めて彼を窺う。
「いえ」
もったいぶった間を開けて、ジグマリンゲンは綺麗にマニキュアされた人指し指を差し出した。
「ひとり…。私の部下である卿ひとりが、いまのところ中尉という訳だ。本当に名誉な事だよ」
口では一見誉めているようでそうでない態度は、大佐のいつもの癖だ。爵位を持つこの男は、ウォルフガングが配属された当初から、平民の彼が自分の部下として存在することに露骨に嫌な顔をした。初めは無視し、それが不可能となると遠回しに言葉で嬲る。
「実に喜ばしい事だ…時に、卿の父君の職業は何…だったかな?」
「造園業を営んでおります」ウォルフガングは臆する事なく答える。相手の意図は判っていたが、彼は父もその仕事も尊敬していたので、なんら劣等感を覚える事は無い。むしろ、胸を張って誰にでも語っただろう。
そんな彼を見て、ジグマリンゲンは、口許を押さえ忍び笑いを漏らす。
「いや、失礼…。いくら人材不足とはいえ、庭師の息子が出世頭とは…」
ジグマリンゲンは、左手の大きな貴石の嵌まった指輪を撫でながら薄く笑ったきり、会話を途切れさせる。いかにすれば相手により多くの不快感を与えられるか、それを熟知しているのだ。
やおら、ジグマリンゲンは、躰を起こし彼を見下ろした。
「功に卑しいのは、平民の性だな。卿は敬譲という事を知らんのかね」
「どういう意味でしょう」平静を保ちつつ、ウォルフガングは己の上官と視線を交わした。
「優秀な卿とは思えん言葉だな。私の部下は、一部卿のような例外を除き、殆どが名家の出なのだよ。平民の君にはわからんだろうが、我々貴族には、守らねばならぬ名誉というものがある。それなりに名の通った家というものは、背負っている責任も期待も大きい。いいかね、同じ事を成し遂げても平民は喝采を以て迎えられ、我々貴族にとっては、当然なのだ。…この意味がわかるかね?」
ウォルフガングは視線はそのままに、唇を引き結んだ。微妙な緊張を伴う沈黙が二人の間を過る。
「分をわきまえ給え」それは、今までの柔らかな物腰とうって変わった冷たい口調だった。
「小官に手を抜け、と仰るのですか?」心なしか、唇が震える。
「少しは遠慮するものだ…」ジグマリンゲンは当然のように応える。
「お断りします。そのような、規則にも道義にも反する事は出来ません」ウォルフガングはきっぱりと言い切った。
「ミッターマイヤー、私は、卿の意見を求めている訳ではない。いいかね、これは依頼ではなく、命令なのだ」
「承服致しかねます」ウォルフガングは、強い意志を秘め相手を見返す。
「中尉は、己の立場というものが全然判っていないようだな。平民が貴族の何であるか、どうやら教えてやる必要があるようだ」言いざま、ジグマリンゲンの左手が薙ぐように動き、彼の左頬で派手な音をたてた。
傾ぎそうになる躰をすんでで押し止め、ウォルフガングはそれでも視線を逸らさない。
「おやおや、可愛らしい顔に傷を付けてしまった」ジグマリンゲンは、ウォルフガングの頬に一筋走った赤い糸に目を止め、顎を掴む。「何も知りませんといった顔をして、一体どうやって、伯爵をたらしこんだ?」頬の血を指で拭い、血塗られた指先を舌を出して嘗る。
「今ここで、おまえに礼儀作法というものを教えてやろう」
頬を歪めて笑みを作り、ジグマリンゲンは近距離からウォルフガングの腹に膝を入れた。自然、前屈みになる小柄な躰を頭髪を掴んで引き起こし、耳朶を嘗めるようにして言った。
「きつい目をしている。つくづく征服欲をそそる男だ。…私のものになりたまえ」
ウォルフガングは、全身の毛が逆立つような寒けに襲われ、反射的に大佐から離れようと身もがく。しかし、振り払おうとした腕はあっさりと掴まれ、執務机に押し付けるように後ろ手に捩じり伏せられてしまう。体格差と、一瞬の気後れが彼を退引きならぬ状態へと落とし入れていた。
「放してください」不自由な体勢で、ウォルフガングは背後をかえりみた。
「駄目だ。言っただろう…私のものになれと。ハーナウ伯がいなくて、おまえも寂しかろう。代わりにたっぷりと可愛がってやる」
大佐の手が腰に回りベルトを外す。
「止めろッ!」咄嗟に制止の言葉が口をついて出た。
「この私に向かって命令するとは良い根性だ。言葉遣いも教えてやらねばならないかな?」
言いしな、ウォルフガングの上体を引き起こし、男は力任せに彼を机に叩きつける。机の上のペーパーウェイトが鈍い音をたてて床に転がった。
背後から器用に下着ごとズボンを引きずり下ろし、貴族の男は笑った。
「声をあげても構わんぞ。ここは完全防音だからな」
男が押し入ってきた瞬間、ウォルフガングは唇を噛み締めて悲鳴を殺した。引き裂かれる痛みに眼が霞み、油汗が躰を濡らす。
「狭いな。何も伯爵に義理立てする必要もなかろうに。拒めば拒む程、苦しいのは判っている筈だ。ハーナウ伯はどのようにおまえを抱いた?」途中まで入れた腰を引いて、こんな時ですら、男は饒舌だ。
「伯爵は、そんな御人ではない…」
「では、噂は噂にしか過ぎなかったという訳か。伯爵も酔狂なものだ。平民は、こうやって可愛がる以外に何の役に立つというのだ。だから、おまえのような思い上がりが出て来るのだ。…しかし、面白い。初めてだとは。生娘を犯るよりも刺激的だな」低く笑って、今度は深く腰を入れた。
ウォルフガングの喉が苦し気に鳴り、蜂蜜色の髪が震えた。
肩を歪めて、彼は身内を穿つ衝撃に耐える。圧倒的な苦痛が、屈辱を紛らわせてくれていた。
息を荒らげて、男は衝動のままに腰を動かす。
猥雑な空気を、突然机の上のインターコムの呼び出し音が鋭く切り裂いた。
大佐は行為を中断しようともせずに、後ろから長い手を延ばして不機嫌そうな声で返事をする。
「ロスベルグ少佐がお見えになっております」
激しく突き上げられ、ウォルフガングは机上に置かれたファイルの表紙を握り締める。それでも耐え切れず、縋るものを求めて手を延ばす。その指が、下げられずに残されていた飲み物のグラスを倒し、床で砕けた。
「如何なされました?」
「何でもない。少佐は待たせておけ」何事も無いような口ぶりで応えスイッチを切る。
耳元でジグマリンゲンは、ただ相手を嬲るためにだけ囁く。
「良い声を聞かせてやってもよいだろうに」掠れた品の無い笑い声をひとつ。「おまえは最高だ」
懸命に見開いた眼に汗が入って、ウォルフガングの視界を滲ませる。現実から目を背ける事だけはしたくなかったので、彼は眼を瞑ることを拒否している。瞬きを繰り返し、偏光硝子の窓を見つめる。本来ならば、夕日が眩しい程の光を投げ掛けている筈であるそれを。しかし、今は、ぶざまに這い蹲ばった己とその背にのし掛かる獣のような男が光度を落とされたその表面に映っている。
荒い息と唸りを漏らしながら、男の彼を苛む動きが一層激しくなってゆく。余りの痛みに歪んだ視界の中、幾千という黒い蝶が舞い飛んで彼の視力を奪っていった。
「三十秒時間をやろう。身繕いを済ませてさっさと出て行くのだな」獣は人の姿に戻っていた。時計を見遣り、「つい夢中になりすぎて、ロスベルグを待たせてしまった」と呟く。
傷付いた顔など死んでも見せたくなかったので、ウォルフガングは膝の震えを、躰の痛みを無視する。そして、毅然と頭を上げた。
「そんな眼で見るな。おまえが私の愛玩物であるという噂を、現実のものにしただけだろう」ねっとりと絡み付くような口調で男は言った。「躰の代償に昇進。それは確かに受け取った。もはや、おまえと私は共犯者なのだよ」
それに一言も返す事が出来ない自分に腹をたてながら、ウォルフガングは屈辱の場を後にした。

職務と訓練でくたくたになるまで躰と頭を使い、部屋へ帰れば泥のように眠る。おのが身に起きた事にいつまでも捕らわれていられる程、彼は暇ではなかった。勤勉に働くことで、悪夢のような出来事は追い立てられる様な日常に紛れてしまうだろう。待つ人がいたので、彼に立ち止まることは許されなかった。
その日、彼のもとへ小包がひとつ届けられた。それは、ハーナウ伯からのもので、開いて見ると機能的な腕時計が納まっていた。添えてあった手紙には、遅くなったが昇進祝いだという事が書かれていた。
経験を積み、一刻も早く伯爵の力になれるような軍人になりたい。そして、伯爵の側にいれば、元帥にお会いする機会もあるだろう。伯爵の期待が彼を支え、ロスマリーンとの約束が彼を前へと進ませる。彼等の想いさえあれば、どんなに故の無い誹謗や中傷を受けても耐えられた。未来は彼方にあるとしても、届かない筈はないと信じていたから。明日を信じて、今日を生き、夢叶う日は必ず来るのだと。
ウォルフガングは、定時に基地を出て、官舎へと足取りも軽く帰って行く。一刻も早く伯爵への御礼の手紙を書かねばと、彼は急いでいた。通信手段が多々あるなか、手紙という古風なものが一番趣があって彼は好きだった。
──そうだ、家にも書こう。たまには息を抜いて、家族や友達の事を考えるのもいいだろう。備品でなく、封筒と便箋を買って…。
彼は、通りの向こう美しくディスプレイされた文房具店のショーケースに目を止めた。道を渡り、上等な浅葱色の便箋と揃いの封筒を買い求める。
優しい気持ちになって出て来た彼の目の前に、高級車が音もなく停った。
後部のスモークウィンドウが下り、見たくもない顔が覗く。
「乗りたまえ」と、男は言った。
「勤務中ではないのですが、それは命令ですか?」ウォルフガングの眼が険しくなる。
「いや」男はいつものように薄く笑う。「君のところに菫色の眼をした可愛らしい娘がいたね…なんといったかな…そう、エヴァンゼリン」
ウォルフガングは息が停まるような衝撃を受けた。
「彼女はまだ子供だ!」
「だからこそ、良いという人間もいるのだよ」
激しい憎悪を映して、灰色の瞳は微妙な青紫に揺れる。
「乗りたまえ…」男は、ドアを開けて繰り返す。「これは、忠告だ」
車に乗り込むと、ジグマリンゲンは運転手に行き先を告げ、運転席との間のシールドを下ろした。
滑らかに車が走り出す。
ウォルフガングは、男の視線が自分に注がれているのを感じながら、窓の外に視線を遣ったきり押し黙った。
貴族の男は、品定めするように眼を眇てブランデーを嘗めている。それは、あからさまに、『見ているのだ』というポーズだった。そうして、『見られている』彼の様子を観察して楽しんでいる。視線はその言葉以上に多弁で、奇妙な沈黙が車内を支配していた。
「あれが何か、分かるかね」
窓の外に見えるものが、郊外の冬枯れた木立ばかりになり始めた頃、やおらジグマリンゲンが口を開いた。
「あの建物は、会員制の高級娼館だ。そこに暮らすのは、元はどこそこの侯爵の妾だったとか、そんな娘ばかりでね。まあ、たかだか平民の娘…二、三年良い目を見たのだから仕方がない。それに、あそこの暮らしもまんざらではないのだよ。愛妾でいた頃とは比べものにはならんが、平民の暮らしを思えば天国のような所さ」
近付いてくる瀟洒な館からゆっくりと視線を外し、ウォルフガングは相手を睨んだ。
「やっと、こっちを向いた」口髭が微笑に歪む。「嫌なら車を戻しても良いのだが?」じっと視線を交わしたまま、ジグマリンゲン意地悪く問いかける。「返事がないのは、『良い』という事かな?」怒りを煽るように言って、「では、私達も行こう、『妖精の館』へ。あそこは、女を世話するだけでなく、秘密を保てる空間をも提供するのだよ」グラスを干した。

案内されたのは中庭に面した二階の一室で、ウォルフガングは所在無げに窓辺に佇んでいた。
ジグマリンゲンは、館の女主人と話が有ると言って彼をひとり置いたまま、未だ姿を見せない。
窓硝子に映る己の顔は、冬空のせいか青く強ばっているように見える。それを認めたくなくて、彼は贅沢にドレープのはいったカーテンの陰からそっと庭を見下ろした。
小さいながらも手入れの行き届いた庭、それは父の仕事を思わせる。
ウンディーネの噴水を中心に美しく整えられた花壇、今は春を待って刈り込まれた木々、その中に取り残された様に緑を茂らせた薔薇が目を引く。
──あれは、ウィンターローズ…。
ぽつんとひとつ抜けたように白い蕾が花開こうとしている。
風にゆらゆらと揺れる一輪の薔薇。それにどこからか、闇夜の翅を持った蝶が留まった。蝶の翅は、冬の陽に照らされて虹色に輝く。
カチリと背後でドアノブの廻される音がする。近づく人の気配を感じながら、ウォルフガングはことさら熱心に蝶と薔薇を見つめる。
背後から腕を回し、耳元を擽るように低く笑う。ジグマリンゲンの手が軍服の釦にかかった時、ウォルフガングは思わず眼を閉じた。
「逃げぬのか?」揶揄うように言いながら、男ははだけた胸もとに指先を忍び込ませてくる。
再び開いた眸に、見覚えのある背中が映った。
──そんな…。
均整の取れた美しいその後ろ姿。見紛うべくもないが、こんな場所にいる筈もない人だった。
今、その人は、目の前の開きかけた薔薇を手折ろうとしている。
身体中を許せない男に撫で廻され、精一杯無理をしている自分を、その時初めてウォルフガングは感じた。
──嫌だ。
思わず零れそうになった涙を堪える為に眼を瞑る。涙を見せる訳にはいかない。噛み締めた唇から細く息を吐いて、ウォルフガングは思い切るように灰色の眸を開いた。しかし、もはやそこには、薔薇の蕾も人影もない。はじめから何も存在しなかったかのように、眼下には、ただ冬の庭が寂しげな顔をみせている。
「おいで…」
ウォルフガングは黙ってそれに従った。

喉が渇いて仕方がない。
無理矢理飲まされた酒には、アルコール以外のものが混ぜられていた。自室へ戻り、シャワーを浴びても一向に渇きの癒される様子もなく、彼を苛立たせる。濡れた髪から雫を滴らせながら、ウォルフガングはグラスの水を飲み干す。その姿は彼に似合わず、どこかやつれ、頽れている。薬は、理性を失わせはするが、その記憶まで奪うものではなく、思い出したくもない事柄を彼の心に焼き付けた。拭い切れない影が、彼に違った顔をさせていた。
そして何より、別れ際にジグマリンゲンの言った言葉が、常に頭の隅にあり彼の心を凍えさせている。
「良い事を教えてやろう。おまえの転属が決まった。明後日にはイゼルローン行きの輸送船の中だ。だが、おまえが行くのはそこ止まりではない。悪名高き『ケルベロスの顎』の指揮官としての転属だ。…どうだ、栄転だろう」口髭を撫でながら大佐は何時ものように薄笑いを浮かべた。
「少々惜しい気もするが、平民の代わりはいくらでもいる。……少佐になって戻ってくるのだな」
──ケルベロスの顎…。
ウォルフガングは、手にしたグラスを握り締める。
レアメタルの鉱山を背後にしたそこは、基地とは名だけの悲惨な最前線で、常に反乱軍との争奪戦が繰り広げられており、生還率は片手ほどにも届かない。
深い絶望に打ちのめされて、彼はひとりだ。
自分がいかに、無力で矮小な存在であることか。信じていた明日が目の前で無残にも脆く崩れてゆく様を、手を拱いて見ていることしか出来ない。
今まで彼は、己を不幸だと思ったことは一度もなかったし、またそんな負の思考そのものが嫌いだった。しかし、その時彼は生まれて初めて自らを憐れむことを知った。
幸せと感謝を伝える為に買った便箋に、虚しい嘘ばかりを並べては破り捨てる。家族にも伯爵にも真実を伝える勇気を、今の彼は持たなかった。
泣きたいのに、涙も出ない。
幼い日に貰った美しい徽章は、机の上で変わらない光を放っている。
「ロスマリーン…もう貴方に、お会いすることもないのですね」ひとりごちて冷たい金属の板に触れる。
「私を、呼んだか…」
その声を耳にした瞬間、彼の躰に震えが走った。そして、そんな筈はないと自分を笑い、頭を振る。
徽章に触れていた手の上に自分のものではない、大きく、だが綺麗な手が重ねられた。途端、ウォルフガングの中でそれでもどうにか彼を支え続けていた何かが壊れた。重ねられた手を掴み縋るようにして、初めて彼の頬を涙が伝った。
「不甲斐ない自分を、許してください。今だけ、ほんの少しの間で良いんです。泣き言を言わせて…そしたら、いつものように笑って戦場へ赴きます…」
返答の代わりに、懐かしい手が幾度も髪を撫でる。
「貴方との約束…果たせそうにない。自分は、精一杯頑張ったつもりです。だけど…もう、駄目なんです。一歩も進めない…」嗚咽が彼の喉を塞いだ。
優しい手が彼の顔を上げ、引き寄せるようにして広い胸に抱き留められる。変わらないロスマリーンの二色の瞳が彼を覗いている。だが、泣き顔を見られたことを恥と思うゆとりはない。
「……お慕いしてました」
ウォルフガングの頬に添えられた指が、愛しむように蜂蜜色の髪へと滑り、形良い小さな頭を捕らえる。ロスマリーンの端正な顔がゆっくりと近付いて、唇が重なる。優しい口付けに、見瞠かれたままだった眼はやがてゆっくりと閉ざされた。
ロスマリーンとの接吻は痺れるように甘く、切ない。猥雑さの微塵も無く、互いを確かめるように触れ合う永遠の一瞬。ウォルフガングは夢を見た。共に宇宙駆ける姿を。
「愛している」とロスマリーンは言い、「愛してくれませんか?」とウォルフガングは問う。
「本当に、良いのか?」
「貴方がお嫌でなければ…」
金銀妖瞳は、その心の奥底までを求め、灰色の瞳は、胸を切り裂いて見せたいほどの真実を伝える。
言葉はもう無用だった。
互いに唇を合わせ、いつのまにかふたりの着衣が床に落ちた。
縺れ合うように倒れ込んだ寝台は、狭く窮屈であったが気にはならない。ふたりとも、目の前の相手を確かめ、慈しむのに夢中だった。
何度も何度も接吻をして相手の唇を覚え、くまなく巡る指は髪を乱し互いの躰を覚える。睦言を交す代わりに愛撫しあい、見つめ合う眼で愛を語る。
触れるのも触れられるのも、嫌ではなかった。あくまでも優しく慎重なロスマリーンに対して、彼のそれは稚拙ではあったが、それ故にかえってウォルフガングは懸命だった。
与えられるものに身を委ねてしまいたいと考えない訳ではなかったが、自分ひとりでは嫌だと、彼は思う。最後だという想いが、ウォルフガングを大胆にさせていたのかもしれない。
「来てください…」
吐息に紛れさせるように、しかしはっきりとそう言って、ウォルフガングは接吻する。
美しいロスマリーンの顔を見つめたまま彼はその時を待った。ほんの少しも忘れたくなかったので。
やがてゆっくりと彼が入って来て、ウォルフガングに深い息をつかせる。体内に己のものでない熱を感じて、それが苦しいわけでもないのに彼は灰色の瞳に涙を溢れさせた。
ウォルフガングの涙をかけがえのない物のようにロスマリーンは唇に受け取った。

朝、ウォルフガングはひとり目覚める。
誰かの気配を身近に感じて、彼はぼんやりとした明かりのなか、部屋を見回した。その誰かが、自分の名を呼び、別れを告げたような気がしてならない。
……夢…だったのだろうか…?
夢の中で、忘れてはいけない記憶をやっとの思いで手に入れたという不確かな感覚が彼には残っていた。だがしかし、そんな捕えどころのない想いは、鳴り出した目覚まし時計に掻き乱され、早朝の大気の中に消える。
明日の午後には、ウォルフガングはイゼルローンに向かわねばならなかった。

ウォルフガングはイゼルローンへ行ったが、『ケルベロスの顎』へ行く事もなく、オスカー・フォン・ロイエンタールという男と出会った。


◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇


そして今、彼は、親友であった筈の男に会う為に冷たいハイネセンの総督府の廊下を歩いている。彼を待つ現実は非情なものだったが、その歩調が滞ることはない。
ロイエンタールは、静かにそこに居た。常変わらぬ姿で。
他の者が気をきかせて出て行った総督室には彼のほかに人も無く、染み入るような静寂が死の衣を翻している。
大好きだった美しい色違いの瞳が、もう二度と彼を映すことはない。
──永遠に失われたのだ。
彼の名を呼ぶ、なんとも言いがたい響きを伴った声も帰らない。
机上に置かれた欠けて半分になった元帥の徽章が、親友の受けた傷の深さを何よりも雄弁に物語っている。
手を延ばし、その光輝く表面に触れた途端、電流のようなものが走ってウォルフガングは驚きに指を引っ込める。そして、もう一度、ゆっくりと触れる。
彼には、それを拭き清めることはできても、親友から奪うことはどうしても出来ない。
その眠る様な死に顔を見つめたきり、押し黙って部屋の隅の椅子にウォルフガングは腰を下ろした。ふたりの間をいたずらに時が過ぎて行く。空気すらそよがない。
何も語らず、何も行わずウォルフガングは部屋を出た。
廊下で、従卒の少年がロイエンタールの徽章の失われた半分を彼に差し出した。
それを受け取った時、彼はまた、失われていた己の大切な記憶をも取り戻した。
そうして、思い出は、永遠の岸辺から細波のように寄せては愛をもって彼を包み続けるだろう。
迷迭香−ロスマリーン−は、愛と誠…そして、死の象徴。


何度も申し上げますが、獅子丸が一番好きなDEDIの小説はこのお話です。切なくて涙が出ます。
ところが、この話を書いているときのDとの会話ときたら…「幽霊になってミッターマイヤーに会いに行くのよ」「いわゆるすり込みってやつね」「そそ、生まれたときから出会うまでのミッターマイヤーも俺のモノにしておく!!」「いざ出会ったらよそ見することが出来ないようにしておく訳ね」「当然でしょ」「ベビー・ミッターマイヤーの部屋に忍び込んでファーストキスはいただいたのに」「ヴァージンはいただかれてしまったアホなヤツ」…ま〜、いっぱいお話しましたわ(笑)
いつも私は、彼女が語る物語の断片世界を繰り返し繰り返し聞かされながら完成するのを待ち侘びていました。
彼女のたくさんの引き出しの中には、2人を主人公にした話が数限りなく生まれていたのだと思います。
その中の一つ、このロスマリーンの世界設定に出てくるハーナウ伯爵というのは、とても大切な人物だったのです。
2人の出会い、ミッターマイヤーのこと、ロイエンタールが知ってしまったこと…いつかきっと物語として生まれると信じていましたが…残念です。
それでも、形として残してくれたこの物語の美しさはずっと忘れられないと思います。

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